第三話 火と土と、騒がしい仲間たち
王立アルヴァニア魔法学園の朝は、鐘で始まる。
第一刻の鐘が鳴ると同時に寮の廊下が騒がしくなり、第二刻までに食堂を済ませ、第三刻の鐘が鳴る前に各自の教室に入っていなければならない。遅刻した場合は問答無用で「課外訓練」が科される。課外訓練の内容は教官によって異なるが、ヴィオラ・ハーバート教官の場合は日没まで訓練場を走らされるという話が既に新入生の間で広まっていた。
俺は第一刻より前に目が覚める。
前世からの習慣だ。教師という職業は朝が早い。それに、転生してからも早起きを続けていた。誰もいない時間に頭を整理するのが、俺の一日の始め方だった。
窓から外を見ると、学園の前庭に朝霧が薄く漂っていた。石畳が夜露で濡れていて、遠くの魔法灯がその水面に映り込んでいる。静かな朝だった。
今日から本格的な授業が始まる。
昨日の測定結果については、クルーガー鑑定師から「詳細は改めて」という話があっただけで、今のところ学園側から特別な呼び出しはない。虚空属性の件は確かに噂になっているが、俺が騒がないでいる限り、じきに他の話題に押し流されるだろう。新入生というのは刺激に飢えていて、次々と新しい話題に飛びつく。それは前世でも今世でも変わらない。
俺は机の上の手帳を開き、今日の授業の順序を確認した。
午前:魔法理論(アルベルト教授)、魔法史概論。 午後:実技基礎(ヴィオラ・ハーバート教官)。
問題は午後だ、と俺は思った。
午前の魔法理論は、想像より面白かった。
アルベルト・クラウス教授は五十代と見られる、白髪交じりの小柄な男だった。講義室に入ってくる姿は「迷子の老人」のようだったが、教壇に立った瞬間に空気が変わった。
「魔法とは何か」
教授は黒板に向かわず、生徒の顔を一人ずつ見ながら口を開いた。
「この問いに答えられる者は、世界中を探しても存在しない。私も含めてね」
何人かの生徒が戸惑った顔をした。冒頭から答えを放棄するとは思っていなかったのだろう。
「魔法は現象だ。火が燃え、水が動き、空間が歪む。その『仕組み』は魔法式として記述できる。しかし『なぜそれが起きるのか』という根本は、まだ誰にも分かっていない」
教授は教壇の端に腰を預け、腕を組んだ。
「だからこの講義では、魔法を『信じるもの』として扱わない。現象として、法則として、観察し記述し検証するものとして扱う。そういう態度で来られない者は、席を外してくれて構わない」
誰も外れなかった。
俺は前世の大学の講義を思い出していた。最初の授業で「この学問を疑うことから始めろ」と言う教授が、決まって良い授業をした。
教授の話は、魔法属性の分類から古代魔法の体系、そして現代では失われた「複合魔法式」の概念まで、一気に駆け抜けた。専門用語を惜しみなく使いながら、要所で具体例を挟む。話の密度が高く、早い。
俺は手が止まらなかった。
前世の教師の癖で、聞きながらノートに要点を書き込む。板書だけ写す生徒が多い中で、俺のノートは教授が口頭で補足した部分や、自分の疑問点まで細かく書き込まれていた。
授業が終わると、隣の席のクロードが首を傾けてきた。
「……お前、あんなに書いてたの?」
「書かないと忘れますから」
「俺なんか半分も聞き取れなかった」クロードは自分のノートを見て「板書だけ写したら終わった」と言った。「つーか虚空属性の件、昨日からすごい噂になってんだけど。本当なの?」
「出たことは出たようです」
「なんで他人事なんだ」
向こうの席からセラが「騒ぎすぎです」と短く言った。クロードは「えっ、俺のこと?」と首をすくめた。
セラはこちらを一瞥してから、また手元の本に目を落とした。授業中も自分のノートとは別に、薄い本を隣において何かと照合しながら書いていた。独自に予習してきた文献だろう。
「メルヴィン君」と俺はクロードに向かって言った。
「あ、クロードでいいよ。俺も下の名前で呼ぶし」
「じゃあクロード。午後の実技が少し気になっていて」
「ハーバート教官の?」俺が頷くと、クロードの顔がわずかに引き締まった。「あの人、やばいって話だよ。元Sランク冒険者で、貴族の生徒にも平民の生徒にも全く忖度しないらしい」
