第23話「破ってもいい、運命の筋書き」
「殿下。これは、評議で決した処分でございます。王太子といえど、慣例を覆すことは」
法務官が慌てて食い下がる。さっきまでの余裕は、消えていた。
リオネルは、その男を静かに見据えた。完璧な王太子の、隙のない眼差し。けれどわたしには、わかった。あの目の奥で彼は今生まれて初めて、自分に課せられた「筋書き」を破ろうとしている。
「慣例、ね」
彼はゆっくりと口を開いた。
「僕は、生まれてからずっと、慣例どおりに生きてきた。決められた言葉を話し、決められた笑みを浮かべ、決められた相手と踊る。台本に忠実に。それが、王太子の務めだと信じて」
広場がしんと静まり返る。
「でも、今夜は、破る。この断罪は、筋書きが、間違っているので」
その声には、迷いがなかった。生まれて初めて自分の意思で何かを選ぶ人間の、静かな決意だけがあった。
「僕は、ずっと思い込んでいました。決められた道を完璧に歩くことが王太子の責務だと。でも——間違った筋書きを、間違ったまま演じきることが、責務であるはずがない。無実の令嬢を無実のまま断罪する。そんな台本に、忠実でいる理由は、どこにもありません」
彼は懐から、一枚の書面を取り出した。それはわたしの懐にあるものと、同じ——いやもっと詳細な証拠の写しだった。
「僕も、独自に調べさせてもらった。告発状の証人三名は、いずれもアシュフィールド侯爵家から金銭を受け取っている。ティセル嬢が令嬢から金を受け取ったとされる書面は、代筆屋による偽造。その代筆屋の証言も、すでに取ってある。──この告発は、根も葉もない、捏造だ」
どよめきが広場を駆け抜けた。
貴族たちが、口々にささやき交わす。『証人が買収されていた……?』『では、あの告発はいったい』。さっきまでヴァルモア家の没落を見物していた目が、戸惑いの色に変わっていく。空気が明らかに傾きはじめていた。
「で、殿下、それは」
法務官の声が上ずる。リオネルは、容赦なく畳みかけた。
「筆跡鑑定なら、今すぐ、ここでやればいい。鑑定人なら、僕が宮廷から連れてきている。数週間? いや、今夜のうちに白黒つけよう。やましいことがないなら、応じられるはずだ」
法務官は、言葉を失った。貴族の列でロザムンドの顔が、みるみる青ざめていく。勝ち誇っていた扇がわずかに震えていた。
わたしは、呆然とリオネルを見つめる。
彼はずっと動いてくれていた。あの夜温室で、調べはまだ尻尾を掴めていないと言いながら。きっと王太子の権限を使える、ぎりぎりのところまで。わたしが自分の力でなんとかしようと足掻いている間も、この人は別の場所でわたしの家を守るために手を尽くしていた。
胸が熱くなる。
わたしは、ずっと一人で抱え込もうとしていた。誰にも頼らず誰にも借りを作らず、静かに消えるつもりだった。それが、いちばん綺麗な幕の引き方だと思っていたから。
でもこの人は、ちがった。頼まれてもいないのに、勝手に巻き込まれて勝手に背負ってこうして隣に立ってくれている。一人で消えるはずだったわたしの物語には、いつのまにかこんなにたくさんの人が書き込まれていた。ジゼルが。ノアが。ミラが。そして、この推し馬鹿な王太子が。一人で閉じるはずだった物語は、もうわたし一人のものじゃなくなっていた。
広場の空気が、はっきりと変わっていた。さっきまでわたしを蔑んでいた視線に、戸惑いとためらいが混じる。『悪役令嬢』の物語は、もう誰の胸の中でも揺らぎはじめている。
審査官たちが、慌てて何事か囁き交わした。証拠を突きつけられ王太子に正面から異を唱えられ、彼らも引くに引けなくなっている。あれほど一方的だった断罪の儀式は、完全に止まっていた。
ロザムンドの顔から、血の気が引いていくのが遠目にも見て取れた。崩れていく。あの完璧だったはずの筋書きが、わたしの目の前で、ゆっくりと、音を立てて崩れていく。半年間、わたしを苦しめ続けた『悪役令嬢の断罪』という物語が、今、終わろうとしていた。
勝てる。ここまでくれば、断罪は止められる。家も、守れる。わたしは、ほっと肩の力を抜きかけた。
その油断を見透かしたみたいに、リオネルがふたたび口を開いた。証拠の話は、もう終わったはずなのに。
でもリオネルの「筋書き破り」は、そこで終わらなかった。
彼は証拠の書面を審査官に手渡すと、こちらを——わたしを振り返った。広場じゅうの視線がその動きを追う。
「それともうひとつ。これは、処分とは関係のない、僕の個人的な話なのですが」
嫌な予感が確信に変わった。
「殿下。やめてください。今、それは」
わたしの制止を彼はにこやかに無視した。完璧な王太子の仮面が、ぱりんと音を立てて剥がれていく。中から出てきたのはいつものあの推し全開の、締まりのない顔。
その変わりように、近くの貴族がぎょっと身を引いた。完璧で隙のなかった王太子がほんの一瞬でどこかふやけた、人懐こい青年に変わったのだ。彼らの知らないわたしだけが見慣れた、リオネルの素の顔。
わたしは本能的に半歩後ずさった。長年の経験が警鐘を鳴らしている。この顔のときの彼は、何を言い出すかまるで読めない。
「皆さんに、どうしても、知っておいてほしいことがあります」
彼はすうっと息を吸った。
まずい。この流れは、まずい。半年浴びるほど見てきたから、わかる。これは、あれだ。彼がわたしを推し倒すときの、あの止められない助走だ。
半年間、数えきれないほど浴びてきた。茶会で。委員会で。温室で。下町で。あの手帳を構えて、目をきらきらさせて、わたしの些細な仕草を『尊い』と言い募る、あの瞬間。いつもなら、塩対応で受け流せた。けれど、ここは建国祭の大舞台だ。何百人もの貴族が、固唾を呑んで見守っている。
逃げ場は、どこにもない。わたしは、ただ覚悟を決めるしかなかった。これから降ってくるであろう、盛大な公開処刑——もとい、公開賛美の雨に向かって。神様、と心の中で祈る。前世の神様でも、こっちの神様でも、どちらでもいい。お願いだから、この人の口を、今すぐ塞いでください。──そんな祈りも虚しく、リオネルの胸は、これ以上ないほど大きく、ふくらんでいた。
満月の下何百人もの貴族が見守る、建国祭の大舞台。そのど真ん中で王太子リオネルは、高らかに——。
次話:「全員の前で、堂々と」




