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『東京封鎖・2160時間〜自給率0%のメガロポリスで1400万人が共喰いするまで〜』  作者: 月神世一


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EP 5

【二つの晩餐】エゴの獣と、愛の鬼

西多摩・奥多摩町の地下防空壕。

政府中枢が接収したその特別室には、外界の地獄が嘘のような芳醇な香りが漂っていた。

「……うん。やはりA5ランクの松阪牛は、ミディアムレアに限るな」

内閣総理大臣の原田渥美(70歳)は、肉汁の滴る分厚いステーキをナイフで切り分け、満足げに咀嚼した。傍らには、数万円は下らないヴィンテージのボルドーワインが注がれたグラスが置かれている。

「総理、ドローンによる『数日で解除される』という放送の効果は絶大です。23区内の市民の大部分は自宅に留まり、多摩方面への大規模な難民移動は小康状態を保っています」

報告を行う防衛相の言葉に、原田はワイングラスを傾けながら薄く嗤った。

「当然だ。人間は都合のいい嘘を信じたがる生き物だからな。特に、腹が減って思考力が落ちている時はなおさらだ。……彼らには、備蓄のカップ麺でも啜って、そのまま大人しく乾いて死んでもらわねば困る」

原田の濁った瞳には、国民への憐憫など一欠片も存在しない。

彼の頭にあるのは、巨大な水瓶である『小河内ダム』と、この地下要塞の備蓄を、自分たち特権階級だけで90日間独占し、確実に生き延びることだけだ。1400万人の命は、そのための目くらまし(デコイ)に過ぎない。

「愚民どもが水を求めて殺し合い、数が減るのを待つ。それが最も効率的な『防衛』だよ」

脂ぎった唇をナプキンで拭いながら、原田は一人、肉の塊を胃袋へと流し込んだ。

それは、自らのエゴのためだけに他者を貪り食う、醜悪な獣の晩餐だった。

***

同じ頃、杉並区。

暗闇に沈む中村家の二階、遮光カーテンで完全に密閉された寝室。

そこには、原田のステーキとは対極にある、静かで、しかし狂おしいほどに切実な晩餐があった。

小さな折りたたみテーブルの上には、LEDランタンの微かな光に照らされた、三つの紙コップが置かれている。

優太と由恵のコップに入っているのは、底からわずか一センチにも満たない、茶色く濁った水だ。それにアルファ米の粉末をほんの少し混ぜただけの泥のようなペースト。それが、彼ら大人の今日一日の全カロリーであり、全水分だった。

しかし、その中央。

五歳の娘、香の前に置かれたコップには、並々となみなみと澄んだ水が注がれ、その横には、封鎖前に由恵が確保しておいた高級なチョコレートが、銀紙を解かれて二欠片、綺麗に並べられていた。

「パパ、ママ……食べないの?」

香が、自分の前にだけ置かれたご馳走を不思議そうに見つめ、小さな首を傾げた。

優太は、空腹で痙攣しそうになる胃袋を奥歯を噛み締めて押さえ込み、由恵と視線を合わせた。夫婦の目には、一点の曇りもない決意が宿っていた。

「パパたちはね、さっき下でお腹いっぱい食べちゃったんだ。だから、これは全部、香の分だよ」

優太は、決して震えを見せない力強い声でそう言い、血に染まる覚悟を決めた大きな手で、愛娘の頭を優しく撫でた。

「そうよ。ママもパパも、お腹パンパンなの。だから香ちゃん、ゆっくりお水を飲んでね。チョコレートも、今日は特別よ」

由恵もまた、極度の脱水でひび割れそうになる唇に無理やり微笑みを浮かべ、女優のように完璧な嘘をついた。

「ほんと? じゃあ、いただきまーす!」

香が嬉しそうにチョコレートを口に含み、澄んだ水を美味しそうに飲む。

その無邪気な喉の動きを見るだけで、優太と由恵は、自分たちの渇きが少しだけ癒されるような錯覚を覚えた。

(……この笑顔を、明日も守る)

優太は暗闇の中で、一階の階段の踊り場に立て掛けてある『薙刀』の冷たい感触を思い出していた。

外の世界では、政府の嘘に騙された隣人たちが、残りの水を使い果たして緩やかに死に向かっている。あるいは、血走った目で他人の家から水を奪おうと、バールを握りしめて徘徊し始めているだろう。

助けを求める声には一切耳を貸さない。

水を奪いに来る暴徒は、一瞬の躊躇もなくその喉を掻き切る。

1400万人の命など、知ったことか。

たとえ世界中の人間から「血も涙もない悪魔」と罵られようとも。

自分たちは、このたった一人の娘を生かすためだけに、完璧で冷酷な『鬼』になる。

香が水を飲み干した時、空の赤い数字がまた一つ、無慈悲に減った。

【2100:45:12】

(封鎖から丸2日半経過)

狂った東京の夜。

エゴの獣が肉を貪る地下防空壕と、愛の鬼が渇きに耐える小さな一軒家。

どちらの生き様がこの地獄の結末に相応しいかなど、考えるまでもなかった。

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