第19話「理由は半分だけ、あげる」
その夜リオネルは、わたしを温室へ連れ出した。
ランプを片手に無言で先を歩く。たどり着いたのは、あの紫の花の鉢の前だった。「セリーヌ」と名付けられた、わたしの瞳の色の花。夜の温室は昼よりずっと濃く香って、息をするたび胸の奥まで甘さが届く。
昼間の査問のあと、わたしたちはほとんど言葉を交わしていなかった。交わせなかった、というほうが近い。自白してミラを助けて、自分の断罪を確定させた。その重さを二人ともどう扱っていいか、わからなかったのだと思う。
だから彼が『少し歩きませんか』と言ったとき、わたしは黙って従った。行き先がこの温室だったのは、たぶん偶然じゃない。ここには、あの花がある。彼が三年かけて咲かせた、わたしの名前の花が。
「査問のこと、止められなくて、すみませんでした」
彼は花を見つめたまま、静かに言った。
「いいえ。止められたら、困りました。あれは、わたしが選んだことなので」
「……ええ。だから、止めなかった。あなたの『初めての選択』を奪いたくなかった。──たぶんそれがどれだけ大事なものか、僕がいちばん、知っているので」
ランプの灯りが、彼の横顔を淡く照らしている。
わたしはずっと胸に引っかかっていたことを口にした。今しかない気がした。
「殿下。前に、おっしゃいましたよね。わたしを推す理由を、いつか半分だけ話す、と。──今、聞かせてもらえませんか」
リオネルは、しばらく黙っていた。やがてふっと息を吐く。
「三年前です。まだ、僕とあなたが、婚約者ですらなかった頃」
彼は、花弁にそっと触れた。
「とある園遊会でした。僕は、いつものように完璧に微笑んでいた。何百人もの貴族に囲まれて、一人ひとりに正しい言葉を返して。誰もが、僕を見て、ため息をついた。素晴らしい王太子だ、と。──そのとき、僕は、息ができなかった」
「息が」
「崇められるほど、息が詰まるんです。皆が見ているのは、『完璧な王太子』であって、僕じゃない。僕という人間はその立派な像の、中に閉じ込められて、誰にも見えない。叫んでも、聞こえない。そういう檻です」
彼の声は、淡々としていた。淡々としているぶん、かえって胸に刺さる。
「物心ついたときには、もう、檻の中でした。泣けば『王族たる者が』と諫められ、笑えば『お見事です』と褒められる。本当に泣きたいときも、本当におかしいときも、関係ない。僕の感情は、いつも誰かの期待で上書きされていく。──そのうち、自分が本当は何を感じているのか、僕自身わからなくなりました」
わたしは、何も言えなかった。昼の式典で見たあのガラス玉の目を思い出していた。あの空っぽの目の奥に、こんな声がずっと閉じ込められていたのだ。
「そのとき、一人だけ。庭の隅で、退屈そうにしている令嬢がいた。皆が僕に群がるなか、その子だけが僕を見て——心底つまらなそうな顔で、こう言ったんです」
リオネルがこちらを向いた。月のない夜なのに、その目は不思議と明るかった。
「『そんなに笑って、疲れませんの?』と」
心臓がことりと鳴った。
「覚えて、いません。そんなこと、言った記憶は」
「でしょうね。あなたにとっては、何でもない一瞬だった。たぶん、すぐに忘れた。──でも、僕には、生まれて初めてでした。僕の作り笑いを見抜いて、『疲れないのか』と心配した人は、後にも先にもあなただけだった」
甘い花の香りが、やけに濃く感じられた。
「あなただけが僕を『殿下』じゃなく、『無理して笑ってる、ただのうるさい奴』として見てくれた。それが、どれだけ——息が、できたか」
彼の声が最後だけ、少し掠れた。
わたしは胸がいっぱいで、言葉が出てこなかった。塩対応がご褒美。意味がわからなかった、あの言葉。その根っこに、こんな苦しい話が埋まっていたなんて。
ずっと、ただの変な人だと思っていた。推し活だの観察日記だの、ふざけた婚約者だと。でも、違った。あれは全部窒息しかけた人が、たった一度もらえた酸素に必死でしがみついていた姿だったのだ。わたしの何でもない塩対応が、この人にとっては生きるための息継ぎだった。
そう思うと今まで浴びせてきた数々の『塩』が、急に重たく感じられた。同時に——もう無邪気に冷たくはできないな、とも思う。困った話だ。嫌うための材料が、また一つ手のひらから零れていく。
「……それで、わたしを推すように?」
「ええ。あなたを見ていると息ができる。だから、見ていたい。記録したい。応援したい。──それが、僕の『推し活』の、半分の理由です」
「半分?」
「残りの半分は」
リオネルはいたずらっぽく、笑った。いつもの、子どもみたいな顔で。さっきまでの痛みをこらえた表情が、嘘みたいに溶けていく。
「いつか。全部話したら、あなた、絶対に逃げるので」
「……ずるい」
「ずるいんです。あなたのことになると、特に」
なんだ、それ。結局、いつもの調子に戻ってしまった。わたしは毒気を抜かれて、小さく噴き出した。湿っぽい空気がふっと軽くなる。
でももう、わたしは知ってしまった。この人の推し活が、ただのおふざけじゃないことを。檻の中で窒息しかけた人が、必死に掴んだたったひとつの呼吸だということを。
その夜わたしは紫の花をもう一度だけ、見つめた。
ランプの灯りに照らされて、紫の花弁が淡く光っている。わたしの瞳の色だと彼は言った。三年もこの花を育てながら、彼はいったい何を思っていたんだろう。会えない間も、ずっと。たった一度の『疲れませんの?』を宝物みたいに抱えて。
胸の奥がじんと痺れる。この感情に名前をつけるのは、まだこわい。つけたら最後わたしはもう、あの穏やかな出口へ戻れなくなる。──でももう知らないふりは、できそうになかった。
温室を出るとき、リオネルがぽつりと言った。
「あなたが、僕を人間扱いしてくれたお返しに。僕も、あなたを『悪役令嬢』じゃなく、ただのあなたとして見ています。出会った日から、ずっと」
その言葉が、夜の冷たい空気のなかでやけにあたたかい。わたしは返事の代わりに、ほんの少しだけ、歩く速度を彼に合わせる。それが、今のわたしにできる、精一杯の返事だった。
温室を離れても、甘い花の香りは、しばらくのあいだ、わたしの服にまとわりついて離れなかった。まるで、今夜のことを、忘れさせまいとするみたいに。
次話:「隣にいる意味を、まだ」