「それは信頼できますね」
「え、喜ぶとこ?」
「優秀な教官なら、こちらも得るものが多い」
クロードは「考え方が変わってんな」と言いながらも、不思議と嫌そうな顔はしていなかった。
午後の実技基礎は、外の訓練場で行われた。
ヴィオラ・ハーバート教官は、三十代前半と思われる女性だった。背が高く、軍人のような姿勢をしている。髪を後ろで一つに縛り、魔法師の礼服ではなく動きやすい実技用の上着を着ていた。その右腕に、冒険者の印とも取れる古い傷の跡がある。
「並べ」
それだけで、五十人の新入生が一斉に動いた。声に有無を言わせない力があった。
「名前は知っている。顔も大体分かった」教官は生徒の列を歩きながら言った。「ただし私はお前たちを、今は一人として信用していない。魔力量もランクも関係ない。なぜなら、お前たちはまだここで何も見せていないからだ」
誰も口を挟まなかった。
「今日やることは一つ。自分の魔法を一度使え。何でもいい。攻撃でも防御でも補助でも。ただし全力で使え。半分の力で見せた者は、その場で追加訓練だ」
列がざわめいた。「全力で」という言葉に反応した者が多い。全力で魔法を使うのは、他者への被害が出ないよう制御が難しいからだ。
ライナスは少し考えた。
全力、という言葉を額面通りに受け取れば、転移が出る。しかし全力の定義を「最大火力の魔法」と解釈すれば、別の選択肢がある。虚空属性の魔法には攻撃的なものも存在する。「空間圧縮」による衝撃波がそれで、転移より地味だが十分に強力だ。
今日はそちらを使おう、と俺は決めた。
順番が来るまでの間、他の生徒の様子を見た。
クロードが先陣を切った。彼の火魔法は、確かに勢いがある。腕を振り上げると巨大な炎の塊が前方に飛び、訓練場の的を焼いた。制御はやや荒いが、火力は本物だ。
「及第点」
教官は短く言った。クロードが「もっと褒めてほしいな……」と小声で呟くのが聞こえた。
セラは無言で地面に手を置いた。
次の瞬間、訓練場の地面が隆起した。
石と土が圧縮されて柱になり、天井近くまで伸びた。その高さは優に十メートルを超える。誰も予想していなかった規模で、周囲の生徒が後退った。
「……良い」
教官の声に、初めてわずかな感情の色がついた。セラは何も言わず、手を地面から離した。柱がゆっくりと元の地面に沈んでいく。
俺の番が来た。
訓練場の中央に立ち、前方の的を見た。的は土製の人形で、二十メートル先に並んでいる。
空間圧縮の魔法を構築した。
虚空属性の応用の一つで、前方の空気を急激に圧縮し、衝撃波として放出する。見た目は地味だ。光も炎も出ない。ただ「空気が歪む」ように見えて、的に当たった瞬間に爆発に近い衝撃が生まれる。
放った。
的が吹き飛んだ。二十メートル先の的が木端微塵になるだけでなく、その後ろに置かれていた予備の的まで三つ纏めて破砕されていた。
沈黙があった。
教官が俺を見た。
「エールハルト」
「はい」
「それは何の魔法だ」
「虚空属性の応用です。空間圧縮による衝撃波」
「転移ではないのか」
周囲がざわついた。転移という言葉が出たことで、昨日の測定の件を思い出した生徒が多いのだろう。
「今日は使っていません」
教官はしばらく俺を見た。その目が何を考えているか、読みにくい目だった。
「及第点」
炎も光も出なかった俺への評価は、クロードと同じだった。教官の公平さが、そこに表れていた。
訓練が終わった後、ダリウスが近づいてきた。
今日の実技では彼も全力を見せた。風属性の魔法で、鋭い刃のような斬撃を放った。威力も制御も高い水準で、教官から「及第点以上」という珍しい評を受けた。
「エールハルト」
今日二度目の呼びかけだった。
「アードラー様」
「昨日から確認したいことがあった」ダリウスは俺の正面に立ち、真っ直ぐに目を合わせた。「お前の虚空属性は本物だな」
「測定結果はそう出ていますので」
「私の祖父は、生前に虚空属性の魔法師の話を聞いたことがあると言っていた。五百年前の記録に残る人物の話だ。それ以来、確認された例がない」
