第86話 おじさんの手が届く範囲
『直進後、三つ目の分岐を右。その先の隠し通路を使えば下層へのショートカットになります』
脳内に直接響くナビ子の声に従い、俺は苔むした樹海迷宮の獣道をノンストップで駆け抜けていた。
本来なら斥候が慎重にマッピングしながら進むべき複雑な地形だが、事前に最適解となるルートを提示されているため、足元を迷う余地はない。
「すごいですね、湊さん……っ! 私、富士山ダンジョンには何度も潜っていますが、こんな最短ルートがあるなんて知りませんでした!」
俺のすぐ背後を追従する舟木さんが、弾む息の合間に声を張り上げる。
「ま、まあ。ちょっとした空間把握の特技みたいなもんです」
まさか頭の中のサポートユニットに道案内されているとは言えず、俺は前を向いたまま適当に誤魔化す。すると、俺の右隣を並走していたジョンが、足場の悪い木の根を軽々と飛び越えながら快活に笑いかけてきた。
「大した特技じゃないか。頼もしいよ!」
そんなやり取りを交わしながら階層を駆け下りること十数分。
俺たちの足裏が、目的の第十三層のぬかるんだ地面をどちゃりと踏みしめた。
開けた空間に出た途端、胃の底が急速に冷え、産毛が粟立つ感覚に襲われた。
ただでさえ淀んでいるダンジョンの空気に、赤、青、黄の原色が混ざり合った泥粘土のようなオーラが渦を巻き、周囲の景色を不気味に歪ませている。
「武田ァァァァッ!!」
鼓膜を荒いやすりで削るような悲痛な絶叫が、空間に響き渡った。
視線を向けた数十メートル先の広場。おびただしい血だまりの中心で、右腕を根元から失った巨漢が仰向けに倒れ伏していた。今まさに名前を呼ばれた『武田』だろう。
そして、ピクピクと痙攣する彼を見下ろすように立っているのは、三色の粘つくオーラを持った二足歩行の狼男。
『煩悩』の変異個体だ。
狼男が大きく顎を開き、無防備な武田の頭部めがけて、黄ばんだ凶悪な牙を振り下ろそうとしていた。
(この距離……『黄金級相当』の速度じゃ、間に合わない!)
ステータスを偽装している場合じゃない。そう判断した俺は、躊躇うことなく自身のリミッターを解除した。
――神速の理。
胸元につけたユニーク装備『双狼の円環』の力が解放される。
慣性の法則を完全に無視した超加速。筋肉の予備動作すら介さない『初動からのトップスピード』で、俺は泥濘む地面を蹴り飛ばした。
視界の風景が後方へすっ飛び、コンマ数秒で狼男の真横へと到達する。俺はすかさず、手にしていた黒鉄のバールを、無防備な横腹へとフルスイングで叩き込んだ。
「ギ、ギャァッ……!?」
濡れた丸太をへし折るような重い音が響き、狼男の巨体が「く」の字にひしゃげる。苦痛の声を上げる暇すら与えず、俺はバールを引き戻し、よろめいた胸ぐらへ二撃目、三撃目を無造作に打ち込んだ。
トマトをぐしゃりと踏み潰したような不快な音を最後に、イレギュラーの巨体はあっけなく光の粒子となって霧散していく。
「あ、あなたは……」
数メートル先で尻餅をついていた船橋が、眼球を限界まで見開いたまま俺を見上げていた。
死の淵から唐突に引き戻され、感情の処理が追いついていないのだろう。金魚のように口をぱくぱくと動かしている。
「長話は後だ。すぐに出よう」
俺は血だまりの中に転がっていた武田の『右腕』を拾い上げ、手のひらに伝わる生々しい熱と重みを無視して収納機能へと放り込んだ。
生きている生物をインベントリに収納することはできない。
すんなりと亜空間へ吸い込まれたその腕は、システムから『ただの物体』として判定されたのだ。すぐ横で、武田本人がまだ熱い息を吐いているというのに。
胸糞悪くなるようなシステムの設定だが、インベントリ内であれば時間は完全に停止し、細胞の壊死も防げる。
