EP 8
【迎撃態勢】由恵の狙撃眼
封鎖から二十一日目(504時間)の深夜。
杉並区の中村家は、いつものように深い静寂に包まれていた。
二階の寝室。遮光カーテンのわずかな隙間から外を監視していた由恵が、ふと眉をひそめた。
「……あなた。おかしいわ」
暗闇の中で薙刀の手入れをしていた優太が、音もなく立ち上がり、由恵の隣へ滑り込む。
「何があった?」
「さっきから、外の『気配』が変なの。五十メートル先の空き缶の鳴子が、一度だけチリンって微かに鳴った。それっきり、足音が一切しない。……野犬かと思ったけど、違う。何かが『いる』わ」
優太はカーテンの隙間から、漆黒の住宅街へと視線を走らせた。
月明かりすら届かない暗闇。人間の目では何も見えない。だが、優太の研ぎ澄まされた聴覚と、SEALs直伝の戦術眼が、不可視の脅威を正確に捉え始めていた。
「……鳴子が一度しか鳴らないのは、おかしい」
優太は氷のように冷たい声で呟いた。
これまでの暴徒たちは、鳴子の存在に気づかず、あるいは気に留めずに足首狩りの糸を次々と引っ掛け、派手な音を立てて絶命していった。
だが、今の侵入者は違う。最初の鳴子で罠の存在に気づき、それ以降のトラップを『解除』、あるいは『迂回』しながら、極めてゆっくりと、かつ無音で接近してきているのだ。
「素人の半グレじゃない。……プロだ。軍か、それに準ずる訓練を受けた連中だ」
「プロ……。自衛隊の生き残りかしら」
「おそらくはな。そして、この完全な暗闇でトラップを見破って進めるということは、奴らは『目』を持っている。……暗視装置(NVG)だ」
優太の言葉に、由恵の顔に初めて微かな緊張が走った。
暗視装置。わずかな星明かりや赤外線を増幅し、暗闇を真昼のように視認できる軍用装備。それが意味することは一つしかない。
「奴らは、確実に『本物の銃』を持っている」
優太は即座に決断した。
「由恵、香を『コア』へ移動させろ。防音イヤーマフを二重にして、絶対に外へ出さないように」
「わかったわ」
由恵は素早く動き、すやすやと眠る香を抱き上げると、家の中心部に位置し、窓がなく四方を厚い壁と水で囲まれた『浴室』の奥深く、空にした特大の衣装ケースの中に防弾チョッキの素材となるケブラー繊維の毛布と共に寝かせた。ここなら、万が一外から小銃の掃射を受けても、跳弾が届くことはない。
娘の安全を完全に確保した由恵は、寝室へ戻り、愛用のコンパウンド・ボウ(アーチェリー)を手に取った。
「私の射線はどうする? 相手が暗視装置を着けているなら、少しでも顔を出せば撃たれるわ」
「ああ。普通に狙撃すれば、お前が蜂の巣になる。だから……奴らの『目』を潰す」
優太はポーチから、これまで使わずに温存していた強力な『LEDタクティカルライト』(1000ルーメン超の強烈な光を放つ軍用フラッシュライト)を三つ取り出し、由恵に手渡した。
「暗視装置は、微かな光を何万倍にも増幅する機械だ。もし、そのレンズに強烈なフラッシュを直接浴びせたらどうなる?」
「……一時的に視界が白飛び(ハレーション)して、最悪、失明状態になるわね」
由恵の口角が、美しく、そして残酷に吊り上がった。
「その通りだ。このライトを、俺が一階の『キルゾーン』に誘い込むためのダミーとして配置する。奴らが家の内部に侵入し、ライトの光で目を眩ませたその数秒間……それが、お前の矢が奴らの脳天を貫く唯一のチャンスだ」
「完璧なプランね。三発の矢で、必ず仕留めるわ」
由恵はコンパウンド・ボウの弦を静かに引き絞り、二階の踊り場にある最も死角となる狙撃ポイント(スリット)に陣取った。
優太は薙刀を手に、一階へと音もなく降りていく。
銃器を持たない「知略の鬼」と、最新装備で身を固めた「暴力のプロ」。
圧倒的に不利に見える状況下でも、中村家の二人の目には、微塵の恐怖もなかった。
『ここを通るなら、死体になるだけだ』
空の赤い数字が、決戦の火蓋を切るように冷たく輝く。
【1650:20:00】
(封鎖から約21日経過。残り68日)
沈黙のトラップハウス。
暗視装置越しの緑色の視界でクリアリングを進める元傭兵たちが、ついに中村家の「玄関」へと、そのタクティカルブーツを踏み入れた。




