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『東京封鎖・2160時間〜自給率0%のメガロポリスで1400万人が共喰いするまで〜』  作者: 月神世一


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EP 7

【トリアージ】慈悲の排除

封鎖から6日が経過した。

中村家の二階、遮光カーテンで閉ざされた薄暗い寝室で、由恵は静かに「命の調合」を行っていた。

シェイカーに、貴重な水を正確に100ミリリットル注ぐ。そこへスプーンですり切り一杯の粉末を入れた。

ビタミン・ミネラルが配合されたチョコレート風味のプロテインパウダーと、乳児用の粉ミルクを黄金比でブレンドしたものだ。

「はい、香ちゃん。特製チョコシェイクよ」

「わぁい! ママ、これあまくておいしいね!」

香が嬉しそうにシェイカーに口をつける。

粉ミルクの良質な脂質とカロリー、そしてプロテインのタンパク質とビタミン。これらは本来、大量の水で溶かすものだが、少量の水でペースト状に近い「濃いシェイク」にすることで、水分の消費を極限まで抑えつつ、人間の生命維持に必要な全栄養素を補給できる『完全食』となる。

だが、この最強の非常食には一つの残酷な条件があった。

「水」がなければ、ただの粉塵だということだ。乾いた喉に流し込めば、気道を塞ぎ、最悪の場合は窒息死する。初期段階で600リットルの水を確保した中村家という「要塞」だからこそ成立する、究極の兵站ロジスティクスだった。

優太は、娘の満ち足りた笑顔を背に、一階へと続く階段の踊り場に立っていた。

彼の視線は、玄関の分厚いドアに向けられている。

——ガタッ、ガタガタッ……。

ドアノブが、外から力なく回される音がした。

鍵は二重に、そして内側からチェーンもかかっている。

「……中村さん……優太さん……いるんだろ……?」

ドアの向こうから聞こえてきたのは、ひどく掠れ、ひび割れた声だった。隣に住む佐藤健二だ。

優太は足音を一切立てず、ドアのスコープ(覗き穴)に目を近づけた。

魚眼レンズ越しに見える佐藤の顔は、数日前とは別人のように頬がこけ、目は落ち窪んでいた。唇はひび割れて黒い血がこびりつき、手には震える力でバールが握られている。

「お願いだ……なんでもする……金も払う……だから、一口でいい……赤ん坊に、水を……っ」

ドアにすがりつくようにして泣き崩れる佐藤。

優太の外科医としての脳細胞が、その姿を冷徹にスキャン(診察)した。

(皮膚のツヤは完全に失われ、眼球は陥没している。中等度以上の脱水症状。幻覚やせん妄が始まっている可能性も高い)

医者として、目の前で死にかけている人間を見捨てる。かつての優太なら、良心の呵責に耐えられなかったかもしれない。

だが、今の彼は「家族を守るためのコマンダー」だ。

もしここで情けをかけ、水を一杯でも与えればどうなるか。

佐藤は「中村家には水がある」と確信し、必ず再び要求しに来る。断れば、狂乱して暴徒を連れて襲撃してくるだろう。一滴の慈悲が、二階で笑っている由恵と香の命を奪う『致命傷』になるのだ。

「……っ、開けろよ! 医者だろ!? 見殺しにする気か!!」

絶望が怒りに変わり、佐藤が力任せにバールをドアの隙間にねじ込もうとした。

しかし、極度の脱水で筋肉の水分まで失われた彼の腕には、鉄のドアをこじ開けるだけの力は残っていなかった。

ガンッ、と鈍い音が一度だけ響き、バールが佐藤の手から滑り落ちた。

「あ……あぁ……っ」

佐藤はそのままズルズルとドアに背中を預けて座り込み、力なくすすり泣き始めた。

ドアの内側。わずか数センチの鉄板を隔てた場所で、優太は手にした薙刀の柄を固く握りしめ、氷のように冷たい目で宣告した。

「……ブラックタグだ。お前を救う医療資源は、ここにはない」

声には出さず、ただ唇だけを動かして。

優太は一切の慈悲を排除し、静かに佐藤の死を確定させた。

二階からは、香と由恵の微かな笑い声が聞こえてくる。この温かい空間を守るためなら、扉の向こうに死体の山を築くことになっても構わない。

佐藤の泣き声が次第に小さくなり、やがて完全に聞こえなくなった。

空の数字が、命の選別を嘲笑うかのように時を削る。

【2035:10:05】

(封鎖から約5日半経過)

優太が完全に「鬼」としての覚悟を完了させた日。

中村家の要塞は、最初の「隣人」という脅威を、静寂のままに切り捨てた。

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