「舟木さん、ジョン! 二人を運ぶぞ!」
俺たちは意識を失っている武田と、腰を抜かしている船橋を素早く担ぎ上げ、全速力で地上への階段を駆け上がった。
◇
ゲートの歪みを抜け、薄暗い樹海の広がる地上へと飛び出す。
ダンジョンの淀んだ空気が晴れ、土と葉の匂いが混じる冷気が勢いよく肺を満たした。
入り口のすぐ外で待機していた藤野たちのもとへ急行し、担いでいた二人をブルーシートの上に運び下ろす。これで一旦は安全圏だ。強張っていた肩の力を抜いた、直後だった。
「武田さん……!」
駆け寄ってきた茶髪の男子学生が、生還した武田の姿に顔を輝かせたのも束の間。
右腕を失い、ブルーシートの上に赤い血だまりを作って意識を失っている惨状を目の当たりにした途端、彼の唇から一気に血の気が引いていく。
「俺の……俺のせいで……! すいませんでした! すいませんでした……ッ!」
両膝から崩れ落ち、泥にまみれながら頭を抱えて泣き叫ぶ学生。
その横で迅速に武田の止血帯を巻き直しながら、舟木さんが痛ましげな顔で俺に耳打ちする。
「今回の件は、あの学生……新田君の行動がきっかけで起きたようなのです」
なるほど。だからあんなに狂乱して自分を責めているのか。
幸い、システムの『痛覚遮断機能』が限界まで働いているのか、武田は気を失ったままだ。
だが、獣の爪で乱雑に切り裂かれたギザギザの断面からは、絶えず黒ずんだ血が滲み出ている。通常の回復ポーションや下位の回復魔法で、この欠損部位を修復できないことは誰の目にも明白だった。
「あ、あの……!」
ブルーシートの端にへたり込んでいた船橋が、すがるような視線を俺に向けた。
「なんとかならないでしょうか? 無理を言っているのは百も承知です。でも、ソイツには三歳になったばかりの娘がいるんです。報酬なら、俺がなんとしても支払います。絶対に他言しませんから……!」
船橋の言葉にすがりつくように、茶髪の新田が地面に額を擦りつけて声を張り上げた。
「お、お願いします! 治してください! 俺のせいなんです! お金なら俺が一生かけても支払います。だから、お願いします……!」
血と泥に塗れた二人の懇願を浴び、俺の胃の奥に鉛のような重さが沈み込んだ。
俺自身は回復魔法が使えないし、手持ちのポーションで部位欠損を治せるものはない。
口にこそしていないが、船橋はスタンピードの時に見かけたエレオノーラを当てにしているのだろう。
だが、大して知りもしない相手のために、最大の手札を切っていいのか。彼女の異常な治癒能力が白日の下に晒されれば、平穏な日常は間違いなく崩れ去る。
(どうしたもんか)
決めかねていると、首筋を静電気が撫でるような微細なノイズが走り、視界の端で光の粒子が収束する。
『マスター。本当はもう決めているんでしょう?』
思考の泥濘を見透かしたように、クリスタルが触れ合うような硬質さと愛らしさが同居する声が、脳内に直接響いた。
光の加減で虹色に反射する銀色のショートボブを揺らし、ナビ子は淡い金色の瞳で呆れたように、しかしどこか誇らしげに俺を見据えている。
(……ああ。お前の言う通りだ)
誰よりも俺を理解している相棒の言葉が、躊躇う背中を力強く押してくれた。
学生を庇って腕を失った人間を見捨てて、己の保身を選ぶ。もしここでそんな選択をすれば、俺は二度と翔太君や凛の真っ直ぐな目を見られなくなる。
肺に溜まった濁った息を吐き出し、俺は奥歯を強く噛み合わせた。
迷いを捨て、ナビ子を通じてエレオノーラを呼ぼうとした――その時だ。
「どいてくれ、ミナト」
静かな、だが絶対的な威圧感を伴った声が響いた。
俺の横をすり抜けたジョンが、泥と血に汚れることも厭わず、武田の傍らに躊躇なく膝をつく。
