第88話 死に至る呪い
青白い光のゲートに身を投じた直後、内臓がふわりと浮き上がるような独特の感覚が三半規管を揺さぶった。
視界が反転し、足裏に土と短い草の感触が伝わってくる。ナビ子の莫大なシステム演算によって形成された転移の光を抜け、俺たちはイギリス・グラストンベリーにあるダンジョン付近へ降り立ったのだ。
直後、俺の鼻腔を強烈な異臭が突いた。
本来なら緑豊かな平原が広がっていたであろうダンジョン周辺の景色は、無惨な有様だった。
瑞々しいはずの草木は黒く枯れ果て、冷たい泥の底に沈められたような、ねっとりとした瘴気が空間全体を覆い尽くしている。呼吸をするだけで肺の奥がチリチリと焼けるような感覚があった。
『……相当高ランクな呪毒ですね。並みの探索者なら、この空気を吸っただけで数分後には肺が爛れてお陀仏です』
脳内でナビ子が、感情の抜け落ちた声で即座に解析結果を報告する。
『まぁ、マスターは異常な毒耐性を持っているので問題ないですけど』
瘴気の奥、ダンジョンの入り口である巨大なゲート横に、急造されたと思われる小さな野営地が見えた。俺たちは足早にそこへ向かう。
テントがいくつか張られただけの簡素な陣地の中は、鉄錆の匂いと濃密な死の気配が充満していた。
中心に置かれた二つの簡易ベッドの上で、探索者が全身を痙攣させている。喉の奥からひび割れたような呼吸音が漏れており、状態の重さは素人目にも明らかだった。
一人は、屈強な体躯を持つ男。常に最前線で味方を庇っていたのか、軽量板金は原形を留めないほどにひしゃげている。
もう一人は、戦場に不釣り合いな豪奢なドレスを纏った女。その礼服は無惨に引き裂かれ、深い湖のような紫水色の髪が泥と冷や汗にまみれていた。
荒い呼吸音だけが響く惨状を前に、ジョージの巨体が微かに震えた。
彼は迷うことなく、一直線にその二人のもとへ駆け寄る。
「ギャレス! イゾルデ!」
主の切羽詰まった声に、ベッドの傍らで傷だらけの体を引きずりながら看病を続けていた二人の男――分厚い重盾に身を預ける巨漢と、巨大な聖弩や爆符の入ったポーチを背負った男が、弾かれたように顔を上げた。
「ロ、ロード……!? こんなに早く……」
巨漢のくぐもった声は、信じられないものを見るような響きを帯びていた。
ジョージは力強く頷き、倒れている仲間の肩にそっと手を置いた。その横顔には、王としての威厳と、仲間を想う熱い感情が滲んでいる。
「仲間の命がかかってるんだ。不可能も可能にしてみせるさ」
「ロード……ッ!」
「まぁ、今回は頼れる友人の力を借りたんだけどね」
涙ぐむ男たちに微笑みかけると、ジョージは隣に立つ俺へと視線を向けた。
部下二人の視線も、つられるように俺へと集まる。彼らは、屈強な騎士王の隣に立つ見慣れないアジア人の姿に、一瞬だけ混乱したように眉をひそめた。だが、今は得体の知れない男の素性を追及している余裕などない。
彼らが言葉を飲み込んだのを察すると、ジョージはすぐにギャレスとイゾルデが横たわるベッドの側へ膝をついた。
症状は深刻だった。
彼らの胸部――心臓の真上あたりに、どす黒い靄が渦を巻いている。それが肉を腐らせ、穴を穿とうとするのを、強靭な生命力が無理やり再生させて拮抗している状態だ。だが、人間の生命力は無限ではない。遠からず限界を迎え、死に至るのは時間の問題だった。
ジョージは両手を広げ、圧倒的な魔力を解放する。
「今すぐ治してやる。――《聖杯の恩寵》!」
ジョージの叫びと共に、目も眩むような黄金の光が空間を埋め尽くし、傷ついたギャレスとイゾルデの体を包み込んだ。
「……おお、痛みが……」
「息が、できる……」
倒れていた者たちの顔に血の気が戻る。
暴力的なまでの魔力出力によって、肉体の損傷が凄まじい速度で治癒されていく。
ジョージ自身もその手応えを感じたのか、安堵の息を吐きかけた――その時だった。
「……ぐ、ァ、あああァァッ!」
突如、治癒されたはずの探索者たちが再び身をよじって絶叫を上げた。
完全に塞がったはずの心臓の上の空間から、再びどす黒い靄が染み出し、新たな傷を穿ち始めたのだ。
「ただの毒じゃないのか……。《聖王の威光》!」
ジョージが即座に切り替え、先ほどとは違う白銀の光を放つ。黒い靄は光に当てられて一瞬にして晴れたものの、すぐにまた肉の奥から染み出してきて患部を蝕み始める。完全に消し去ることはできていないようだ。
「クソッ! どうしてだ。なぜ浄化しきれん!」
苛立ちを隠せないジョージの叫びに、ナビ子の冷徹な分析が俺の脳内に響いた。
『彼らの心臓に、「呪毒の核」とでも呼ぶべき物質が埋め込まれています。あの核は宿主の生命力を養分にして自らを構成する寄生型です。彼らが生きている限り、表面の呪いを浄化しても即座に復活するようですね』
(心臓に……? なら、いっそ心臓ごと抉り出して回復させれば?)
