第87話 命の対価と救いの手
卓上に並んだジョッキの表面を、冷たい水滴が滑り落ちた。
「手持ちのアイテムではどうにもならないのか?」
縁側から聞こえてきたジョンの切迫した声が、突然の静寂が落ちた和室に響く。
開け放たれた障子の向こう側、庭の夜気にさらされながらスマートフォンを耳に当てる彼の背中から、先ほどまで上機嫌だった好漢の面影は消え失せていた。
詳しい事情は俺には分からない。だが、強張った彼の背中と、周囲の空気が重く沈み込んでいく感覚が、尋常ならざる事態であることを告げていた。
「あぁ、わかった。今すぐ向かう。絶対に死なせるな」
短い通話を終えたジョンは、重い足取りで和室へと戻り、再び卓の前に腰を下ろした。
瞬きを忘れた双眸は薄暗く濁り、深い影の落ちた顔には濃密な焦燥が張り付いている。
「ミナト、フナキ……すまない。どうやら、ビールはお預けになりそうだ」
「何があった?」
「……仲間が、未知の状態異常を受けた。すでにダンジョンからは脱出させたそうだが、向こうで手を尽くしても一向に良くならないらしい。身体を張った前衛から順に……倒れていると。私の回復魔法なら、あるいは何とかできるかもしれない」
途切れ途切れに紡がれる声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
彼の手の中で、最新型のスマートフォンからミシッ……と硬質なひび割れ音が鳴る。寸前で握力を緩めたようだが、太い指先は微かに震えていた。
「今すぐ行くのか?」
「あぁ。だが……今のままでは、間に合わないかも知れない」
膝に置かれた巨大な両拳が、強く握り込まれる。
深く俯くジョンの姿に、手付かずのビールから視線を外す。
「なぁ、ジョン。あんた本当はイギリスの騎士王様なんだろ?」
俺の唐突な言葉に、ジョンの広い肩が跳ねた。
彼がゆっくりと顔を上げる。大きく見開かれた瞳が俺を捉え、その虹彩の奥で瞳孔が微かに収縮を繰り返していた。
「……いつから、気づいていた」
「あんな回復魔法を見せられりゃ流石にな」
ジョージは短く息を吐き出し、力なく微笑んだ。
「……ステータスをごまかす手段があってね。騙すような真似をして、すまない」
「そんなのはいい。なら、今すぐ転移でも使って飛んで行きな。俺たちの事は気にしなくていいからよ」
事もなげに促してみるが、ジョージは力なくかぶりを振った。
「転移……? それができれば、苦労はしないさ」
「え……でも、天鋼級なんだろ?」
思わず、間抜けな声が漏れる。
ナビ子は以前、『秘銀級以上になれば空間転移は可能だ』と言っていたはずだ。
(どうして世界最強格の男が転移を使えないんだ……?)
眉をひそめて首を傾げる俺に対し、脳内でナビ子が即座に訂正を入れる。
『マスター、なにか勘違いしているようですね。秘銀級というのは次元移動のエネルギーを保持できる最低ラインに過ぎません。マスターも私の補助がなければ転移魔法は使えないでしょう?』
(確かにそうだが、『万象掌握』を使えばできるだろ?)
『マスターの専用スキルが常軌を逸しているだけです。それに、スキルを使っても長距離の転移はできないでしょう?』
ナビ子の指摘に、俺は言葉に詰まる。
以前、異世界のホルム村から男爵領へ転移を試みた時、空間をこじ開けるだけで全身の骨が軋むほどの重圧と抵抗を受けた。あれが大陸間の距離となれば、空間の復元力に押し潰されて死ぬかもしれない。
(……いや、でもエレオノーラは普通に使ってたぞ?)
