第89話 呪い喰らうは王の骨
残された時間はそう多くない。
簡易ベッドに横たわるイゾルデの胸部で、呪毒の侵食が皮膚をどす黒く染め上げている。薄い皮膚の下で毒素が脈打ち、今にも心臓へ到達しそうだった。
テントの淀んだ空気の底から、生乾きの鉄と焦げた脂肪を混ぜたような、胃の腑に絡みつく不快な匂いがほのかに立ち上る。
彼女の頭側で両手をかざし、魔力を注ぎ込み続けるジョージも限界が近い。魔力枯渇の反動か、土気色になった額からは脂汗が滲み、荒い呼吸とともにテントの冷気へ白い息を吐き出している。
得物がない現状に文句を言っている猶予はない。
「くそっ……素手でやるしかないか」
簡易ベッドの脇に膝をつき、彼女の胸部深くへと視界を合わせる。《万象掌握》を発動し、呪毒の核を両手で直接掴み込んだ。
「――おおおおッ!」
足の裏から腰、背中へと力を連動させる。全身のバネを使い、素手で無理やり引き抜こうと試みる。
――だが、ピクリとも動かない。
バールの時とは次元が違う。テコの原理がない生身の腕力だけでは、「大樹を根こそぎ引っこ抜く」ような絶望的な質量には到底太刀打ちできない。
分厚いコンクリートの壁に素手で挑んでいるようなものだ。
それどころか、強固な反発力が指の骨に直接伝わり、関節がメキメキと軋んだ。
「ぐっ……! ああああッ!」
軋む関節の悲鳴を、奥歯を噛み合わせて強引に封じ込める。舌の根に溶けた硬貨のような鉄の味が広がった。神経を粟立たせる激痛が脳を叩くが、無理やり思考の隅へ押しやる。
さらに深く腰を落とし、全体重を後ろへと乗せて強引に引きちぎろうとした。
――ブチッ。
生々しい破断音が響く。
呪いの根が剥がれたか。わずかな期待とともに顔を上げた視界に入ったのは、微塵も動いていない赤い核と、そこから這う無数の根。
音を出していたのは、鮮血をボタボタと滴らせる俺自身の「両手」だった。
限界を超えた強烈な負荷に耐えきれず、指の肉が第一関節のあたりから半分ほど裂けたのだ。
だが、異常な回復力を持つ肉体は即座に肉芽を這わせ、傷を塞ごうとする。強引な牽引による暴力的な負荷で肉が千切れ、治癒力で繋がり、また千切れる。終わりのない凄惨な再生と破壊のループが、指先で幾度も繰り返された。
破れ続ける皮膚の隙間から熱い血が溢れ出す。指の腹を生温かさが這い、土の床へ落ちると一瞬で黒く滲んだ。鼻腔をつく生臭さと空気に混じる焦げの残り香が、口の中の鉄味と重なり合う。続く滴りは足元の冷たい土を赤く染めていった。
「……ッ!」
己の指がすり潰されるのを厭わず、血まみれの両手で限界を超えて力を込め続ける。
――だが、何度引いても。
己の肉が千切れては再生を繰り返す理不尽な暴力を加え続けても。
強固な呪いの根は岩盤と同化したかのように、ピクリとも動かなかった。
ジョージの限界が刻一刻と近づいているというのに、手元にはもう、呪いを引き剥がすための「武器」がない。
「ぐ……あ……」
両手に握られた呪いの根の奥、イゾルデの口から微かなうめき声が漏れる。苦痛に顔を歪める彼女の胸元――戦場には不釣り合いなほど豪奢な誓願の礼服が、呪毒の侵食によってドス黒く変色し始めている。
彼女もまた、限界だった。
(ナビ子! 手はないのか!)
脳内の相棒へと救いを求める。だが――。
『……』
返事がない。
いつもなら即座に思考へ割り込んでくるはずの相棒が、処理落ちした古い端末のように完全に沈黙している。
皮膚の下を嫌な汗が這い落ちた。
視線の先にあるイゾルデの胸部で、醜悪な赤い核が再び激しく脈動を始める。精緻な刺繍が施された豪奢なドレスごと、彼女の可憐さを無残に蹂躙し、今まさに致命的な呪いを放とうとしていた。
間に合わない――。
最悪の結末が脳裏をよぎった直後だった。
『コレを使ってください!』
目の前の空間がピクセル状にバグったように歪み、収納機能が勝手に展開される。
青白い光の中から、ゴトリと重々しい音を立てて「それ」が地面に落ちた。
形状こそこれまで使っていたバールと同じだ。だが、ダンジョン鋼や最高硬度の黒鉄などとは次元が違う。
ただそこにあるだけで周囲の空気が重く淀み、湿った布で全身を覆われたような圧迫感が肌を縮めさせる。こちらの魂すら丸ごと呑み込んでしまいそうな、底知れない暴虐のオーラが立ち上っていた。
出所を問いただしている余裕はない。
足元に落ちた異形のバールを、血に染まった両手で乱暴に掴み上げる。
――ズンッ!!
