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悪役令嬢を推すのはやめてください、王太子殿下  作者: 夜凪 蒼


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第13話「王子をやめた夜の、横顔」

その夜わたしは眠れずに寮の中庭に出ていた。


 告発状のことを考えると、頭が冴えて仕方がない。誰が何のために。ロザムンドの顔が真っ先に浮かぶけれど、あの手の込みようは彼女ひとりの仕業とは思えなかった。匿名の証人を三人もそろえ宮廷と学園に同時に告発状を送り、父の商会の不正とまで抱き合わせる。これは、相当に大きな手だ。背後に、もっと深いところで糸を引く誰かがいる気がした。


 夜風が冷たい。植え込みのそばのベンチに腰を下ろすとすぐ隣から声がした。


「眠れませんか」


 リオネルだった。


 驚いて顔を向けて、もっと驚く。彼は、いつもの正装ではなかった。襟元をくつろげた簡素なシャツ姿で、銀の髪も少し乱れている。手には、湯気の立つカップをふたつ。片方を、わたしにそっと差し出した。


「あたたかいうちにどうぞ。蜂蜜を、入れすぎたかもしれません」


 受け取るとてのひらに、じんわりと熱が伝わってくる。一口飲んだ。甘い。甘すぎる。蜂蜜を量り間違えた、不器用な甘さだ。思わずゆるみそうになる頬を、わたしは慌ててこらえた。


「殿下が、こんな時間にこんな格好で。誰かに見られたら、それこそ醜聞ですよ」


「殿下は、もう寝ました」


 彼はベンチの背にもたれて、夜空を見上げた。星が薄く散っている。


「昼間の、あの式典の僕。あれが『殿下』です。背筋を伸ばして、誰にでも完璧に微笑む、王太子リオネル。──夜は、脱ぐんです。重いので」


 横顔が、月明かりに淡く浮かんでいた。


 昼に見たあのガラス玉の目は、もうない。少し疲れて少し気の抜けた、ただの青年の顔。完璧な王子をやめた夜の、リオネルの横顔。それはわたしの知っているうるさい推し全開の彼とも、また少し違っていた。もっと静かでもっと剥き出しで、触れたら壊れそうな何かだった。


「告発の件、調べました」


 彼は、夜空を見たまま言った。


「証言者の三人。全員、アシュフィールド侯爵家に、なんらかの借りがある者です。借金だったり、家の弱みだったり。署名は、おそらく書かされたもの。そしてあの家の動きの裏に、もうひとり、糸を引く人物がいる。ロザムンド嬢ひとりに、ここまでの絵は描けません。──まだ、その尻尾は掴めていませんが」


「殿下。なぜ、そこまでしてくれるんですか」


「言ったでしょう。巻き込まれたいんです」


 彼はカップを両手で包んでふっと笑った。さびしそうな、笑い方だった。


「僕は生まれてからずっと、誰かに決められた道を、完璧に歩いてきました。何が欲しいかも、何が好きかも、考える必要がなかった。全部、生まれた瞬間に決まっていたので。剣を習えと言われれば誰より上手くなり、笑えと言われれば誰より美しく笑った。──でも、それは、僕が選んだことじゃない」


 星を映した目が、ゆっくりとわたしを向く。


「あなたを推すことだけは、誰にも決めさせたくないんです。これだけは、僕が自分で選んだ。誰に命じられたわけでもなく、得をするわけでもなく、ただ選んだ。僕の、生まれて初めての、たったひとつのわがままなので」


 わたしは、何も言えなかった。


 カップの中の、甘すぎる蜂蜜の湯。それをたぶん彼は自分で湯を沸かし、蜂蜜を量り間違え、それでもわたしに飲ませたくて運んできた。完璧な王子が生まれて初めて、不器用に誰かのために手を動かした。その証拠が、このぬるくて甘ったるい一杯なのだ。


 その不器用さが、なぜだか胸に刺さって抜けない。観察日記も自作のグッズも、満月の花も全部そうだ。下手で過剰で的外れで——でもまぎれもなく彼が自分で選んだ、彼だけのものだった。


「……甘すぎます、これ」


「すみません。次は、加減します」


「次なんて、ありません」


「ありますよ。きっと、何度でも」


 ふと聞いてみたくなった。


「殿下は、いつから、わたしを推しているんですか」


 口に出してから、しまったと思った。陛下の言葉が頭をよぎる。三年前。あの子が生まれて初めて、自分から何かを欲しがった——。


 リオネルは少しだけ目を見開いて、それから夜空に視線を戻した。


「……三年前です」


「三年前。わたしたちが、まだ言葉も交わしていない頃ですよね。どうして、そんな前から」


「それは」


 彼は言いかけて、口をつぐんだ。カップを、両手でゆっくりと包み直す。


「いつか、話します。半分だけ。今全部を話してしまうと、あなたはきっともっと逃げたくなる。それは、僕の望むところじゃないので」


「……ずるい言い方ですね」


「ずるいんです、僕は。あなたのことになると、特に」


 はぐらかされた。それなのに、不思議と腹は立たなかった。彼が何かを抱えていること。それがわたしを推すことと、どこかで深く繋がっていること。その輪郭だけが、夜の中にぼんやりと浮かんで見えた。


 わたしたちはしばらく黙って、星を見ていた。沈黙が不思議と苦しくない。誰かと並んで、何も話さずにいられる夜。わたしにとっても、ずいぶん久しぶりだった。悪役令嬢として遠巻きにされ、断罪の準備に追われいつも気を張ってきた。こんなふうに肩の力を抜いて夜空を見たのは、いつ以来だろう。


 甘すぎる湯がてのひらの中で少しずつ冷めていく。冷めても、まだほのかにあたたかかった。


 この夜のことを、わたしはきっと忘れない。そんな予感がした。断罪されて辺境へ消えても、甘すぎる蜂蜜の味と、王子をやめた人の横顔だけは、たぶん持っていってしまう。


 それはわたしの計画にとって、いちばん厄介な荷物だった。何も持たず、身軽に消えるはずだったのに。これでは、未練を抱えたまま旅立つことになる。重い荷物ほど、足を鈍らせるものなのに。


 隣で、リオネルが小さくあくびをした。完璧な王子の面影もない、間の抜けた顔で。わたしはなぜだか、それを見て少しだけ泣きたくなる。理由は自分でも、よくわからなかった。


 たぶんこうして誰かと夜を分け合う時間に、わたしも飢えていたのだ。崇められる人と遠巻きにされる令嬢。立つ場所は正反対なのに、抱えている寒さはどこか似ている。


 湯気の消えたカップをわたしは両手でもう一度、握り直した。冷めた甘さが舌の奥に残っている。甘すぎて、少し泣きたくなる味だった。こんな夜を手放したくないと思う自分を、わたしはまだ認めたくなかった。


 月が薄い雲に隠れる。


 暗がりの中で彼の横顔の輪郭だけが、まだわたしの目に焼きついている。消そうとしても、消えてくれない。


次話:「ただの人に見えた、その瞬間」

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