『百年以上も魔術の研鑽を積んできた彼女と、ダンジョン発生から三十二年しか経っていないこの世界の人類を一緒にしないでください』
淡々と告げられた正論に、俺は無意識のうちに自分が『異常な基準』に染まっていたことを痛感させられる。
「『天鋼級』だからといって、なんでもできるわけじゃないんだ……」
沈黙が落ちた間にも、ジョージは己の無力を呪うように語り出した。
「富士のスタンピードの映像を見た時、突然現れた謎の探索者たちは間違いなく『空間跳躍』の技術を持っていると確信した。私が身分を隠してまで日本へ来たのは、彼らと友誼を結び、あわよくばその術を教えてもらえないかと考えたからだ」
「自国の危機に、すぐ駆けつけられるようにするためか……」
「ああ。だが……結局その願いは叶わず、苦楽を共にしてきた仲間を失おうとしている。滑稽だろう?」
自嘲するように、ジョージの顔がひどく歪んだ。
『マスターなら座標さえわかれば私の演算補助を使って、即座にゲートを開けますよ?』
沈黙の落ちた脳内に、ナビ子の平坦な声が響く。
『ただし、それは騎士王というマスターでも敵わない超越者に存在を明らかにする、ということでもあります』
目の前にいるのは、正真正銘の世界最強の一角。
酒を飲み交わしたジョージは気のいい男だ。しかし、果たして自分の特異性を曝け出していい相手なのだろうか。
彼はイギリスという大国の頂点に立つ『騎士王』だ。自国の利益のためとなれば、情を捨てて俺を敵に回す可能性だって十分にある。
本気を出し切っても勝てる保証のない絶対的な強者。もし彼が国益を優先して動けば、俺の人生など彼の一存で、権力側の都合の良い手駒として徹底的に利用されかねない。
そんな非道な真似をする男だとは思えない。だが、俺たちの信頼関係は所詮、ここ数日で意気投合しただけという、あまりに脆い土台の上にしか成り立っていないのだ。
最悪の想像が頭をよぎる。胃の底へ冷たい泥が沈み込み、喉の奥の粘膜が張り付いて急激に呼吸が浅くなった。
「……すまない、愚痴などこぼしている場合ではなかった」
顔を上げたジョージは、纏わりつく絶望を振り払うように自らの両頬をパンッと叩いた。
「今から全力を出して仲間の元へ向かう。少しでも間に合うよう、君たちも祈っておいてくれ。あの、窓から見える雄大な『フジサン』にでもね」
そう言って力なく微笑むと、彼は踵を返し、離れの部屋を後にしようとする。
――その広くて分厚い背中を見た時。
幾つかの『最悪な打算』が、俺の脳裏で急速に組み上がった。
(ナビ子。騎士王相手でも、エレオノーラにやったみたいに、『全権限』を握ることは可能なのか?)
『……はい。本人から【全権限委譲】の明確な承認を引き出せれば、ですが』
(なら多分大丈夫だろう。万が一拒否されても、ゲートだけ開いてやってすぐに異世界へとんずらすればいいしな)
そう。最悪、国や権力に目をつけられて地球に居づらくなったとしても、今の俺には絶対の『逃げ場』がある。異世界へ高飛びしてしまえば、地球の国家権力など届きはしない。
『……マスター。そこまでして、彼を助けるのですか?』
(まぁ、昨日飲んだウィスキーが美味かったしな。それに……あの時かっこつけて『手の届く範囲なら助ける』って言っちまったからな。見捨てたら、ダサいだろ)
どれもこれも、臆病な自分が行動を起こすための身勝手な自己説得だ。だが、目の前で肩を落としている飲み仲間を見殺しにしないためには、これで十分な大義名分だった。
「おい、ちょっと待てジョン」
開け放たれた障子の前で足を止めた大きな背中に向け、座布団の上から声をかける。
「……どうした、ミナト」
「あんたが探してた『スタンピードを止めた謎の探索者』ってのは俺だ」
「…………は?」
俺の言葉に、巨体が弾かれたように振り返る。
「あんたを仲間の所に、今すぐ送り届けられる。……だけど、条件があるんだ」
「な……ッ! 条件とはなんだ! 金か!? アーティファクトか!?」
一筋の希望にすがりつくように、騎士王が身を乗り出してくる。
その必死な形相を見据えながら、システム上の制約を誤解なく伝えるべく、静かに言葉を紡ぐ。
「俺が使う力の『仕様』でな。ステータスの管理から精神、そして生死に至るまでの『全権限』を俺に委ねてもらう必要があるんだ」
「――全権限? それは、どういう……」
「言葉通りの意味だよ。俺が念じるだけであんたの心臓を止めることも、意識を奪って廃人にすることもできるようになっちまう」
比喩ではない具体的な死の宣告。その瞬間に、ジョージの太い首筋から急速に温度が失われ肌が青白くなっていく。
和室に重い沈黙が落ちる。
