第三章 蟻の巣穴
【死臭と疫病】蟻の巣の清掃
封鎖から二週間(336時間)が経過した。
中村家の一階、厳重に目張りされた玄関の土間で、優太は一匹の「侵入者」を無表情で見つめていた。
——ブゥン……。
鈍い羽音を立てて飛ぶ、丸々と太ったクロバエだ。
優太は手にした丸めた雑誌を、一切の予備動作なく振り抜き、その蠅を壁の空中で粉砕した。潰れた蠅の腹からは、どす黒い体液が壁にへばりつく。
優太はすぐにアルコールティッシュで壁を拭き取りながら、舌打ちをした。
「……ついに、バイオハザード(生物災害)のフェーズに入ったか」
水が止まって二週間。街中に転がる数万の餓死者・脱水死体は、秋の生温かい気温によって急速に腐敗を始めていた。換気口のフィルター越しでさえ、甘ったるく吐き気を催す『死臭』が微かに漂ってくるようになっている。
外科医である優太にとって、暴徒のバールよりも恐ろしいのは、この蠅だった。
死体にたかり、コレラ菌や赤痢菌、チフス菌をたっぷりと蓄えた蠅が、もし一匹でも二階の居住区に侵入し、香の食事や水に止まればどうなるか。
免疫力の弱い五歳の子供なら、致死的な感染症を引き起こし、三日と持たずに下痢と脱水で命を落とす。
「どうしたの、あなた」
二階から足音を忍ばせて降りてきた由恵が、優太の険しい顔を見て尋ねる。
「外の死臭が限界を超え始めている。蠅やネズミが病原菌を運んでくるのも時間の問題だ」
「……どうするの? 換気口のフィルターをもう一枚増やす?」
「いや、受け身の防衛じゃいずれ突破される」
優太は、暗闇の中で由恵の目を真っ直ぐに見つめた。
「香を完全に無菌状態で守り抜くためには、この家を中心とした半径50メートルを『誰も、何も生きて近づけない緩衝地帯』にする必要がある。……これから俺が外に出て、周囲の空き家を掃除してくる」
外に出る。その言葉の重みを、由恵は瞬時に理解した。
「……わかったわ。装備の準備を手伝う」
由恵は一切の反対をせず、即座にバックヤード(床下収納)から必要な物資を引っ張り出した。
優太は、由恵が初日に確保していた『100リットルの特大ゴミ袋』の底に穴を開けて頭と両腕を通し、さらに上からもう一枚被ってテープで手首と足首の隙間を完全に密閉した。
水泳用のゴーグルで目を覆い、医療用マスクを二重にして、間に活性炭フィルターを挟み込む。
完璧な、そして異様な『即席の防護服』の完成だった。
優太の腰のベルトには、薙刀の刃を外した短刀、そして大量の釣り糸、釘、ハンマー、細かく砕いたガラス片が入ったポーチが括り付けられている。
これらはすべて、SEALs教官から学んだ『即席のブービートラップ』の材料だ。
「二時間は戻らない。もし俺以外の何かがこのドアを開けようとしたら、問答無用で扉越しに矢を射掛けろ」
「気をつけて。香ちゃんが起きる前には帰ってきてね」
由恵の言葉に深く頷き、優太は二重の鍵を開け、二週間ぶりに「外の地獄」へと足を踏み出した。
——むわっ。
ドアの隙間から、粘り気のある濃密な死臭が優太の全身を包み込んだ。
月明かりに照らされた住宅街の道路には、あちこちに黒い染みと、原型を留めていない『元・人間だった肉塊』が転がっている。静寂を支配しているのは、何百万匹という蠅の羽音だけだ。
優太はゴーグルの奥で目を細め、まずは隣の家——かつて佐藤家だった場所へと向かった。
ドアには鍵がかかっておらず、半開きになっていた。誰かが水を探して侵入したか、あるいは佐藤自身が力尽きる前に開けたまま事切れたのだろう。
優太が音もなく隣の家の玄関に入ると、暗闇の中に三つの塊が転がっていた。
数日前に優太に水を乞い、見捨てられた佐藤健二と、その妻、そして赤ん坊の干からびた死体だった。顔は苦悶に歪み、すでに腐敗ガスで腹部が膨張し始めている。
「……不衛生だな」
かつての隣人の無惨な姿を見ても、優太の心には一ミリの波風も立たなかった。
外科医としての情も、人間としての倫理も、中村家の玄関に置いてきた。今の彼は、ただ娘のテリトリーを守るための『冷酷な働き蟻』に過ぎない。
優太はポーチから太い釣り糸を取り出し、佐藤家の玄関と階段の間に、見えづらい高さでピンと張り詰めた。
「足首狩り(アンクルトラップ)」だ。暗闇でここに足を引っ掛ければ、侵入者は必ず前のめりに倒れ込む。そして倒れ込んだ先には、上向きに固定された鋭利な釘とガラス片の絨毯が待っている仕組みだ。
「さて、このブロックを一軒残らず『死の家』に書き換えるぞ」
優太は無機質な呟きを残し、手際よく、そして冷酷に、隣家という空間を「人間を殺すための精密機械」へと改造し始めた。
空の赤い数字が、深夜の腐敗都市を不気味に照らしている。
【1824:30:15】
(封鎖から約14日経過)
愛する娘を病原菌から守るため、外科医は周囲の街そのものを『悪魔の巣』へと変貌させていく。




