第12話「完璧な人の、静かな目」
ミラを探す前にわたしは王太子の姿を、思いがけない場所で見ることになった。
学園の大広間で、来賓の貴族を迎える式典が開かれていた。近隣の領主や、宮廷の高官たち。春の親睦を名目にした、要するに顔つなぎの社交の場だ。磨かれた床に、ドレスと礼服の色が映りこんでいる。その中央にリオネルがいた。
遠目に見る彼はわたしの知っているリオネルと別人だった。
背筋はまっすぐ。表情は涼やかで隙がない。次々と挨拶に訪れる貴族の一人ひとりに、過不足のない言葉を返している。誰それの領地の収穫を労い誰それの息女の縁談を祝い、相手の名も功績もすべて諳んじている。微笑みは完璧で所作は流れるよう。誰もが彼に見惚れ、誰もが彼にひと言かけてもらいたがる。まさに国の宝。非の打ちどころのない、王太子。
でもその目だけが静かだった。
どれだけ人に囲まれてもどれだけ賛辞を浴びても、彼の目には何も映っていない。よく磨かれたガラス玉みたいにただ光を弾くだけ。口元は笑っているのに、その奥には誰もいない。賑やかな広間の真ん中で、彼だけがぽっかりとひとりきりに見えた。
わたしは、足を止めた。
あの目をわたしは知らない。わたしの前のリオネルはいつも子どもみたいに笑って、観察日記を広げてうるさいくらいに騒がしい。なのに、ここにいる彼は——人形だ。陛下が言っていた、「からっぽのよくできた人形」。あの言葉の意味を、わたしは初めて目で見た気がした。
(あれが本当の……いえ。あれも、本当の、この人なんだ)
崇められることと見られることは違う。何千人に名前を呼ばれても、誰ひとり彼の中身を見ていない。完璧な仮面の内側にどんな顔があるのか、誰も知らないし知ろうともしない。崇拝とは、そういう種類の孤独なのかもしれなかった。
推される側の孤独なら、わたしも少しは知っているつもりだ。でも彼のそれは、桁が違う。生まれたときから、ずっとたったひとりで偶像をやっている。
ふと近くの令嬢たちの囁きが耳に入った。
「ねえ、あれヴァルモア様じゃない……?」「ええ、例の。特待生をいじめていたとか」「まあ、こわい。近づかないほうがよくてよ」
扇の陰からいくつもの視線が、ちくちくと刺してくる。告発状は、まだ公にはされていないはずだ。なのに噂のほうは、もう羽が生えたみたいに広間を飛び回っている。これも、きっと仕込みのうちだろう。世論を先に固めて、断罪の地ならしをしている。誰かがとても丁寧に、わたしの居場所を狭めにかかっている。
わたしは、背筋を伸ばした。ここで俯けば、噂を認めることになる。悪役令嬢らしく、つんと顎を上げてやり過ごす。皮肉なことにこういうときだけは、長年かぶってきた悪役の仮面が役に立った。
その時、リオネルの視線がこちらを向く。
わたしと目が合った瞬間、ガラス玉に光が灯った。静かだった目がみるみる溶けて、いつもの締まりのない熱を取り戻す。完璧な王太子の仮面に、子どもがひとりひょっこり顔を出す。あまりの変わりように、近くにいた貴族が戸惑ったように彼の視線の先を追った。
彼は来賓への挨拶もそこそこに、まっすぐこちらへ歩いてきた。周囲がざわめく。
「セリーヌ嬢。来てくれたんですね」
「……たまたま、通りかかっただけです」
「告発状のこと、聞きました」
声を落として、彼は言った。さっきまでの涼やかさは、どこにもない。眉がはっきりと、心配の形に寄っている。
「あなたを陥れようとしている者がいる。心当たりは、僕にもあります。あれは必ず潰します。あなたには指一本、触れさせません」
「殿下」
わたしは、思わず遮った。
「これは、わたしの問題です。あなたが大々的に動けば、話が余計に大きくなる。巻き込みたくないんです」
本当は、それだけじゃなかった。この告発がわたしの望む出口に化ける可能性も、胸の隅でまだちらついている。家を巻き込まない形にさえ作り替えられれば、これはむしろ好機なのでは——なんて浅ましい計算が消えてくれない。そんな汚い算盤をこの心配そうな目の前で、口にできるはずがなかった。
「巻き込まれたいんです、僕は」
リオネルは、静かに言った。
「あなたのことなら、何にでも巻き込まれたい。それくらいしか、僕には、自分で選べるものがないので」
その言葉がさっき見たガラス玉の目と、頭の中でぴたりと重なった。
選べるものがない。完璧であることを選ばされ崇められることを選ばされ、感情を出さないことすら躾けられた。この人が生まれて初めて自分で選んだものは、たぶんたったひとつ。わたしを推す、それだけ。だとしたらわたしがそれを取り上げるのは、あまりに残酷な気もした。
推しを取り上げる。それは、彼から最後の自由を奪うのと同じだ。崇められる檻のなかで、たったひとつ、自分の意思で掴んだもの。それが、よりにもよって、わたしだった。
光栄だなんて、思えない。むしろ、こわかった。こんなにまっすぐな気持ちを向けられて、それでもなお、断罪のために利用しようとしている自分が、ひどく薄汚れて見えた。逃げたいのに、彼の純粋さが、わたしの逃げ足に、そっと錘をつけてくる。
胸の奥がことりと音を立てる。同情とも、少し違う。もっと落ち着かない、名前のつかない何かだった。
「……勝手にしてください」
それだけ言って、わたしはその場を離れた。
背中に彼の視線を感じる。きっと今あの目には、ちゃんと光が灯っている。わたしひとりのために。
それがなぜだか、振り払えなかった。
広間を出て、わたしは小さく息を吐いた。冷たい噂、捏造された告発、見えない黒幕。そして——胸の奥にできた、名前のつかない何か。抱えるものが日に日に増えていく。重さに足がもつれそうだ。
崇拝とは、距離のことだ。みんなが彼を見上げ、誰も彼の隣には立たない。わたしは、その距離のことを少しだけ知っている。悪役令嬢として、ずっと遠巻きにされてきたから。だからこそ、彼のあの静かな目が、どうしても他人事に思えなかった。似た者同士の、孤独の匂い。気づきたくなかったのに気づいてしまう。
厄介なことになった。ただの同情なら、まだよかった。これは、もっと近くて、もっと危ない感情の、入り口だ。名前をつけたら最後、後戻りできなくなる気がして、わたしは慌てて、その入り口に蓋をした。
でも、立ち止まってはいられない。とにかく、ミラに会わなければ。あの子がこの筋書きのどこに立たされているのか、それを掴まないと反撃の糸口すら見えてこない。わたしは廊下の先を見据えて、足を速めた。
次話:「王子をやめた夜の、横顔」