「そうらしいですね」
「お前はその希少性を分かった上で、それを隠そうとした」
俺は少し間を置いた。
「隠すつもりは、今はありません」
「今は、という言い方が正直だな」
ダリウスは腕を組んだ。その目に、俺への侮りは今日は薄かった。代わりに、品定めをするような真剣さがある。
「一つ聞く。お前はその力を何のために使うつもりだ」
直球の問いだった。
俺は考えた。正直に言うべきか、曖昧にすべきか。いや、ダリウスという人間に対しては、曖昧な答えは逆効果だと直感した。彼は頭が切れる。誤魔化しは見抜かれる。
「守るために使うつもりです」
「何を」
「今はまだ、具体的には言えない。ただ攻めのためではなく、守りのために使う。それだけは言えます」
ダリウスはしばらく無言だった。
「……詩的な答えだな」
「自分でもそう思います」
彼は鼻から短く息を吐いた。笑いではなく、思考を区切るような仕草だった。
「私はお前を敵だとは思っていない。念のため言っておく」
「ありがとうございます」
「ただし、信用もしていない。それも念のため」
「公平な立場だと思います」
ダリウスは踵を返した。去り際に、一度だけ振り返った。
「空間圧縮の魔法、なかなか見事だった。転移より地味を選んだのは——賢い判断だと思う」
それだけ言って、彼は自分の護衛のところに戻った。
俺は少しの間、その背中を見た。
ダリウスという人物は、単純な敵ではない。それは今日の会話で確信した。プライドが高く、状況によっては障害になるが、本質的には「公正さへの感覚」を持っている。そこは信用できる部分だ。
前世の歴史に照らせば、強大な家門の後継者が必ずしも悪役になるとは限らない。その人物の周囲と時代が、どう転ぶかを決める。
夕食の後、俺は中庭のベンチで一人でいた。
手帳に今日の整理を書いていると、足音が二つ近づいてきた。
クロードとセラだった。
「いた」とクロードが言った。「一緒にいていい?」
「構いませんよ」
二人はベンチの反対側と、傍らの低い石垣にそれぞれ腰を下ろした。
クロードはしばらく空を見上げていた。
「なあ、ライナス」
「何ですか」
「俺、今日の訓練でちょっと悔しかった」
「どの点で?」
「セラと、お前と。二人とも、俺より何か先にあるやつの目してるじゃないか」
俺は手帳から顔を上げた。
クロードは空を見たまま言った。感傷的ではなく、ただ気づいたことを言うような口調だった。
「俺は強くなりたいから魔法学ぶんだ。それが動機で、今のとこそれだけだ。でもお前は、何かもっと先を見て動いてる。昨日のダリウスへの対応から今日の実技まで、全部計算してるだろ」
「……目敏いですね」
「バカだと思ってたろ」
「そうは思っていません」
「でも驚いたろ」
俺は少し考えて、正直に言った。
「少し」
クロードが笑った。屈託なく笑った。
「俺はそういう、正直なとこ好きだよ。で、何を見てんだよ、お前は」
セラが石垣の上で膝を抱えながら言った。「聞かなくていいと思います。本人が言う時が来たら言うでしょうから」
「でも気になる」
「気になっても、待てばいい話です」
クロードは「うーん」と唸ったが、それ以上は押さなかった。
俺は二人を見比べた。
クロードの直情径行と、セラの静かな観察眼。正反対のように見えて、どちらも「見えているものに正直」という点で共通している。前世でも、こういう生徒は信頼できた。
「一つだけ言えることがあります」
俺は手帳を閉じて、二人に向かって言った。
「この学園で学ぶ間に、おそらく色々と面倒なことが起きます。俺の周辺に限らず、この世界全体として」
「面倒って」
「歴史上、平和な時代が長く続いた後に来るのは、大抵ろくでもないものです」俺は空を見た。「ただ、ろくでもない時代に何もできないとは限らない。できることをする人間がいれば、結果は変わり得る」
クロードが「難しいこと言うな」と頭を掻いた。
「つまりどういうこと?」とセラが言った。
「つまり」と俺は言った。「今日から仲間にしてもらえると助かります。二人とも」
