EP 2
【兵站確保】スーパーのパートと「水の計算」
杉並区、大型スーパーマーケット『ライフマート』。
午前八時過ぎ。品出しのパート中だった中村由恵(なかむら よしえ・33歳)は、店内にざわめきが広がっていくのを感じて手を止めた。
「ねえ、ちょっと外見てよ。空に変な数字が……」
「プロジェクションマッピング? どこかのゲリラライブかな」
「ウケる、とりあえずインスタ上げとこ」
自動ドアの向こう、空を見上げてスマホを掲げる客や女子高生たち。
店長や他のパート主婦も、呑気に「新手のテロ予告ですかねぇ」などと笑い合っている。由恵もエプロン姿のまま、ガラス越しにその巨大な赤い光を見上げた。
【2159:45:12】
(……カウントダウン?)
その瞬間、由恵の背筋に、氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
元銀行員としての冷徹な計算能力と、スーパーの物流を知り尽くしたパートとしての知識、そして何より、外科医であり元SEALs教官から戦術を学んだ夫・優太の顔が脳裏をよぎったのだ。
(都内の幹線道路が塞がれたら、うちの店の在庫はどうなる? ――明日の朝には完全にゼロになる)
(あの数字が『封鎖期間』だとしたら? 2160時間……ちょうど90日)
由恵の網膜の裏で、猛烈な勢いでエクセルシートのような計算式が弾き出された。
人間は食べ物がなくても数週間は生きられる。だが、水がなければ3日で死ぬ。
家族3人が90日間生き延びるための最低飲料水は、1人1日1.5リットル×3人×90日=405リットル。
さらに、水が止まれば水洗トイレはただの汚物溜まりと化す。衛生崩壊(コレラや赤痢)を防ぐための排泄物処理の手段が絶対に必要だ。
「……由恵さん? どうしたの、顔色悪いわよ」
同僚のパートの声など、すでに由恵の耳には入っていなかった。
彼女は被っていた三角巾をむしり取ると、猛ダッシュでバックヤードへ駆け込んだ。
誰もが空の異常事態に気を取られている、この「空白の数分間」。正常性バイアスという名の魔法が解ける前に、すべてを終わらせなければならない。
由恵は巨大な業務用台車を引きずり出すと、倉庫に積まれた段ボールの山に飛びついた。
(パニックになった人間は、必ず米やカップ麺に群がる。でも、水とガスが止まれば米は炊けないし、麺も茹でられない。必要なのは『そのまま飲めるカロリー』と『水』だ!)
「2リットル天然水、6本入りケースを……10箱! いや、持てるだけ!」
台車の一番下に、水の段ボールを限界まで積み込む。
次に掴んだのは、誰も見向きもしない園芸・ペットコーナーの品だ。
「特大の100リットルゴミ袋を5束! 猫砂(消臭・凝固用)を8袋!」
これで、トイレの逆流と悪臭による感染症は防げる。袋を二重にすれば簡易貯水タンクにもなる。
さらに食品コーナーの裏へ回り、彼女は『油』と『蜂蜜』のボトルを鷲掴みにした。
水分を消費せず、腐敗せず、スプーン一杯で莫大なカロリーを摂取できる最強のサバイバル食。
総重量100キロを超える台車を、アーチェリーで鍛え上げた背筋と脚力で強引に押し出し、由恵はレジへと向かった。
「な、中村さん!? ちょっと、何やってるの!? 勝手に在庫を……!」
呆然とする店長の前に、由恵は私物の財布から引っぱり出した一万円札の束——およそ十万円分——を叩きつけた。
「お釣りは結構です! 今日でパートは辞めさせてもらいます!」
「はあ!? いや、レジ通してないし……って、中村さん!!」
制止する店長を完全に無視し、由恵は台車を押して従業員用の裏口から外へと飛び出した。
現金の価値など、明日にはトイレットペーパー以下のただの紙屑に変わる。それを知っているからこその、躊躇のない等価交換(いや、圧倒的な略奪に近い買い叩き)だった。
裏口から自宅へ向かって走り出した直後。
由恵の背後、スーパーの正面入り口から「キャアアアッ!!」という悲鳴と、怒号が響き渡った。
「電車が止まったぞ!」「スマホが繋がらない!」
「水だ! 水を売ってくれ!!」
ついに現実の恐怖(腹の虫)に気づいた群衆が、ゾンビのようにスーパーへ殺到し、暴徒と化した音だった。棚の奪い合いと、ガラスの割れる音が響く。
(……遅いわよ、あなたたち)
由恵は一度も振り返ることなく、重い台車を押して自宅の要塞へと急いだ。
愛する娘と、きっと誰よりも早く事態を察知して動いているであろう夫のもとへ。
【2159:30:11】
封鎖からわずか30分。
東京の99%がまだ「まさか」と笑っていた時間に、中村家の兵站はすでに盤石の第一歩を踏み出していた。