握り込んだ瞬間、滑らかで氷のような冷たさが掌に伝わる。傷口の熱を奪い、神経を刺すように冷やしながら、手のひらから全身の細胞へとおぞましいプレッシャーが伝播した。
尋常な物質ではない。だが同時に、決して壊れないという絶対的な硬度と質量が、両手を通してありありと理解できる。
これなら、100%の出力を乗せても折れることはない。
最強のテコが、手元に届いたのだ。
「……上等だ。これなら、いける!」
新たな得物を構え、再びイゾルデの胸部へと向き直る。限界の状況下で、一筋の凶悪な希望が確かに灯っていた。
――さぁ、反撃の時間だ。
痛む身体のバネを極限まで引き絞り、全身の運動エネルギーを新たな得物へと叩き込む。
フルスイングの破壊エネルギーを限界まで受け止め、異形のバールが、死の気配が漂う野営地で暴虐な産声を上げた。
――ガァンッ!!
金属とも骨ともつかない、明らかにこの世の物質ではない重低音が空間を震わせる。
テコの支点としてバールを当てた瞬間、まるでバールそのものが呪いのアンカーに食らいついたような、異様な感触が両手に伝わった。
ピクリともしなかった根が、初めて根元から大きく波打つ。
「――おおおおおッ!!」
裂けた指の激痛などとうに意識の外へ弾き出していた。
バールに全体重をかけ、極限まで引き絞った全身のバネを一気に解放する。
新しい獲物は、全力を微塵もロスすることなく、全て呪いのアンカーへと伝達した。
――ベリュベリュベリュィィィッ!!
さきほどのブチブチという音とは違う。大樹の根が、岩盤ごと無惨に引き剥がされる凄惨な音が響き渡った。
イゾルデの胸部から巨大な赤い核と無数の根がごっそりと引きずり出される。空中に浮かんだ禍々しい塊は、先ほどと同様に光となって即座に収納機能へと吸い込まれて消えた。
もはや、言葉の合図すら不要だった。
呪いのアンカーが完全に離れた、そのコンマ一秒の隙。
限界の向こう側で待ち構えていたジョージが、声にならない血の咆哮とともに魔力を解放する。
――《聖王の威光》。
テントの内側を白く飛ばすような、圧倒的な浄化の閃光が直撃した。
張り詰めていた空気が一気に弾け、光の奔流に飲まれた残滓は抵抗する術もなく消滅していく。鼻をついていた焦げと生乾きの重さが溶け、代わりに喉の奥まで冷やすような、雨上がりの石のような清い匂いが広がった。
「……はぁ、はぁ……」
ジョージは荒い息を吐きながらも、すぐさま回復魔法を展開する。
優しい光がイゾルデを包み込み、テント内の冷えた空気の輪郭が少しだけ解け、頬の肌にわずかな温かみが戻った気がした。黒く変色していた彼女の皮膚が、本来の美しい白さを取り戻していく。
微かに上下するだけの浅い呼吸が、次第に深く、力強いものへと変わっていった。
「……終わったか」
血まみれの両手からバールを下ろし、大きく息を吐き出す。
胸に張りついていた重さが抜け、肺に入る息だけが妙にはっきりする。周囲の空気を重く淀ませていた呪いの気配は、完全に消え去っていた。
「……う、ん……」
静寂が戻ったテントの中で、イゾルデが小さく呻き声を上げる。
さっきまで死の淵にあったとは思えない回復速度だ。高ランク探索者の生命力は図抜けている。
簡易ベッドに横たわったまま、ゆっくりと、深い湖を思わせる紫水色の瞳が開かれた。焦点の合わない視線を彷徨わせた彼女は、すぐ脇で膝をつく巨漢の男――ジョージの輪郭を捉える。
「……ロード? ここは……」
「イゾルデ! 無事か、気がついたか!」
ジョージが安堵の声を漏らし、片膝を土についたまま彼女の肩と背を支えて身を起こさせた。
その隣のベッドでは、一足先に治療されたギャレスが、自分の胸元に触れながらゆっくりと半身を起こしている。さらにその背後では、倒れた二人を看病し続けていた重盾の大男と聖弩の長身の男が、信じられないものを見るように立ち尽くしていた。
ギャレスとイゾルデの名前しか知らないが、恐らく彼らも円卓のメンバーなのだろう。見知らぬ東洋人がこの世ならざる鈍器を振り下ろし、絶望的な呪いを力任せに引き剥がした一部始終を、彼らは間近で目撃していた。
