EP 3
【自宅要塞化】水地獄への備え
午前八時四十分。杉並区の閑静な住宅街。
息を切らして自宅の前に辿り着いた優太は、そこに見慣れた妻の姿を見つけて、獰猛な笑みを浮かべた。
「遅かったな、由恵」
「あなたこそ。環八の渋滞で死んだかと思ったわよ」
業務用台車に限界まで積まれた水とサバイバル物資。由恵もまた、額に汗を滲ませながら優太のバックパックと薙刀のハードケースを一瞥し、ふっと口角を上げた。
二人の間に、余計な説明やパニックは一切なかった。ただ「最悪の事態が起きた」、その共通認識だけで十分だった。
玄関のドアを開け、すべての物資を運び込むと、分厚い鍵を二重に閉める。
リビングでは、5歳になる娘の香が、まだ何事もないかのようにタブレットでアニメを見ていた。優太は薙刀のケースを置き、香の頭を優しく撫でた。
「香。今日からパパとママと、三人で『お城の防衛ゲーム』をするぞ。絶対に外に出ちゃダメだ。いいな?」
「うんっ! わかった!」
無邪気に笑う娘の笑顔を確認した瞬間、優太の目から「父親」の甘さが消え、氷のような「コマンダー(指揮官)」の顔へと切り替わった。
「由恵。配水池のポンプが止まるか、パニックになった連中が水を出しっぱなしにして水圧が死ぬまで、長く見積もっても数時間だ。一滴残らず確保するぞ」
「ええ。二階の各部屋に『タンク』を作るわ」
由恵は買ってきた特大の100リットルゴミ袋を取り出し、段ボール箱の中に二重にして広げた。袋単体では水の重みで破れてしまうが、段ボールの枠にはめ込むことで、完璧な『即席のキューブ型貯水タンク』が完成する。
優太は風呂場の浴槽を綺麗に洗い、限界まで水を張る。同時に、キッチンの蛇口から鍋、ヤカン、タッパー、ジップロックに至るまで、家中のあらゆる「容器」という容器に水を満たしていった。
「よし、これで初期目標の600リットルはクリアだ。……次は『偽装』だ」
優太は洗面所からハンマーを持ち出すと、迷うことなくリビングへ向かった。
そして、道路に面した最も大きな掃き出し窓に向かって、内側から勢いよくハンマーを振り下ろした。
——ガシャァァァンッ!!
鋭い破砕音と共に、防犯ガラスが蜘蛛の巣状に割れ、一部が外へ吹き飛んだ。
「パパ……?」と驚く香の耳を由恵が塞ぐ中、優太はさらに手近にあった椅子を倒し、古い衣服や中身を抜いた不要な財布を床に散乱させた。
「……完璧だ。これで外から見れば『すでに暴徒に窓を割られ、略奪された後の空き家』にしか見えない」
「ええ。誰も、こんなゴミ屋敷の中に水が600リットルも隠されているなんて思わないわ」
夜間に光が漏れないよう、割れた窓の奥から黒い遮光カーテンをガムテープで完全に密閉する。さらに、一階から二階へ続く「直線階段」の最上段に、優太は組み立てを終えた『薙刀』を立て掛けた。
「もし一階に侵入する馬鹿がいても、居住区である二階へ来るには、必ずこの狭い階段を登らなきゃならない。ここは俺の『処刑場』だ。下から登ってくる奴の頸動脈を、上から一方的に突き刺せる」
アメリカの元SEALs教官から徹底的に叩き込まれたCQB(近接戦闘)の概念『フェイタル・ファネル(死地)』。一軒家の構造を逆手に取った、冷酷な迎撃フォーメーションの完成だった。
その時だった。
優太がキッチンで最後の一つのペットボトルに水を注いでいた時、勢いよく出ていた水流が、ふっと細くなった。
(……来たか)
「カァーッ……、ゴボッ、ゴボボボッ……!」
配管の奥から、空気が抜けるような断末魔の音が響く。
そして、蛇口から茶色く濁った水滴が数滴落ちたのを最後に、完全に水は止まった。
静寂に包まれたキッチンで、優太と由恵は視線を交わした。
東京1400万人の命を繋ぐインフラの心臓が、今、完全に停止したのだ。これ以降、外の世界は渇きに狂った地獄へと姿を変える。
「……終わったな。いや、ここからが始まりか」
優太の呟きに応えるように、空を覆う赤い数字が無慈悲に時を刻み続けていた。
【2157:12:44】
(封鎖から約3時間経過)
外界のパニックをよそに、中村家の「渇きの要塞」は、たった3時間で完全な防衛体制を構築し終えていた。




