EP 8
【静かなる間引き】病院の沈黙
文京区、特定機能病院に指定されている巨大な大学病院。
集中治療室(ICU)は、普段の無機質な清潔さを完全に失い、汗と排泄物、そして死の臭いが充満していた。
「柏木先生! 3番ベッドの患者、血圧低下! 心室細動です!」
「除細動器の充電は!? いや、もう無理か……手動で心臓マッサージを続けろ!」
救命救急センターの若きエースである柏木は、血走った目で叫んだが、その声にはすでに力泥がなかった。
封鎖から2週間弱。
大停電以降、この巨大病院の機能は、地下にある非常用自家発電機に依存してきた。しかし、本来は72時間程度しか持たない重油タンクの残量を、一部の病棟を切り捨てて極限まで延命させてきたのも、ついに限界だった。
水道はとうに止まり、手すら洗えない。医薬品も点滴も底をついた。
もはやここは「治療」をする場所ではない。ただ、電気が尽きるまでの僅かな時間を先延ばしにするだけの「延命の待合室」と化していた。
そして、その時は唐突に訪れた。
——ピーーーーーーーーーッ。
病棟に響き渡っていた、無数の心電図モニターの規則正しい電子音。
それが一斉に、けたたましいフラットラインの警告音へと変わり、直後、ブツンという鈍い音と共にすべての照明と機械が完全に沈黙した。
地下の発電機が、最後の一滴の重油を飲み干し、完全に停止したのだ。
「……あ、ああ……」
暗闇の中、若手の看護師が泣き崩れる音が響いた。
人工呼吸器のポンプ音が止まる。血液透析機が止まる。新生児室の保育器の温度維持システムが止まる。
自発呼吸ができない重症患者たちが、次々とチアノーゼを起こして痙攣し始める。
柏木は手動の人工呼吸器を必死に揉み続けたが、患者は一人ではない。ICUだけでも数十人、病棟全体を見渡せば、電気と機械に命を依存している患者は数百人にのぼる。
人間の手では、どう足掻いても足りないのだ。
「先生、もう……やめましょう」
師長が、暗闇の中で柏木の肩をそっと掴んだ。
その声には、悲しみすら通り越した諦観が滲んでいた。
「もう、私たちにできることは何もありません。……ここで体力を使い果たせば、次に死ぬのは私たちです」
柏木の手から、シュポ、シュポという虚しい音を立てていたバッグが滑り落ちた。
医者としての誓いも、積み上げてきた技術も、圧倒的な『エネルギーの欠如』の前では何の意味も持たなかった。
「……すまない。すまない……!」
柏木は崩れ落ちる患者の冷えゆく手を握りしめ、ただ嗚咽することしかできなかった。
外の世界では、食料を求めて健康な人間たちが殺し合いをしている。
しかし、ここで行われているのは暴動ではない。暴力すら伴わない、極めてシステム的で静かな「間引き」だった。
現代医療という高度な生命維持装置から切り離された弱者から順に、文字通り「自然淘汰」されていく。
静まり返った暗闇の病棟で、ただ患者たちが息絶えていく微かな音だけが、不気味なほど規則正しく連鎖していた。
東京の空で、無機質な数字が冷酷に時を刻んでいる。
【1830:15:00】
この日、都内のあらゆる病院で、数万人規模の命が音もなく「消去」された。