テントの支柱に背を預けたまま肩で息をしていると、円卓の面々と視線が交差する。
彼らの眼に宿っていたのは、濃密な推測と困惑だ。外部から完全に遮断された死地に突然現れ、ジョージすら治療しきれなかった症状を治した男。
ジョージが休暇先の日本でわざわざ会いに行った『世界トップの実力者』以外に、該当者はいない。
しかし、何故ここにいるのか。どうやって入ってきたのか。そして、なぜあんなおぞましい武器を持っているのか。切迫した状況ゆえに誰も口には出さないが、無言の問いがテント内に充満している。
「みんな、無事なの……? 一体、何が……」
意識を引き戻されたばかりのイゾルデは状況を掴めず、助けを求めるように円卓のメンバーたちへ視線を向けた。だが、問われたギャレスたちも戸惑うように視線を交わすだけで、誰一人として答えを持ち合わせていない。
すまん。見知らぬおじさんが急にやってきて、場をひっかき回してしまった。
「私が説明しよう」
部下たちの沈黙を察し、ジョージが静かに口を開く。
信じてたよ、ジョージ。お前はやれる男だ。
そこからの事後説明は、驚くほど短時間で終わった。
日本にいたはずのジョージがどうやって隔離空間に現れたのか。横にいる東洋人は誰で、なぜあの絶望に対処できたのか。
無数に浮かぶであろう疑問符に対し、ジョージは『彼が私を連れてきて君たちを救った』という事実だけを、王としての圧倒的な威圧感と共に端的に告げたのだ。
いや、分かるよ。
どこまで話していいか打合せなんかしてないもんな。
でも、「これ以上の言葉は必要ないだろう?」みたいな高圧的な態度だと、逆に部下たちが困るんじゃないか?
案の定、ギャレスたちの眼差しが、警戒から戦慄、そして深い畏敬へと塗り潰されていく。
普段はあんなに気のいいジョージが、ここまで強引に部下を押し切る姿など、彼らも見たことがないのではないだろうか。あまりのギャップに内心で首を傾げる俺の困惑など知る由もなく、円卓の面々は完全に神妙な空気に呑み込まれていた。
その空気にどうしてもいたたまれなくなり、軽く片手を上げて口を挟む。
「あー……本当、緊急だったから説明できることが少ないんだけど、後でちゃんとした説明をするから。とりあえず、今起きたことは良い感じにごまかしておいて欲しい。ここにいるのは都合が悪くて、一旦俺たちは戻るから」
俺の言葉に対し、ギャレスやイゾルデたちは重々しく頷いた。
(お? 意外とあっさり。ジョージが信頼してるってだけで納得できてたのかもな)
『……いえ、騎士王の態度からマスターの異質さを察し、恐れ多くて口を挟むことができないだけでしょう』
脳内で冷静にマジレスを入れてきたナビ子の推測を、聞こえなかったことにして意識からスワイプする。
とにかく、これ以上長居するつもりは毛頭ない。
血まみれの両手で握っていた異形のバールを、改めて見下ろした。禍々しい骨の質感と、生きた血管のような赤い脈動。どう考えても呪い以上に呪いめいた外見をしている。
(……そういや、なんだこの禍々しいバール。まぁ、助かったから別にいいけど)
細かいことは気にせず、俺はそれを『収納機能』へ無造作に放り込むと、ジョージに向かって振り返った。
「ということで、帰ろう」
その言葉を受けたジョージは、自ら円卓のメンバーたちへ向き直る。
そして、一切の異論を許さない厳格な声で命じた。
「聞け、お前たち。許可が出るまで、彼に関する一切の記憶を、この瞬間をもって封印しろ。誰に聞かれようと、何を見ようと、彼の存在は無かったものとする。これは《円卓》のトップとしての、私からの絶対の命令だ」
円卓のメンバーはジョージの気迫に完全に飲まれ、石像のように固まったまま深く首肯する。
だからさあ、怖がってんじゃん。
俺と話してるとき、そんな態度じゃなかったじゃん。
極端すぎる態度差にツッコミたくなるが、彼が俺の平穏な日常を守るため、あえて冷酷なトップを演じて義理立てしてくれているのは分かる。その不器用な誠意を無下にするわけにもいかず、ただ黙って成り行きを見守るしかなかった。