ジョージの仲間ということは、赫金級には至っているだろう。その強靭な生命力と、ジョージの規格外の回復魔法があれば、心臓の一つくらいすぐに生えてくるはずだ。
『残念ながら、既に呪いは血管から魔力回路に至るまで深く根を張っています。もし外科的にやるなら、全身に張り巡らされた血管と魔力回路を、心臓ごと一瞬で全て削ぎ落とす必要があります。……いくら彼らでも、全身の器官を一度に喪失すれば死ぬでしょう』
(全身に蔓延る呪いの原因だけを、どうやって取り除けっていうんだ)
これでは手詰まりだ。
全身に根付いた呪いの原因を取り除く必要があることは分かった。だが、その大前提である「取り除く」手段が存在しない。
『一つだけ、可能性があります。マスターの万象掌握を使えば、彼らの身体を傷つけずに原因を取り除けるかも知れません』
その言葉に、俺は一瞬だけ逡巡した。
探索者にとって、安易に己の手札を明かす行為は文字通りの致命傷になりかねない悪手だからだ。
だが、すぐに思い直す。
つい先ほど、ジョージは仲間の命を救うためなら自分の全てを差し出すと言って、俺と契約を結んだのだ。今もこうして、仲間のために戦い続けている。
そんな男を前にして、保身のために出し惜しみをするような奴は、男じゃない。
俺は弾かれたように倒れている男――ギャレスと呼ばれた男の側にしゃがみ込んだ。
急いで《万象掌握》を起動する。
現実世界の空間がワイヤーフレームのように可視化され、男の胸部の奥――心臓のすぐ傍に、禍々しい赤い光を放つビー玉サイズの「核」と、そこから血管や魔力回路に沿って全身に伸びる無数の「根」が、ハッキリと視認できた。
(……見えた。こいつらを体内から引き剥がせばいいのか)
確信を得た俺は立ち上がり、額に汗を浮かべながら魔法を発動し続けているジョージに声をかけた。
「ジョージ。彼らの体内に、呪毒の発生源となる『核』が埋め込まれているらしい。そいつが宿主の生命力を奪って自己再生してるせいで、アンタの浄化魔法が間に合ってないんだ」
「呪毒の……核。自己再生して、だと……?」
「あぁ。だから先にその大元を取り除く必要がある」
「なぜそれが分かる……? いや、それよりも……私には彼らの生命力を維持するだけで精一杯で、とてもではないがそんな真似は――」
血走った目で俺を見返したジョージは、ひどく焦燥した顔で首を横に振った。
彼は現在も魔法を維持し続け、倒れている二人が呪毒の痛みに苦しむのをギリギリで抑え込んでいる状態だ。
俺は収納機能から黒鉄のバールを抜き放つ。
短く息を吐き、円卓のメンバーたちがポカンとしているのをよそに、俺はバールの先端を軽く床に叩きつけて、ジョージへと向き直る。
「……俺がやる。俺が体内の核を取り除くから、アンタはその魔法を維持し続けてくれ」
「一体どうやって――」
「説明する時間も惜しい! すぐやるぞ」
俺の気迫に押されたのか、ジョージは一瞬だけ戸惑いを見せたが、すぐに力強く頷いた。
『マスター、取り除いた呪毒の原因は、周囲への影響を考慮してこちらで即座に収納機能に隔離します』
(あぁ、助かる。頼んだぞ)
ナビ子のサポートに内心で頷きつつ、俺は再び《万象掌握》を発動する。
ワイヤーフレームで可視化された世界の中、どす黒く脈打つ呪いの核と、そこから血管や魔力回路に深く喰い込む無数の根が見える。
男の肉体そのものには一切の傷をつけず、システム上の不可視の領域へとのみバールの先端を透過させる。そして、呪毒の核と宿主の生命力が癒着しているわずかな「境界」へと引っ掛けた。
そのまま肉体だけをすり抜けて呪いのみを引き抜こうと、腕の力だけでバールを引く。
――ピクリともしない。
(……くそっ、見込みが甘かったか)
腕の筋力だけで抜けるようなものではない。それは、まるで地球そのものにバールを引っ掛けて引こうとしているかのような、絶対的な不動の感触だった。
高ランク探索者の強靭な肉体すらもがき苦しむほどの呪い。それが、細胞の隅々に至るまで深く根を張り、強固なアンカーとなって抵抗しているのだ。《万象掌握》というスキルがあるからといって、どうにかなるような単純な代物ではなかった。
