第1話「推し、という名の災難」
「殿下。単刀直入に申し上げます。わたくし、あなたとの婚約を破棄したいのです」
春の交流茶会。白い天幕の下、レモンの香りがする紅茶を前にして、わたしは渾身の冷たさで言い放った。
声は低く。眉はきりりと。扇は閉じたまま、テーブルに小さく音を立てて置く。これ以上ないほど高慢な悪役令嬢の所作。周囲の令嬢たちが息を呑むのがわかった。
完璧だ。これで「ヴァルモア公爵令嬢は王太子殿下に三行半を突きつけた冷血女」という噂が立つ。婚約は白紙に戻り、わたしは静かに身を引ける。
王太子リオネルが、ゆっくりと顔を上げた。
銀の睫毛が伏せられ、それから——目尻がじわりと潤んだ。
「……今の」
「は」
「今の『破棄したい』、語尾が、ほんの少し震えていましたね」
「震えていません」
「震えていました。0.3秒。本当はお優しいあなたが、心を鬼にして僕を突き放そうとして、声が追いつかなかった。──ああ、書き留めておかなければ」
リオネルは胸元から小さな手帳を取り出して、羽ペンを走らせ始めた。さらさらと迷いのない筆致で。
「何を書いているんですか」
「観察日記です」
「観察、日記」
「『春の茶会、午後二時十四分。セリーヌ嬢、僕を案じるあまり強い言葉で遠ざけようとする。気高さの中の優しさ。本日も尊い』」
読み上げるな。
わたしは扇を開いて口元を隠した。隠したところで、こめかみの引きつりは隠せない。
(こいつ、わたしを断罪する側じゃなかったの?)
そう。本来なら。
ここは乙女ゲーム『薔薇と棘の誓い』の世界で、わたしセリーヌ・ヴァルモアは、その悪役令嬢だ。前世でこのゲームを遊んだ記憶がある。社会人になってからの数少ない楽しみだった。だから知っている。
悪役令嬢セリーヌは、卒業の夜に開かれる建国祭の舞踏会で、婚約者である王太子リオネルから断罪される。ヒロインへの数々の嫌がらせを暴かれ、衆人環視のなか婚約を破棄され、王都を追われる。
破滅エンド。
——とゲームは言う。
でも、わたしに言わせれば違う。あれは破滅じゃない。出口だ。
婚約破棄。そして、王都からの追放。つまり、この息が詰まる王太子妃ルートからの、完全なる解放。辺境の隅で猫でも飼って、誰にも崇められず、誰も断罪せずのんびり暮らす権利の獲得。なんて魅力的な刑罰だろう。
だからわたしの計画はこうだ。卒業の建国祭の夜、予定通り、盛大に断罪してもらう。そのために、今からせっせと嫌われておく。追放先の小さな家も、もう半分は手配済み。
計画は、完璧だった。
ひとつ、大きな誤算があるとすれば——このゲームのリオネルは、断罪の夜まで令嬢に氷の塩対応を貫く王子のはずなのに。なぜか、わたしを推してくる。
嫌われなければ、断罪されない。断罪されなければ、わたしは一生、この人の隣で王太子妃をやる羽目になる。
「殿下。もう一度言います。わたくしはあなたを嫌っております」
「知っています。その嫌い方が、誰よりまっすぐで好きです」
「話が通じない」
「通じていますよ。ちゃんと聞いています。あなたの言葉は一語も聞き逃しません。なにせ僕は、あなたの一番のファンですから」
ファン。
この人は、なぜか、わたしの大ファンなのだ。
いつからかは知らない。気づいたときにはもう、リオネルはわたしの一挙手一投足を「尊い」と崇め、手帳に記録し隙あらば賛美の言葉を並べていた。氷の王子の設定はどこへ行った。溶けすぎて湯気が立っている。
「セリーヌ嬢」
「なんでしょう」
「先ほど紅茶を一口飲んだとき、ほんの少しだけ眉を寄せましたね。渋かったんですね。でも給仕には何も言わなかった。誰かを困らせたくないんだ、あなたは」
「ただ濃かっただけです」
「『ただ濃かっただけ』。──いただきます」
「メモするな」
周囲の令嬢たちが、ひそひそと囁き交わしている。
「……殿下があんなに……」「ヴァルモア様、いったいどんな手で殿下を……」「恐ろしい方ね、殿下をあそこまで夢中にさせるなんて」
ほら。また悪評が一段、積み上がった。
いや、悪評は欲しい。欲しいんだけど、これは違う。「殿下をたぶらかす魔性の令嬢」では困る。それだと婚約破棄どころか、ますます王家に組み込まれてしまう。わたしが欲しいのは「殿下に愛想を尽かされた可哀想だけど自業自得な令嬢」というポジションだ。
軌道修正が必要だ。
「殿下。はっきり申し上げますわ。わたくしには、あなたに隠していることがたくさんあります。恐ろしい秘密が。それを知れば、あなたもわたくしを軽蔑するでしょう」
はったりだ。でも効くはず。婚約者に秘密があると匂わせれば、普通の王族なら警戒する。距離を取る。
リオネルは、にっこりと笑った。
春の陽が、その笑顔に差して——正直に言うと、腹立たしいほど綺麗だった。
「秘密があってもいいんです。あなたが話したくなったら、そのとき聞きます。話したくないなら、一生知らないままでいい。僕は、秘密ごとあなたを推していますから」
推す。
また出た。この人がときどき使う、聞き慣れない言葉。「好き」でも「敬愛する」でもなく、「推す」。
わたしは前世の記憶があるから、その語感をなんとなく知っている。知っているからこそ、ぞっとする。これは、簡単には覚めない種類の熱だ。
「……失礼します」
立ち上がった。これ以上ここにいたら、ペースが完全に向こうのものになる。
「セリーヌ嬢」
背中に声がかかった。
振り返ると、リオネルが手帳を閉じて、少しだけ真面目な顔をしていた。
「あと、半年ですね」
「……は?」
「卒業まで半年。建国祭の夜まで、あと半年です」
心臓が跳ねた。
なぜ、その日を。なぜ、よりにもよって建国祭の夜をこの人が口にする。断罪イベントの、あの夜を。
「それが、何か」
「いえ。──あなたと過ごせる学園の日々が、あと半年しかないと思うと、一日も無駄にできないなと」
リオネルはまた手帳を開いて、何か書き足した。
わたしは、それ以上聞けなかった。聞くのがこわい。
天幕を出ると春の風が頬を撫でた。砂糖菓子と若葉の匂い。穏やかな、平和な午後。
(半年。あと半年で、わたしは断罪される予定なんですけど)
その予定を、邪魔しているのは——どう考えても、わたしを推す王太子その人だった。
次話:「分厚くなる、観察日記」




