第27話「ずっと一人だった、あなたへ」
代償の後始末がようやく一段落した、ある夕暮れ。
わたしはリオネルを、あの温室へ呼び出した。いつも、彼に連れてこられる場所。今日は、わたしから誘った。立場がひっくり返ったみたいで少しだけ面映ゆい。
いつもは彼に手を引かれて、ここに来る。彼が育てた花を見せられ観察日記を読み上げられ、塩対応で受け流す。それが、お決まりの流れだった。でも、今日は違う。わたしが彼を呼んだ。伝えたいことがあったから。半年かけてようやく言葉にできるようになった、ある気持ちを。
ガラス越しに、夕日が温室を淡い橙に染めている。土と花の匂いが、いつもより濃く感じられた。緊張しているのかもしれない。柄にもなく。
「めずらしいですね。あなたから、呼んでくれるなんて」
リオネルが不思議そうに首を傾げる。紫の花の鉢の前。「セリーヌ」と名付けられた、あの花はまた新しい蕾をひとつつけていた。
「殿下。前に言いましたよね。崇められるほど、息が詰まる、と」
わたしは、切り出した。ずっと、伝えたかったことがある。
「皆があなたを見ているのは、『完璧な王太子』であって、あなたじゃない。誰も、あなたの中身を見ない。叫んでも、聞こえない。そういう檻にいる、と」
「……ええ。言いました」
「わたし、ずっと考えてたんです。あなたを、その檻から、どうやったら出してあげられるか」
リオネルが目を見開いた。
「あなたは、わたしの塩対応に救われたと言った。わたしがあなたを『殿下』じゃなく、『うるさい奴』として扱ったから、息ができたと。──だったら、これからはわたしがちゃんと、あなたを見ます」
夕日が温室のガラス越しに、彼の銀の髪を淡く染めている。
「完璧な王太子じゃなくて。崇める偶像でもなくて。ただの間の抜けた、推し馬鹿で蜂蜜を入れすぎる、不器用なリオネルを。わたしが見ています。ずっと一人だった、あなたを」
言葉が自然にこぼれ落ちた。準備していた台詞じゃない。ただこの人を見ていたら、伝えたくてたまらなくなった。崇めるんじゃない。見上げるんでもない。ただ同じ高さで隣に立って、その人を見る。それがわたしにできる、精一杯の『推し方』だった。
言いながら、自分でも顔が熱くなるのがわかった。柄にもない。こんな、まっすぐな言葉。半年前のわたしなら、口が裂けても言わなかっただろう。
でも、言いたかった。この人が、わたしの塩対応に救われたと言うなら。わたしも、何かを返したい。彼がくれたものは、あまりに大きかったから。断罪から逃げ回っていたわたしに隣にいる人を。一人で消えるはずだった物語に、こんなにたくさんの仲間を。穏やかな出口より騒がしい毎日のほうがいいと気づかせてくれた。──全部この推し馬鹿な王太子の、おかげだ。
リオネルは、しばらく固まっていた。
それから——その目が、ゆっくりと潤んでいく。いつもわたしを推して、きらきらさせていた目が。完璧な仮面の下で誰にも見られずに、ずっと渇いていた目が。
「……ずるいですよ、それは」
彼の声が掠れた。
「いつも、僕が、あなたに言ってきた台詞なのに。あなたに、言われると——こんなに、効くなんて」
「お返しです。一生分、推されたぶんの」
「一生分じゃ、足りません。十生分、返してもらわないと」
涙ぐみながら、それでもいつもの軽口を叩こうとする。その不器用さが、たまらなく愛おしかった。ああそうか、と思う。これが、彼がわたしを推してきた気持ちなのかもしれない。誰かをまっすぐに大切に思う。ただそれだけの、シンプルで止められない衝動。
半年前のわたしには、わからなかった。なぜこの人が断罪したいわたしをこんなにも推すのか。気持ち悪いとさえ、思っていた。でも、今ならわかる。誰かをまっすぐ想う気持ちに、理由なんていらないのだ。ただその人がいてくれるだけで世界が違って見える。それだけで十分だった。わたしは今生まれて初めて、誰かにその気持ちを返している。
彼は生まれてからずっと、完璧であることを強いられてきた。感情を殺し笑顔を作り、誰の期待にも応える。そうやって『完璧な王太子』を作り上げた王家のしくみそのものが、彼をずっと孤独な檻に閉じ込めていた。崇拝という、いちばん華やかな牢獄に。
でももう、一人じゃない。
「リオネル、殿下」
わたしはそっと彼の袖に触れた。
「これからは、無理して笑わなくて、いいですから。少なくとも、わたしの前では。完璧じゃなくていい。立派じゃなくていい。蜂蜜を入れすぎて、銅貨を数え間違えて、手帳に夢中になる。そんな、不器用なあなたのままで、いいんです」
言ってしまってから、頬がかっと熱くなった。こんなに甘い台詞、わたしのキャラじゃない。塩対応がお家芸の、悪役令嬢なのに。でも、不思議と後悔はなかった。むしろ、ずっと言いたかった気さえする。この人になら、何を言っても受け止めてもらえる。そんな安心感が、いつのまにかわたしの中に深く根を張っていた。
彼はくしゃりと顔を歪めた。完璧な王太子の仮面なんて、どこにもない。ただの泣き笑いの、青年の顔。
その顔をわたしは、たぶん一生忘れない。
彼はしばらく、何も言わなかった。言葉に、ならなかったのだと思う。ただわたしが袖に触れた手の上に、彼のもう片方の手がそっと重ねられた。その手がかすかに震えている。崇められることに慣れきった人が生まれて初めてただ一人の人間として、見つめられている。その震えはたぶん喜びと戸惑いと長すぎた孤独の、全部が混じったものだった。
わたしは、もう片方の手も重ねた。冷たくなった彼の手を、両手で包み込むように。いつもは、推す側の彼。観察して記録して、賛美して。でもその彼自身をまっすぐ見てくれる人は、たぶん今まで一人もいなかった。崇める人ばかりで、見つめる人はいなかったのだ。だから、わたしが見る。この不器用で、優しくてずっと寂しかった人を。一生かけて、隣で。それがわたしの選んだ、推し活だ。
わたしはその手を握り返した。もう離さない、というみたいに。ずっと一人だった、あなたへ。今日からは、わたしが隣にいる。騒がしくて口が悪くて、塩対応の婚約者で申し訳ないけれど。それでもよければ、ずっと。温室の紫の花が、夕日のなかで静かに揺れていた。
次話:「推しの、本当のわけ」




