EP 6
【最初の殺人】紙屑とカロリー
新宿区、歌舞伎町のはずれ。
かつては24時間眠らない不夜城の象徴だったコンビニエンスストアは、今やすべてのガラスが叩き割られ、暴風雨が通り過ぎた後のゴミ捨て場のような惨状を呈していた。
停電から数日。陳列棚は菓子屑ひとつ残らず略奪され、床には泥と割れた酒瓶の破片が散乱している。
バックヤードの薄暗い事務所で、アルバイトの健太は息を殺してロッカーの影にうずくまっていた。
彼の震える両手には、消費期限が3日前に切れた『特盛りチキン南蛮弁当』が握りしめられている。
騒動が始まった初日、パニックになる客の波をよそに、健太が咄嗟に廃棄箱から抜き取って隠しておいた「最後の500キロカロリー」だった。
(……腹が、減った……)
冷え切って油が白く固まった弁当だが、健太の目には黄金のように輝いて見えた。
意を決して、プラスチックの蓋に手を掛けたその時だった。
「おい……! そこに、食い物があるのか!?」
蹴り破られたドアから、一人の男が転がり込んできた。
かつては高級だったとわかるイタリア製のスーツは泥と汗で汚れ、腕にはロレックスが鈍く光っている。血走った目で健太の手元をロックオンしたその「富裕層」の男は、狂ったように内ポケットを探った。
「売れ! それを俺に売れ! 頼む、もう三日も水しか飲んでないんだ!」
男は震える手で、分厚い帯封のついた札束を三つ、健太の足元に投げ捨てた。
「三百万円だ! たかが500円の弁当だろう!? 釣りはいらん、全部やるからそれを渡せ!!」
帯が弾け、福沢諭吉の顔が印刷された紙片が薄暗い床に散らばる。
健太は呆然とした。三百万。フリーターの自分が一年間、夜勤を死ぬ気でこなしてようやく稼げる大金だ。以前の彼なら、間違いなく飛びついていただろう。
だが、健太は動かなかった。いや、動けなかった。
胃袋が痙攣し「その紙切れは消化できないぞ」と本能で警告していたからだ。
「……早く渡せって言ってんだよ、この底辺が!!」
金で解決できないと悟った男が、激昂して健太に掴みかかろうとした、その瞬間。
——ゴシャッ!!
鈍く、そしてひどく潰れたような音がバックヤードに響いた。
スーツの男の動きが、不自然にピタリと止まる。
男の後頭部には、赤い消火器が深々とめり込んでいた。
「あ……、あ……?」
白目を剥き、糸が切れた人形のように崩れ落ちる男。散らばった三百万円の札束の上に、どす黒い血溜まりがゆっくりと広がっていく。
その後ろに立っていたのは、作業着姿の中年男だった。
頬はこけ、目は落ち窪み、人間としての理性を完全に喪失した獣の瞳をしていた。男は、足元の三百万円には一瞥もくれなかった。血の滴る消火器を放り捨てると、無言のまま健太に歩み寄り、その手からチキン南蛮弁当をひったくった。
「あっ……!」
健太が声を上げる間もなく、作業着の男は血に塗れた両手で弁当の蓋を引きちぎり、冷たい飯と肉を素手で鷲掴みにして、喉の奥へ押し込み始めた。
くちゃくちゃ、という咀嚼音だけが、静まり返ったコンビニに響く。
足元では、かつて絶対的な価値を持っていた「三百万円」が、ただの血を吸う紙屑と化していた。
健太は、壁に背中を預けたままガタガタと震え続けた。
法律は死んだ。金も死んだ。
この1400万人の監獄で残されたルールは、たった一つ。
『他人の命を奪って、己の胃袋を満たすこと』だけだ。
窓の外。腐臭が漂い始めた東京の空で、数字が冷酷に減っていく。
【2045:12:08】
最初の殺人は、あっけないほど静かに、そして完全に社会のタガを外してしまった。