『マスターの正体に関するセキュリティは担保されたようですね』
人の気持ちが分からないナビ子は暢気なもので、満足そうに頷いている。
コイツはほんまに。
とはいえ、これで後腐れはない。何もない空間に向けて右手を軽く突き出し、ナビ子のサポートのもと次元転移シークエンスを起動する。
直後、網膜の裏側に天文学的な数の空間座標データと、超複雑な術式イメージが滝のように流れ込んでくる。システムに接続された思考はそれを淀みなく処理し、莫大な魔力を練り上げていった。
テントの床から青白い光の粒子がフワリと舞い上がり、空中で幾何学的な模様を描きながら急速に収束する。瞬く間に大人が並んで通れるほどの『光のゲート』が形成された。
「じゃあ、そういうことで」
短く言い残し、迷うことなく光の裂け目に足を踏み入れた。
◇
――そして、静寂だけが残されたイギリスの小さな野営地。
そこには、危機から救われたものの、トップに置き去りにされた《円卓》のメンバーたちだけがポツンと取り残されている。
「……行って、しまわれましたね」
「ああ……」
イゾルデの呆然とした呟きに、ギャレスが虚ろな声で返す。
英国トップパーティのメンバーが二名も失われるかもしれないという未曾有の危機は、確かに解決した。
「これ……後で協会本部や政府に、何と報告すればいいんだ?」
ギャレスが重すぎる問いをこぼし、全員が頭を抱える。
すると、沈黙を破って、背中に巨大な聖弩を背負った長身の男――オーウェンが口を開いた。
「……『収納機能』にあるアイテムを手あたり次第に使っていたら、たまたま解決できるアイテムがあった、とかでいいんじゃないか?」
苦し紛れの提案だったが、一瞬の沈黙の後、背中に巨大な重盾を背負う巨漢――パーシヴァルが深いため息とともに頷いた。
生真面目な騎士として知られ、普段であれば虚偽の報告など絶対に許容しない男だったが、今回は背に腹は代えられない。
「……致し方ない。ロードの厳命である以上、他言するわけにはいかないからな」
その後、イギリス全土を揺るがした未曾有の危機的インシデントは、彼らが苦しい口裏合わせをした結果、「いや、それは……その……たまたまアイテムがあって解決して……」としどろもどろになって報告するという、前代未聞の顛末を迎える。
政府や協会側としても、相手が国家の要である高ランク探索者たちである以上、強硬に問い詰めることもできず、なんともしまらない形で有耶無耶に処理されてしまった。
◇
山梨にある温泉旅館『湖翠楼』。
その離れの特別室に戻ってきた俺とジョージだが、そこであまり見たくないモノに直面してしまった。
「やぁ、お邪魔しているよ」
上座の座椅子に腰掛け、銀縁眼鏡を人差し指で押し上げながら、冷徹な視線をこちらへ向ける長身の男――氷室 透。
そしてその背後に静かに控え、鋭い眼光で値踏みするように見つめる女性――天宮 巫。
(……あれれー? おかしいなー? 日本のトップである《海神》様と《神籬》様がどうしてここにー?)
『マスター。現実逃避はやめましょう』
脳内で素早く飛んできたナビ子のマジレスに、背筋をさらに嫌な汗が這い落ちる。
絶対に会いたくなかった二人が、完璧なタイミングで待ち受けていたのだった。
ということで、無事絶望は回避されました。
もし、おじさんが「助けない」を選択していた場合
二人は絶命し、イギリスの戦力はかなり減少し、世界的にも大きな混乱が起きていたと思われます。
また、ジョージは休暇を取ってしまった(といいつつ成長の種を探しに行っていた)ことを深く後悔します。
その結果はーー。
まぁ、そうならなかったんでIFを考えても仕方ないんですが。
ブックマークや☆評価で背中を押してくださるあなたへ。
本当にありがとうございます。
この作品が続けられているのはあなたのおかげです。
評価をしていない人は、お好きなタイミングで構いません。
少しでも面白ければ評価を頂けると嬉しいです。
★は五個まで増やせます。




