第2話「分厚くなる、観察日記」
「で、また失敗したわけね」
翌日の昼休み。学園の図書館の、いちばん奥の窓際。親友のジゼル・モンフォールが、焼き菓子を片手に身を乗り出してきた。
「失敗じゃないわ。布石よ」
「布石を三回も打って、毎回殿下の好感度が上がってるんだから、もう作戦を疑うべきだと思うけど」
ジゼルは伯爵令嬢で、わたしの数少ない——というか唯一の——本音を話せる相手だ。社交界の噂を一通り握っていて、口が達者で面白いことが大好き。わたしの「悪役令嬢を穏便に降りたい」という奇妙な計画に、最初に乗ってくれた人でもある。
「いい、ジゼル。整理するわ。わたしの最終目標は、卒業の建国祭の夜、予定通り断罪してもらうこと」
「令嬢が自分から断罪を志願してるの、何度聞いても字面がすごいわね」
「断罪されれば、婚約破棄と追放がもれなくついてくる。願ったり叶ったりの出口よ。でも断罪してもらうには、まず殿下に嫌われていないと話にならない」
「で、その肝心の『嫌われ』のところで殿下に惚れ直されてると」
わたしは焼き菓子をもうひとつ取った。バターの香りが、紙に包まれてもなお漂ってくる。
「ねえセリーヌ。一回ちゃんと見たほうがいいわよ。殿下の『推し活』とやらの、規模を」
「規模?」
「あんた、知らないでしょ。社交界で密かに有名なのよ。『王太子殿下の謎の手帳』」
ジゼルがにやりと笑った。こういう顔をするときの彼女は、たいてい厄介な情報を持っている。
「侍従に聞いたんだけどね。殿下の私室の引き出し、手帳が何冊もあるんですって。全部、中身は——」
「やめて。聞きたくない」
「『セリーヌ観察記録 第一巻から第七巻』」
「七巻」
声が裏返った。
七巻。新聞の合本かなにか。
「しかも最近、グッズ制作にまで手を出してるらしくて」
「グッズ」
「あんたの横顔を彫った木彫りの……なんだったかしら、文鎮? あとあんたが去年の夜会で着けてたリボンと同じ色の栞を、自分で染めたとか」
頭が痛くなってきた。
前世のわたしなら、それなりに推し活の心得があったから言える。これは重症だ。グッズの自作に踏み込むのは、もう中級者を超えている。
「あと、ファンクラブもあるって」
「……ファンクラブ」
「『セリーヌ・ヴァルモア応援会』。会則まであるらしいわよ」
「会員は」
「一名」
わたしは、机に突っ伏した。古い紙とインクの匂いが鼻先に広がる。
会員一名のファンクラブの会員にして会長がこの国の王太子。何の冗談だ。
「会則の第一条、知りたい?」
「知りたくない」
「『一、セリーヌ・ヴァルモア嬢の尊さを、一日一度は記録に残すこと』」
「知りたくないって言ったでしょう」
「第二条、『二、本人に気づかれぬよう最大限の配慮をすること』。──もう、完全に気づかれてるけどね」
ジゼルは心底楽しそうだ。他人の不幸は蜜の味とはよく言うけれど、わたしの不幸は彼女にとって、よほど上等な蜂蜜らしい。
「ねえセリーヌ。あたし思うんだけど」
「なに」
「殿下のそれ、もう趣味とか好意の範囲を超えてない? なんていうか、信仰に近いわよ」
「やめて。それ、わたしも薄々思ってたから」
信仰。崇拝。あの観察日記のページ数は、もはや経典の厚みだ。神官が毎朝祈りを捧げるみたいに、あの人は毎日わたしを記録している。罰当たりなことに、ご神体のほうは祭壇から逃げ出したがっている。
「……ジゼル。やっぱり、正攻法でいくしかないわ」
「正攻法?」
「正式に、書面で、婚約解消を申し入れる。茶会の冗談みたいな会話じゃなくて、ちゃんとした場で。さすがの殿下も、公式の申し入れには真面目に向き合うはずよ」
ジゼルは焼き菓子のかけらを払いながら、ため息をついた。
「やめときなさいって顔のあたしを見て、なお突っ込んでいくその度胸。あんたのそういうところ、嫌いじゃないわ」
その日の放課後、わたしは中庭の東屋にリオネルを呼び出した。
申し入れの書状は、三日かけて文面を練った。感情を排し、政治的・家門的な利点だけを淡々と並べた、完璧に冷たい書面。これを読めば、誰だって「ああ、この令嬢は本気でこの婚約を終わらせたいのだな」と理解する。
「殿下。こちらを」
リオネルは書状を受け取って、丁寧に開いた。一行ずつ、ゆっくりと読んでいく。
夕暮れの光が、銀の髪を橙に染めていた。蔓薔薇の蕾がまだ固く閉じている。風が、土と若い葉の匂いを運んでくる。
読み終えて、リオネルは顔を上げた。
「セリーヌ嬢」
「はい」
「この書状、三日かけて書きましたね」
「……なぜ」
「筆跡です。最初の段落はインクが濃くて、後半にいくほど薄い。何度も書き直して、清書したのが今朝。今朝のあなたは少し寝不足だった。目の下に、うっすら」
「指摘するな」
「これだけ手をかけて、僕を自由にしてあげようとしてくれた。──ありがとうございます」
「自由にしようとしたんじゃなくて、わたしが自由になりたいんです」
「同じことです。あなたの幸せは、僕の幸せなので」
「では、こう申し上げます。わたくしと婚約を続けても、殿下に良いことは何ひとつありません。わたくしは我儘で、高慢で、あなたを大切にする気もない」
「我儘な人は、婚約解消の書状を三日かけて書きません」
「……っ」
「高慢な人は、給仕の淹れた紅茶が渋くても、黙って飲みます。あなたを大切にしない人が、わざわざ僕の体を気遣って『良いことは何もない』なんて、忠告しに来ますか」
言葉に詰まった。
この人は、いつもこうだ。こちらが並べた「悪いところ」を、ひとつずつ裏返して「良いところ」にして返してくる。塩を撒いたら、肥えた畑になって戻ってくる。
リオネルは書状を、胸元の内ポケットに——丁寧にしまった。
「お返事は」
「お断りします」
迷いのない、即答だった。
「ただ、この書状はいただいておきます。あなたが僕のために言葉を尽くしてくれた、大切な記録なので」
「申し入れの書状を記念品にするな」
完敗だった。
三日がかりの書面が、観察記録の一ページに加わっただけ。婚約は、びくともしていない。
わたしは東屋の柱にもたれて、夕暮れの空を仰いだ。茜色に染まった雲がゆっくり流れていく。
(だめだ。この人、まともに取り合ってるようでいて、全部こっちの土俵をすり抜けてくる)
「セリーヌ嬢」
「……まだ何か」
「今、空を見上げて、少しだけ口元を緩めましたね。負けて悔しいのに、夕焼けが綺麗で、つい」
「緩めてません」
「『緩めてません』。──本日の分も、いただきました」
手帳をめくる、紙の音がした。
観察日記は、また少し、分厚くなった。
次話:「断罪まで、もう時間がない」




