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悪役令嬢を推すのはやめてください、王太子殿下  作者: 夜凪 蒼


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第30話「次の物語も、きみと」

断罪の夜から、季節がひとつ巡った。


 わたしとリオネルの婚約は、晴れて本物になった。政略でも破滅フラグでもなく、わたし自身が選んだ本物の。社交界の風当たりも、少しずつ和らいでいる。何よりリオネルの推し活は——相変わらず、絶好調だった。


「セリーヌ。今朝の、紅茶を飲むときの、小指の角度。三度ほど、尊さが更新されました」


「朝から、何を観察してるんですか」


「あなたを。生涯をかけて」


 観察日記は、九巻目に入ったらしい。もはや、止める気力もない。困ったことに最近はわたしのほうも、彼を観察している。今日の彼の機嫌は、髪の跳ね方でわかる。退屈しているときは、ペンを回す。──気づけばわたしも立派な推し活仲間に堕ちていた。誰にも、言わないけれど。


 たとえば、昨日。彼が会議で疲れた顔をしていたから、わたしは黙って甘さ控えめの紅茶を淹れてやった。蜂蜜を入れすぎる彼への、ささやかな仕返し兼労り。彼はそれを一口飲んで世界の真理に触れたみたいな顔をして、また手帳に何か書いていた。きっと『セリーヌが淹れてくれた。尊い』とでも書いたのだろう。そういうなんでもないやりとりが、わたしの毎日を少しずつまぶしくしていく。


 婚約者になって変わったことは、ほかにもある。リオネルはわたしの前で、よく笑うようになった。完璧に作られた微笑みじゃなく、子どもみたいにくしゃっと崩れる笑い方で。あのガラス玉みたいだった目に、今はちゃんと光が宿っている。わたしがその光を灯したのだと思うと——柄にもなく、誇らしい。誰にも言わないけれど。手帳になんて、絶対に書かないけれど。


 ……いや、書いているのだけれど。あの、こっそり棚に隠した手帳に。彼が子どもみたいに笑った日のことをひとつ残らず。どうか、誰にも見つかりませんように。特に本人には。


 穏やかな、日々だった。


 半年前あれほど焦がれた『平穏』とは、少し違う。もっと騒がしくて、もっとあたたかい。これがわたしの選んだ未来。出口をくぐらずに閉じて手に入れた、わたしだけの物語。


 でも——物語は、まだ終わっていなかった。


 その日わたしの部屋に、差出人のない手紙が届いた。


 封を切ると中には一行だけ。『おめでとう。だが、これは序章にすぎない』。筆跡には、見覚えがない。けれどその冷たい文面に、ロザムンドの警告がよみがえる。あの方はまだ何も諦めていない、と。


 黒幕は、まだ影の中にいる。ヴァルモア家を狙った理由も、その正体もわからないまま。今回の騒ぎは、終わりじゃない。きっともっと大きな何かの、始まりにすぎないのだ。


 誰が何のために。考えても、答えは出ない。ただひとつだけ、確かなことがある。今度の相手はロザムンドや侯爵家なんかより、ずっと大きい。王家そのものを、揺さぶれるほどの何か。半年前ならこんな手紙、こわくて眠れなかっただろう。でも今は不思議と肝が据わっていた。一人じゃ、ないから。


 半年前のわたしは黒幕の影に怯えて、一人で逃げることばかり考えていた。けれど今はその同じ影を前にして、奇妙なほど落ち着いている。たぶん、隣にこの人がいるからだ。何があっても一緒に笑い飛ばしてくれる、推し馬鹿な王太子が。一人で抱える恐怖と二人で分け合う恐怖は、まるで重さが違う。


 わたしは手紙をそっと引き出しにしまった。リオネルには、まだ言わない。今日くらいは穏やかな顔をさせてあげたいから。


 手紙の差出人が誰であれ、向こうがその気ならいずれまた動き出す。そのときは、受けて立つだけだ。今度は、逃げない。一人でもない。──そう思える自分に、わたしは少しだけ誇りを感じていた。半年前の断罪から逃げ回るだけだった令嬢は、もうどこにもいない。


 その夜。庭で二人で月を見ていた。満月では、ない。半分だけ、欠けた月。


「リオネル」


「はい」


「あなたの見た、あの夢の続き。まだ、教えてくれないんですか」


 彼はふっと笑った。それから月を見上げたまま、ぽつりと言った。


「あの夢ではね。断罪の夜を乗り越えた先に、もっと大きな『山場』が待っているんです。今度は、王家そのものを揺るがすような。──次の『章』が、もう、すぐそこまで来ている」


 次の、章。


 その言葉の選び方に、わたしはぞくりとした。それはまるで——物語を、外から眺めている者の言い方だった。わたしが前世のゲーム知識で、この世界を語るときのあの感覚。


「リオネル。あなた、もしかして——」


「さあ。続きは、また、いつか」


 彼はいたずらっぽく、わたしの言葉を遮った。けれどその目の奥にはいつもの推し馬鹿な熱とは別の、何か底の知れない光が揺れていた気がした。


 この人はわたしの知らない何かを知っている。きっとわたしと同じか、それ以上に。


 でもそれでいい、と思った。秘密を抱えた者同士。わたしも前世のことを、まだ全部は話していない。お互い手札を伏せたまま、それでも隣を歩く。いつか、二人とも覚悟ができたら。そのとき、全部を打ち明け合えばいい。次の『章』を一緒にめくりながら。


 わからないことだらけだ。黒幕の正体も。リオネルの秘密も。次に来る『山場』が何なのかも。


 でももう、こわくなかった。


 一人で抱える物語なら、こわかった。でも今は、隣にこの人がいる。間の抜けた軽口を叩いてわたしを尊いと言い募る、推し馬鹿なわたしの婚約者が。


「ねえ、リオネル」


「はい」


「次の物語が来ても。──また、隣にいてくれます?」


 彼はわたしの手をそっと握った。あたたかい、不器用な手。


「もちろん。次の物語も、その次も。あなたの隣を、誰にも、譲る気はありません」


 欠けた月が、二人を静かに照らしていた。


 半分だけの月。満ちてもいないし、欠けきってもいない。ちょうど、わたしたちの物語みたいだ。ひとつの章を終えて、次の章はまだ始まっていない。その境目の、静かな夜。でも、不安はなかった。どんな物語が来ても、隣にこの人がいる。それだけでわたしはいくらでも、強くなれる気がした。


 次の章は、すぐそこ。新しい謎も、新しい敵も、きっと手ぐすね引いて待っている。それでも、構わなかった。一人で怯えていた頃とは、もう何もかもが違うのだから。


 でも何が来ても——きっと、二人ならまた笑い飛ばせる。


第一章・完 (第二章へ続く)

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