EP 10
【配給という名の嘘】餓死へのカウントダウン
西多摩・奥多摩町の地下深く。
旧時代の遺物として秘匿されていた巨大防空壕を改装した『臨時政府中枢』の特室で、内閣総理大臣の原田渥美(70歳)は、最高級の玉露を静かに啜っていた。
「……総理。第1普通科連隊による『グリーンゾーン』の完全封鎖、および周辺農地・水源の掌握が完了しました。これで我々を含めた政府機能と選抜された数万人の生存は、90日間保証されます」
防衛相の報告に、原田は深く刻まれた顔の皺を僅かに歪めて嗤った。
爬虫類のように冷たく、濁った双眸。彼は国家の存亡などどうでもよかった。ただ「自分という個体」が、この2160時間の地獄を確実に出口まで生き延びること。そのための計算式に、1400万人の国民は単なる「邪魔な数字」としてしかカウントされていない。
「ご苦労。だが、まだ23区には1000万匹以上の『餓えた獣』が残っている。奴らが死に物狂いでこの多摩の防衛線に押し寄せてくれば、いくら弾薬があっても足りんよ」
原田は茶碗を置き、冷酷な決断を下した。
「彼らに『希望』を与えなさい。直ちに都内全域へ無人ドローンを飛ばし、拡声器で放送するんだ。『明日の正午、主要な公園にて1人1日300キロカロリーの特別配給を行う。安全な場所で待機せよ』とな」
「総理……!? しかし、配給する食料など、もう都内には……」
「無いから言っているんだ」
絶句する官僚たちを、原田は氷のような視線で射抜いた。
「希望を与えれば、人間はそれにすがり、その場から動かなくなる。暴動を起こす気力も、防衛線へ向けて行軍する体力も、すべて『配給を待つ列』の中で無駄に消耗させることができる。……同士討ちをして、勝手に餓死してくれるまでの時間稼ぎ(デコイ)だ。私が生き残るためのな」
彼にとって、国民は自らの命を繋ぐための「壁」に過ぎない。
原田はモニターに映る23区の惨状を見下ろし、満足げに目を閉じた。
***
翌日の正午。新宿御苑。
原田の放った「嘘のドローン放送」を信じ、広大な公園には足の踏み場もないほどの群衆が押し寄せていた。
誰もが骨と皮のように痩せこけ、虚ろな目をしている。赤ん坊を抱えた母親も、かつての富裕層も、皆が一様に空を見上げ、来ないはずの自衛隊のヘリコプターを待ち続けていた。
太陽が西へ傾き、夕闇が迫っても、配給は来なかった。
「……こない……」
「嘘だ……嘘だぁぁぁッ……!!」
絶望が頂点に達した時、群衆の足元で一人の老人が力尽き、ドサリと倒れ込んだ。
極度の栄養失調と脱水による、あっけない心停止だった。
悲鳴は上がらなかった。
代わりに起きたのは、異常な沈黙だ。
老人の周囲にいた数十人の市民が、その「動かなくなった肉体」を、まるで別の生き物を見るかのような目で見下ろしていた。
道徳も、倫理も、すでに彼らの胃袋の中で消化され尽くしている。
腹の底から湧き上がる圧倒的な飢餓感が、脳のストッパーを完全に焼き切ろうとしていた。
一人の若い男が、ふらふらと老人の遺体に近づき、その腕を掴む。
そして、獣のように口を大きく開けた。
原田という一人の老人の生存欲が放った嘘が、1400万人の倫理観に最後の一撃を刺したのだ。
【1824:00:00】
(封鎖からちょうど14日経過)
空の数字が時を刻む下、東京はついに、人間が人間を喰らう『完全な地獄』へと堕ちた。
(第一章・完)




