EP 5
【選別と防衛線】引き金と防弾ガラス
封鎖から数日が経過した。
青梅街道、多摩地域への入り口となる幹線道路は、異様な熱気と騒音に包まれていた。
「押し通れ! ふざけるな、なんで俺たちが通れないんだ!」
「子供が、子供が熱を出してるんです! お願いします、通してください!」
道路を完全に封鎖するように横付けされた、オリーブドラブ色の巨大な車体。陸上自衛隊の96式装輪装甲車(WAPC)が数台連なり、物理的な「壁」を形成していた。その後ろには、有刺鉄線のバリケードと、重武装した第1普通科連隊の隊員たちが横一列に並んでいる。
3等陸曹の神谷は、89式5.56mm小銃を胸に抱え、防弾チョッキの下で冷や汗を流していた。
目の前に押し寄せているのは、敵国の軍隊ではない。
数日前まで普通の生活を送っていた、数万人の東京都民だ。
電気と水が止まった23区から逃れ、わずかな食料と水源があるという西部の山間部へ向けて、歩いて押し寄せてきた難民の群れだった。
しかし、彼らがこの防衛線を越えることは決して許されない。
神谷の耳元の無線からは、冷酷な指令が絶え間なく響いていた。
『——繰り返す。グリーンゾーンへの進入は、内閣府発行の特別通行証所持者のみに限定する。一般市民の通過は一切許可されない。防衛線を死守せよ』
神谷の視線の先、バリケードの端に設けられた検問所を、黒塗りの高級車や政府関係の車両だけが、市民の怒号を浴びながら次々と通過していく。あの中に乗っているのは、情報を売り渡して特権を得た者や、国家の「維持」に必要なエリートたちだけだ。
「……っ、ふざけるな! 俺たちの税金で食ってるくせに、見殺しにする気か!」
群衆の中から、血走った目をした男が鉄柵を乗り越えようと飛びかかってきた。それに呼応するように、数千の群衆がうねりを上げて装甲車に押し寄せる。有刺鉄線が軋み、最前列の隊員たちが盾で必死に押し返す。
「下がれ! これ以上は実力を行使する!」
中隊長が拡声器で叫ぶが、飢えと渇き、そして「選別された」という絶望に狂った市民の耳には届かない。ついに、バリケードの一部が群衆の重みで崩落した。
「中隊長殿! 突破されます!」
「……っ、発砲許可! 威嚇射撃を行え!」
その命令に、神谷の時間が一瞬止まった。
自国民に向かって、実弾を撃つのか。
だが、迷っている暇はなかった。暴徒の波が、すぐ目の前まで迫っている。ここで突破されれば、西多摩のわずかな資源も数日で食い尽くされ、東京は完全に全滅する。それが「算術」の残酷な答えなのだ。
神谷は奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばり、89式小銃の銃口を空へ向けた。
安全装置を『ア(安全)』から『タ(単発)』へ回す。カチリ、という金属音が、やけに鮮明に鼓膜を打った。
引き金を引く。
——タァンッ!!
5.56mm弾が空気を引き裂く甲高い破裂音が、青梅街道に木霊した。
薬莢がアスファルトに転がり、乾いた音を立てる。
一瞬、群衆の動きが止まった。彼らは信じられないという顔で、銃口から立ち昇る細い硝煙と、神谷たち自衛隊員の顔を交互に見つめた。
「……撃ちやがった……」
「あいつら、俺たちを殺す気だ……!!」
一瞬の静寂の後、群衆の怒りは恐怖を超え、決定的な「敵意」へと変わった。
彼らは理解したのだ。自分たちはもはや保護されるべき国民ではなく、切り捨てられた「暴徒」なのだと。
神谷は銃を構えたまま、絶望的な吐き気に襲われていた。
防弾ガラスと有刺鉄線の向こう側で、同じ日本人が鬼のような形相でこちらを睨みつけている。
もう、後戻りはできない。平和な法治国家は、たった一発の銃声で完全に崩壊した。
空の数字が、無慈悲に時を刻み続ける。
【2088:41:15】
生存圏を分断する壁が完成し、見捨てられた1000万人の「共喰い」の土壌が整った。