沈黙があった。
クロードが最初に動いた。拳を突き出してきた。「なんか回りくどい言い方だけどな」と言いながら。
俺は拳をぶつけた。
セラはしばらく俺を見ていた。それから静かに「よろしくお願いします」と言って、小さく頭を下げた。
笑わなかったが、耳の先がまた赤かった。
三人で別れた後、俺は寮への帰り道に一人でいた。
転移を使えば一瞬だ。しかし今日も歩くことにした。
石畳を踏みながら、今日見えたものを頭の中で整理した。
クロードは「熱量」を持っている。方向さえ合えば、比類なく頼れる。歴史上、そういう人間が戦の趨勢を決めた例は多い。ただし暴走すると止まらない。それは隣で見ていてやる必要がある。
セラは「観察」を持っている。世界の理不尽を黙って受け入れながら、同時に冷静に記録している。彼女が何かを「分かった」と判断した時、それは本物だ。
エリーゼは「意志」を持っている。力を抑制している事情は知っているが、それでも必要な場面では揺らがない。それはこの世界で生きていく上で、俺には持ちにくい種類の強さだ。
俺に足りないのは「熱量」と「意志」だ、と前世から思っていた。歴史を知りすぎると、「どうせこうなる」という先読みが、動く力を奪う。
だからこそ、隣に置く人間が大事になる。
寮の入口に差し掛かったところで、魔法灯の下に人影があった。
アルベルト教授だった。
何かを考えながら歩いていたようで、俺に気づくと立ち止まった。
「おお、エールハルト君。ちょうど良かった」
「教授? こんな時間に」
「少し考え事をしていてね。君に一つ、聞いてもいいかね」
俺は頷いた。
教授は少しの間、空を見た。それから静かに言った。
「今日の魔法理論の授業で、君は私が口頭で補足した部分まで全てノートに書き込んでいた。確認したくて今日の君のノートを少し見せてもらったが——あれは、普通の十五歳の学び方ではないね」
「……熱心なだけです」
「そうかね」教授は俺を見た。「大厄災のサイクルについて、授業で少し触れた。君はその話の時だけ、書く手が止まって宙を見ていた。気づいていたかね?」
俺は内心、舌打ちをした。
「気になる話でしたので」
「気になる、か」教授はゆっくりと頷いた。「君に一つ聞きたかったのは、それだ。大厄災のサイクル——五百年周期で文明が崩壊に向かうこの現象を、君はどう思う? 初めて聞いた話として」
初めて聞いた話として、という但し書きが重かった。
俺は少しの間、本当に考えた。誤魔化さずに答えるとしたら、どう言うべきか。
「五百年周期というのは、人間の歴史に照らすと短すぎます」
「ほう」
「文明が一定の水準に達する時間を考えれば、五百年では二度と同じ失敗をしないための知識が蓄積できない。記録が残っても、それを読む者の文明が先の世代の水準に達する前に、次の崩壊が来る」
教授は静かに俺を見ていた。
「だから繰り返すのかもしれない、と思います。意図的に繰り返させられているとすれば——それは止めることができるはずです。繰り返しには必ず原因がある。原因があれば、介入できる」
長い沈黙があった。
教授は、また空を見た。
「……明日、授業の後に私の研究室に来てもらえるかね」
「はい」
「古い文書を見てもらいたいものがある」教授は歩き出した。「それだけだよ。おやすみ、エールハルト君」
「おやすみなさい、教授」
その背中が闇に消えていく。
俺は魔法灯の下で少し立ち止まっていた。
大厄災の話は、この世界に来た初日から頭の隅にあった。前世の歴史知識と照合するたびに、「似ている」という感覚が強まる。でもそれが何に似ているのかは、まだ言語化できていなかった。
アルベルト教授の研究室に、明日行く。
それが何かの始まりになる気がした。歴史が動く時は、大抵、誰かと誰かが「ちょうど良い時間に出会う」ことから始まる。
偶然のふりをした必然が、少しずつ積み重なっていく。
俺は寮の扉を押した。
廊下の奥から、クロードの笑い声が聞こえてきた。もう誰かと仲良くなっているらしい。
そういうやつだ、と思いながら俺は自室に向かった。




