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『東京封鎖・2160時間〜自給率0%のメガロポリスで1400万人が共喰いするまで〜』  作者: 月神世一


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第二章 トリアージ

【ゼロアワー】通勤渋滞とサバイブのスイッチ

「……チッ、また事故か」

午前八時。東京都杉並区を貫く環状八号線は、完全な停滞に陥っていた。

中村優太(なかむら ゆうた・35歳)は、愛車のSUVのハンドルを軽く叩き、舌打ちをした。大学病院の外科医である彼は、今日も朝から予定されている緊急手術のために急いでいた。

だが、渋滞の原因は事故ではなかった。

ふと見上げたフロントガラスの向こう、抜けるような秋の青空に、ノイズのような亀裂が走ったかと思うと、巨大な赤いデジタル数字が浮かび上がったのだ。

【2160:00:00】

直後、前方を走っていたトラックが急ブレーキを踏み、優太も反射的にペダルを踏み込んだ。周囲の車列からけたたましいクラクションが鳴り響く。

車外に出たドライバーたちが、空を指差して騒いでいる。スマホを掲げて写真を撮る者、「なんだあれ、ドローンか?」と笑っている若者の姿も見えた。

優太は彼らとは同調しなかった。

即座にカーラジオのスイッチを入れる。ノイズしか聞こえない。ダッシュボードのスマホを手に取る。圏外アンテナゼロ

「……通信障害。いや、物理的な遮断か」

優太の脳裏に、高校時代にハワイで出会い、貪欲に戦術を学んだ元SEALs(米海軍特殊部隊)の教官の低い声がフラッシュバックした。

『いいかドク。退路が塞がれ、外部との通信が途絶えた空間は、もはや日常の延長ではない。そこは巨大な「フェイタル・ファネル(死地)」だ。次に起きるのはパニックであり、パニックは必ず略奪と殺戮に変わる』

高校時代の家族旅行。アメリカのショッピングモールで遭遇した銃撃戦。

周囲の人間が次々と血を流して倒れていく中、何もできずに震えていたあの日の圧倒的な無力感。彼がメスを握る外科医となり、同時にボーイスカウトの技術と「薙刀」という武術を極め、CQB(近接戦闘)の戦術を叩き込んだ理由は、ただ一つ。

二度と、大切な人間を理不尽な暴力で失わないためだ。

優太の目は、すでに「通勤途中の医師」のそれから、「戦場のコマンダー」へと切り替わっていた。

(東京都の人口は1400万人。もしこの不可視の壁が物流を完全に遮断しているなら、数日で食料と水が消える。暴動が起きるまで、長く見積もって48時間。いや、水が止まれば24時間だ)

優太は迷うことなくエンジンを切り、SUVのドアを開けた。

数百万で買った愛車への未練など一ミリもない。この鉄の箱は、数時間後には身動きの取れない「棺桶」に変わる。

トランクを開け、常に積載している漆黒のバックパックを引きずり出す。

中には高度な医療キット、サバイバルツール、浄水器、ソーラーバッテリー、そして高カロリーのチョコレートが詰め込まれている。

さらにその奥から、細長いカーボン製のハードケースを取り出した。中に入っているのは、彼自身の肉体の延長とも言える特注の『薙刀』だ。刃は外してあるが、組み立てればいかなる暴漢をも一撃で制圧できる凶器となる。

「おい、あんた! 車を置いてどこに行くんだ! 邪魔だろうが!」

後ろの車の男が窓から顔を出して怒鳴ってきたが、優太は冷たい視線で一瞥しただけだった。

(……トリアージ(命の選別)は、すでに始まっている)

外科医である優太は、命を救うプロだ。しかし、同時に「助からない命」を瞬時に見切り、黒いタグ(死亡群)を付ける残酷な判断のプロでもある。

空を見上げて口を開けている数万の市民たち。彼らはすでに、優太の脳内基準では「黒タグ」だった。

優太が救うべき命(最優先の赤タグ)は、この世にたった二つしかない。

愛する妻の由恵と、5歳になる娘の香。それ以外はどうでもいい。

「待っていろ、由恵、香。パパが必ず守り抜く」

重いバックパックを背負い、薙刀のケースを片手に握りしめた優太は、大渋滞の車列を縫うようにして、自宅のある方角へ向かって全力疾走を開始した。

空の数字が、無慈悲に一つ減る。

【2159:59:48】

東京が地獄へ堕ちるカウントダウンの中で、ただ一人、最悪の事態を完全に想定した男が動き出した。

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