一国のトップランカーである彼にとって、自分の生死を他人に預けることなど、本来なら絶対にあり得ない選択だ。国益を考えれば、即座に拒否すべき提案だろう。
だが、数秒の葛藤の後、ジョージは力強く頷いた。
「あぁ……頼む」
「本当にいいのか? 俺がその気になれば、本気で廃人にできるんだぞ?」
念を押す言葉に対し、騎士王は自嘲するように笑う。
「……富士のスタンピードをたった一人で救った精神と、今日のダンジョンでの君の戦いぶり……そして何より、昨夜一緒に飲んだ時の君を見ていればわかる。君は、私を悪いようにはしないだろう?」
「…………」
「それに、本当に私をいいように扱おうとする悪党なら、こんなに何度も確認したりはしないはずだ。違うか?」
……ちくしょう。だから、こういう真っ直ぐすぎる善人は苦手なんだ。
仲間のために自分のすべてを懸ける男の顔を見ながら、どこまでも損得勘定と保身をやめられない己の狭小さに、吐き気がした。
「……交渉成立だな。なら、昨日のウィスキーも追加で奢ってもらおうかな」
「あぁ、約束しよう」
照れ隠しのような俺の要求に、ジョージは迷いなく頷いた。
ゆっくりと立ち上がり、視界の端に展開されたコンソールウィンドウを睨みつける。
「始めるぞ」
ジョージの眼前に向けて、右手をかざす。
指定されるのは『子機化』と『全権限委譲』の付与。
対象、ジョージ・ウィンザー。
承認。
『対象を確認。システム接続。自律進化・スレーブ化を開始します』
脳髄にナビ子のアナウンスが響く。
同時に、淡い青色の光がジョージの巨体を包み込んでいく。光の粒子が彼の肌へと吸い込まれ、俺のシステムと不可視のラインで接続された事実を伝えてくる。
繋がりが確立したのを見届け、俺は小さく息を吐いた。
「で、場所はどこだ?」
「グラストンベリーにあるダンジョンだが……」
事態の急展開に戸惑うジョージをよそに、ナビ子が即座に報告を上げる。
『サーチしました。どうやら未知の状態異常の影響が周囲にも広がっているらしく、現在は封鎖中。周辺には、騎士王のパーティメンバーと思わしき高レベル探索者しかいないようですね』
(……なるほど、誰も見ていないなら都合がいいな)
(ナビ子、さっきサーチした座標を元に、今すぐゲートを開けるか?)
『はい。魔力パスの接続および空間干渉プロトコル、問題ありません。合わせて、現地の言語に合わせた自動翻訳機能もオンにしておきます』
(よし、頼む)
「舟木さん。ちょっと、行ってきます」
「えっ……湊さん?」
きょとんとする舟木さんを尻目に、俺はジョージの横の何もない空間に向けて右手を軽く突き出し、ナビ子のサポートのもと次元転移シークエンスを起動した。
直後、網膜の裏側に天文学的な数の空間座標データと、超複雑な術式イメージが滝のように流れ込んでくる。本来なら脳が焼き切れるほどの圧倒的な情報量だが、システムに接続された俺の思考はそれを淀みなく処理し、莫大な魔力を練り上げていく。
足元から、淡い青白い光の粒子がフワリと舞い上がった。
和室の畳や障子が、青白い光に照らされていく。粒子は空中で幾何学的な模様を描きながら急速に収束し、瞬く間に大人が三人並んで通れるほどの『光のゲート』を形成した。
「なっ……ミナト、これは……」
青白い光がジョージの顔を照らし出す。目の前で展開された超常の事象に、世界最強の一角であるはずの巨体が、まるで彫像のように硬直していた。
俺は首をポキキと鳴らし、呆然とする騎士王の肩をポンと叩いてニヤリと笑った。
「お前が望んだものだよ、行くぞ」
「……あぁ! 恩に着るッ!!」
事態を理解し、迷いを捨てたジョージが、弾かれたように光のゲートへと飛び込む。
後を追うように、俺も未知の状態異常が蔓延る異国へと足を踏み入れた。
本当は、ササッとゲートを開いて「見返り?もう貰ったよ。昨日とっておきのウィスキーでな」とか言えたら格好いいんですが……。
安全を求めてしまう主人公。
ちなみにジョージからすると「スタンピードを治めた探索者」と「世界ランキング一位」が同一視されているのでこの段階で「殺してでも言うことを聞かせる」選択肢はありませんでした(性格からしてもないですが)。
じゃあ?普通に助けていいんじゃないの?と思われるかもしれませんが
湊からすると「自分は所詮秘銀級なりたて」ですし、それがバレたとき恐ろしいことになると想像してるのでムリなのです。
ブックマークや☆評価で背中を押してくださるあなたへ。
本当にありがとうございます。
この作品が続けられているのはあなたのおかげです。
評価をしていない人は、お好きなタイミングで構いません。
少しでも面白ければ評価を頂けると嬉しいです。
★は五個まで増やせます。