大地に深く根を張った樹齢数百年の大樹を、ただ一本のバールで根こそぎ引っこ抜こうとするかのような絶望的な抵抗感。
しかも、途中で断ち切ることは許されない。根の先端に至るまで、全てを一気にごっそりと引き抜く必要がある。
バールを握る両手に力を込め直し、俺は深く息を吸い込んだ。
気合を入れ直し、限界まで腰を落として両足で床を強く踏み締める。
頭をよぎるのは、山梨の道場で弦之介から叩き込まれた武の極意。
『全身のエネルギーをロスなく連動させろ。すべての出力を、武器の一点に乗せるんだ』
完全手動による、筋肉と重心の完璧な制御。
右腕の筋力だけではない。足の指先が床を蹴る力、ふくらはぎから大腿部への連動、腰の捻り、背筋の伸縮、そして肩甲骨の躍動――。
人体という精密な機構が生み出す、すべての運動エネルギーを、ただ一本の黒鉄のバールへと収束させる。
「――おおおおッ!」
腹底からの咆哮とともに、テコの原理で極限の力点を跳ね上げた。
俺の出せる限界のエネルギーと、大樹のように強固な呪いの根が拮抗する。黒鉄のバールから、ミシミシと金属が断末魔を上げるような悲鳴が鳴った。
バールが曲がるのが先か、呪いが剥がれるのが先か。
指の骨が折れんばかりの力で握り込み、俺はさらに踏み込んで、全身のバネを使って無理やりバールを押し込んだ。
――ブチブチブチィッ!!
鼓膜ではなく脳髄に直接響くような、不気味な破断音。
肉体には一切の傷をつけることなく、胸部を侵食していた赤い核だけが、全身に張り巡らされていた赤い根のネットワークごと、ズルリと宙へと引きずり出された。
空中に浮かんだ禍々しい呪毒の塊は、即座にポリゴン状の光となって収納機能へと吸い込まれて消える。
「今だッ!」
「おおおおッ!」
ジョージが即座に圧倒的な出力で解呪の光を叩き込み、次いで回復魔法を展開する。大元の核と根を失った体内の呪毒は抵抗する術を持たず、光に飲まれて完全に消滅した。
ギャレスの顔に穏やかな色が戻り、安らかな呼吸を始める。
やっとの思いで抜き去った俺の手元では、過剰な負荷によって金属がひどくひしゃげ、高熱を持った黒鉄のバールが、限界を告げるように乾いた音を立ててボロボロと崩れ落ちた。
「……マジかよ」
俺は舌打ちをして、崩れた鉄屑をその場に捨てた。
「よし……次だ。イゾルデを頼む!」
ジョージが安堵する暇もなく、隣で倒れている二人目のメンバー――深い湖のような紫水色の髪を持つ宮廷戦術魔導師、イゾルデへと向き直る。
だが、ここで問題が発生した。
俺は収納機能を開き、舌打ちをする。
以前まで使っていた鉄のバールは、エレオノーラとの戦闘で完全に砕け散った。今使って壊れたこの「黒鉄のバール」は、俺のインベントリに入っている武器の中で、最もグレードが高く、硬度のある代物だったのだ。
残っている長物といえば、かつてスライム狩りに使っていた鉄パイプくらいだ。だが、ステータスが向上した俺の肉体出力と、この強固な呪いの反発力を考えれば、あんなただの鉄パイプなどテコの支点にした瞬間にへし折れるのがオチ。
つまり、手元にはもう「呪いを引き抜くための得物」が存在しないのだった。
さらに最悪な事態は重なる。
武器を失い、俺が舌打ちをしたその時。隣で魔法を維持し続けているジョージの様子が明らかにおかしいことに気づいた。
限界だった。
いくら天鋼級で底なしとも思える魔力を持つジョージとはいえ、先ほどから命を強引に繋ぎ止めるため、【規格外の回復魔法】を常時最大出力で垂れ流し続けているのだ。
岩山のような巨体からは血の気が失せ、滝のような冷や汗が流れ落ちている。肺を絞り出すような痛々しい呼吸音がテント内に響き、彼を包んでいた絶対的な黄金のオーラすらも、ブツブツとノイズ混じりに明滅し、今にも消え去ろうとしていた。
ブックマークや☆評価で背中を押してくださるあなたへ。
本当にありがとうございます。
この作品が続けられているのはあなたのおかげです。
評価をしていない人は、お好きなタイミングで構いません。
少しでも面白ければ評価を頂けると嬉しいです。
★は五個まで増やせます。




