第14話「ただの人に見えた、その瞬間」
証言者の尻尾を掴むため、わたしたちは王都の下町へ出た。
告発状に名を借りられた三人のうち、ひとりが下町の仕立て屋だとノアが古い記録から突き止めてくれた。直接会って、誰に書かされたのかを聞き出す。それが今日の狙いだった。
問題は、わたしの隣を歩く人物だった。
「殿下。その変装、まるで意味をなしていません」
「そうですか? 完璧だと思うのですが」
リオネルは平民風の外套に、つばの広い帽子を目深にかぶっていた。それでもにじみ出る品の良さと、ばかみたいに整った顔立ちは隠しきれていない。すれ違う町娘が、みんな揃って二度見していく。
「顔がいいんです。あなたは、生まれつき悪目立ちするんです。諦めてください」
「あなたに『顔がいい』と言われたのは、初めてですね。今夜の観察日記に――」
「手帳を出すな。今は変装中でしょう」
慌てて懐に手を戻す彼が、なんだかおかしくてわたしは小さく噴き出した。
下町は、活気に満ちていた。焼きたてのパイの匂い、香辛料の刺激、呼び込みの声、荷車の軋み。舗装もされていない土の道を、子どもたちが裸足で駆けていく。リオネルはその全部を、めずらしそうに見回していた。城と学園しか知らない人にとっては、ここは異国のようなものかもしれない。
目当ての仕立て屋は、路地の奥にあった。
戸を叩くと、痩せた中年の女が顔を出した。わたしの顔を見るなり、さっと青ざめる。告発状の証言者の、ひとりだ。
「ヴァルモア、の……っ。か、堪忍してください。あたしは、何も」
「責めに来たんじゃないの」
わたしは、できるだけ穏やかに言った。
「あなた、誰かに書かされたんでしょう。署名を。──断ったら、どうなると言われたの」
女の目が揺れた。奥の部屋から、子どもの咳が聞こえる。薬の匂い。暮らしの細さが戸口の隙間からでも、痛いほど伝わってきた。
「……言えません。言ったら、うちの子の薬代が」
それ以上は、聞けなかった。聞けば、この人をもっと追い詰めることになる。わたしは礼を言って、戸口を離れた。証言は取れなかった。でも、わかったこともある。証人たちは暮らしの弱みを握られて、書かされている。敵は、そういうやり方を平気でする相手だ。
歩きだそうとして、リオネルがふと足を止めた。彼は戸口の女に向き直ると外套の内から小さな布包みを取り出して、そっと手渡した。
「これを。お子さんの、薬代の足しに」
「そ、そんな、いただくわけには」
「あなたは、何も悪くない。弱みにつけ込まれただけだ。──どうか、お大事に」
女は包みを押し戴いて、何度も頭を下げた。目には、涙がにじんでいる。
わたしは、それを少し離れたところから見ていた。
名乗りもしない。恩を着せもしない。ただ目の前で困っている人に、当たり前みたいに手を差し伸べる。誰も見ていないところで、誰にも褒められないのに。
昼の式典で、何千の視線を浴びて完璧に微笑んでいた『殿下』。あれが彼の表の顔ならこれは——誰にも見せない、彼の地金だ。たぶんこちらのほうが、ずっと本当の彼に近い。
(ずるい。こういうところが、いちばん、ずるいのよ)
路地を出ると、リオネルが今度は屋台の前で立ち止まっていた。
「腹が、減りませんか」
彼は串焼きを二本買おうとして、銅貨の数え方に手間取っていた。見かねた店主に「兄ちゃん、おつりはこっちだよ」と笑われ、ぺこりと頭を下げている。受け取った串を、はふはふと行儀悪く頬張る。タレが口の端について、わたしに指摘されて慌てて手の甲で拭った。
わたしはその様子を、ついじっと見てしまった。
完璧な王太子が、銅貨の勘定に手間取っている。串焼きのタレで口を汚している。めずらしいものを見つけるたび、子どものように目を輝かせている。
そこには昼の式典で見たガラス玉の目も、完璧な微笑みもどこにもなかった。
ただの、二十歳前の青年だった。
何千の視線を浴びて人形みたいに微笑んでいた人と同じ人とは思えない。今ここにいるのは串焼きのタレで口を汚す、どこにでもいるただの人。
そう見えた瞬間に、わたしはまずいと思った。
崇める対象なら、いくらでも距離を取れる。偶像は、遠くから眺めるものだから。でも、ただの人は——手が届いてしまう。隣に並んで笑い合って串焼きを分け合える距離に、するりと入ってきてしまう。
(あ。わたし、今この人を、観察してる)
いつも観察される側だったのに。気づけばわたしのほうが、彼の些細な仕草を目で追っている。タレを拭う指。銅貨を数える横顔。めずらしいものを見つけたときの、子どもみたいな顔。あの分厚い観察日記を、人のことは言えなくなってきた。
これじゃ、まるでわたしが――。
「セリーヌ嬢? どうかしましたか」
「……なんでもありません。串、伸びますよ」
ごまかして、串焼きを口に運ぶ。香ばしくて、少ししょっぱい。
まずい。味じゃなくて、状況のほうが。
断罪されて、この人から離れる予定なのに。離れたくないなんて思ってしまったら、計画が根っこから崩れてしまう。
帰り道、リオネルは、屋台で買った焼き菓子を半分、わたしに差し出した。
「半分こ、しませんか。こういうの、一度やってみたかったんです」
「……お子さまですか」
「あなたとなら、何をしても、楽しいので」
受け取った焼き菓子は、まだほんのり温かい。素朴な甘さが、舌の上でゆっくりとほどけていく。さっきの蜂蜜湯みたいに過剰じゃない、ちょうどいい甘さだった。
並んで歩いて、焼き菓子を齧って、他愛のない話をする。こんな時間が、断罪されたら、もう二度と戻ってこない。そう思うと、胸の奥がきゅっと縮んだ。
わたしは心の中で呪文のように唱えた。あれは推し。手の届かない偶像。ただの人なんかじゃない。
唱えれば唱えるほど、自分の声が噓くさく聞こえた。
偶像なら、遠くから眺めて、手を伸ばさずにいられる。でも、焼き菓子を半分くれる人には、つい、手が伸びてしまう。それが、いちばんの誤算だった。
わたしの計画は、串焼き一本と、ひとかけの焼き菓子で、静かに、けれど確実に揺らいでいた。気づかないふりを続けるには、彼はもう、あまりに近くまで来すぎている。下町の雑踏のなかで、わたしは、自分の心の足場が少しずつ崩れていくのを感じていた。
次話:「二人きりの、作戦会議」




