EP 10
【隔離都市の二極化】死臭の街と、無菌の揺り籠
封鎖から十日(240時間)が経過した。
秋晴れの空の下、かつて世界一清潔で安全だったメガロポリスは、巨大な『腐敗の底なし沼』へと姿を変えていた。
「……あ……みず……」
新宿区の路上。干上がったアスファルトの上で、泥水を啜ろうとした老婆がピクリと動かなくなった。その傍らには、すでに死後数日が経過し、黒く変色して蠅が群がるサラリーマンの死体が転がっている。
水が尽きたことによる脱水死、そしてトイレが流せないことによる糞便性感染症(コレラや赤痢)の爆発的な蔓延。免疫力の低い老人や子供から順に、道端で虫けらのように息絶えていく。警察も救急車も、サイレンの音すら三日前から完全に途絶えていた。
東京を覆っているのは、目を刺すような死臭と、生き残った者たちの狂気だけだ。
***
だが、その地獄の中心・杉並区の住宅街に、外界の死臭を一切遮断した『無菌の揺り籠』があった。
中村家の一階、床下収納の奥深くに埋められた三つのポリ袋は、猫砂と防臭袋の何重ものパッキングにより、一滴の体液も、一筋の腐臭も漏らしていない。
二階の寝室では、LEDランタンの柔らかな光の下、香がクレヨンで画用紙に絵を描いていた。
「パパとママ、お城の兵隊さんみたいに強いんだよ。えいっ、やぁっ、て、悪い怪獣をやっつけてくれるの!」
香が描いたのは、長い棒(薙刀)を持ったパパと、弓を持ったママが、笑顔で黒い怪獣を追い払っている絵だった。悲鳴一つ聞かせず、恐怖を一ミリも与えずに侵入者を「処理」した結果が、この無邪気な絵に表れていた。
「ふふっ、上手に描けたわね、香ちゃん」
由恵は娘の頭を撫でながら、脳内のエクセルシート(兵站計算)を更新していた。
水、残り550リットル。食料ペースト、消費ペース正常。排泄物の処理サイクル、問題なし。外の地獄がどれほど煮詰まろうとも、中村家のロジスティクスは完璧にコントロールされている。
優太は壁際で、布に少量のオイルを染み込ませ、カーボン製の薙刀を無言で磨き上げていた。
刃にこびりついた三人の暴徒の血は、すでに一塵の曇りもなく拭い去られている。彼にとって、人を殺すことは「手術室の消毒」と同じだ。愛する家族に感染(危害)を及ぼす病巣を取り除いただけに過ぎない。
(……第一波は凌いだ。だが、本当に恐ろしいのはこれからだ。生き残った連中は、より凶暴に、より組織的になる)
優太の冷徹な眼光は、防音ガラスの向こう、見えない敵へと向けられていた。
***
同じ頃、西多摩・奥多摩町の地下防空壕。
安全なシェルターでワイングラスを傾けていた原田渥美(総理大臣)は、ふと、背筋に冷たいものが走るのを感じて振り返った。
扉の前に直立不動で立っている、護衛の陸上自衛隊・特殊作戦群の隊員。
その隊員のヘルメットの下の瞳が、原田のテーブルに乗った分厚いステーキ肉を、不気味なほど虚ろな、そして「飢えた獣」のような目で見つめていたのだ。
(……なんだ、今の目は)
原田はごくりと唾を飲み込んだ。
自衛隊の補給線も、この十日で完全に麻痺し始めているはずだ。多摩の防衛線を守る末端の兵士たちには、最低限のレーション(携帯食料)しか配られていない。
それなのに、目の前の老人は毎日A5ランクの肉を食っている。
「国家の最高権力者」という肩書き。
「日本銀行券(紙幣)」という圧倒的な暴力。
それらすべてが、この隔離された2160時間の密室においては『単なる幻想』に過ぎないという真実に、原田自身が気づき始めていた。
腹を空かせた自衛隊員が、手にした89式小銃の銃口を、自分に向ける日はいつか。
権力という名のメッキが剥がれ落ち、純粋な『暴力』と『カロリー』だけが絶対的なヒエラルキーとなるカウントダウンが、静かに始まっていた。
空の数字が、無慈悲に更新される。
【1920:00:00】
(封鎖からちょうど十日経過。残り八十日)
生き残るための「選別」は終わり、強者同士が生存を賭けて喰らい合う、本当の地獄が幕を開けた。