「ジョン?」
「私はこう見えて、回復が得意でね」
ジョンは静かに俺へと視線を向け、太い腕を差し出した。
「この人の腕を渡してくれないか」
俺は無言で頷き、収納機能から武田の右腕を取り出して彼に渡す。
武田の肩口の凄惨な断面に右腕があてがわれ、ジョンの分厚い手がそれを包み込むようにかざされる。
次の瞬間、網膜を白く焼き切るような純白の閃光が、周囲の薄暗い樹海から一切の影を暴力的に消し去った。
「なっ……!?」
網膜を焼くような眩しさの中、種族進化によって強化された俺の視力は、目の前で起きる現実改変のような事象をはっきりと捉えていた。
ちぎれた断面と腕の間に無数の光の糸が編み込まれ、切断された肉と骨、血管をまたたく間に再構築していく。ただの『回復魔法』と呼ぶには、あまりに次元が違った。不可逆であるはずの肉体の欠損を圧倒的な力で強引に繋ぎ合わせる、まるでそこだけ局所的に時間を巻き戻しているかのような光景だ。
数秒後、光が収まったそこには、傷跡一つなく完全に接合された武田の右腕があった。
血だまりの真ん中で、先ほどまで転がっていた腕が元通りに繋がっている。理不尽なまでの奇跡を前に、泣きじゃくる新田以外のメンバーは、理解を超えた現象に喉をひきつらせていた。
しかも、ジョンの放った光の余波を受けただけで、周囲でへたり込んでいた船橋や藤野たちの顔色まで劇的に良くなっている。ただ光の恩恵を浴びただけで、彼らの体力や気力までもが同時に底上げされていた。
『マスター……!』
緊迫したナビ子の声が、脳内に直接叩きつけられる。
『先ほどまで完全に偽装されていましたが、回復魔法を使用した今の一瞬だけ、ジョンから黄金級を遥かに超越する莫大な魔力波長を検知しました! 直ちに解析を――』
(やめとけ。別に敵対してるわけじゃねぇし、それに――)
『それに?』
(前にお前が言ってたろ。高ランクなら、スキャンされたことに気づくかもしれないって。今こっちから事を構えるメリットはない)
『……っ。はい。対象がスキャンに感づくリスクを考慮して、詳細な解析は控えます。しかしマスター、警戒だけは怠らないでください』
不服そうに引き下がるナビ子をなだめながら、俺は大きく息を吸い込み、平然とした顔で微笑むジョンを見つめ返した。
目の前で起きた理外の治癒魔法と、ナビ子の報告。バラバラだったピースが頭の中で繋がり、俺はうっすらとこの男の『正体』に勘付き始めていた。
「……ん……あれ、俺は……」
ブルーシートの上で、武田が微かにうめき声を上げて重い瞼を開いた。
「武田ぁっ!!」
船橋が弾かれたようにすがりつき、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙をこぼす。
「ここは……ていうか、俺の腕……あれ? ちぎれたはずじゃ……」
記憶にあるはずの激痛がないことに戸惑いながら、武田は呆然と自分の右腕を左手でペタペタと確かめている。現実を咀嚼しきれていない様子だ。
「よかった……本当によかった……!」
泣きじゃくる船橋の肩越しに、武田の視線が傍らに立つ俺たちを捉えた。
「一体……」
「武田、お前のその腕は、そこにいる外国人の方が治してくれたんだ。命の恩人だぞ」
「ジョンだよ。よろしくね」
「治したって、その、状況がよく分かりませんけど、ありがとうございます……!?」
まだ事態を呑み込めていない様子で武田が深く頭を下げる。その隣で、泥だらけの新田もまた、地面に額を擦りつけていた。
「ジョンさん、本当に、本当にありがとうございます! 報酬は、いくらであっても、一生かけて必ず払いますから……!」
「ははは、気にするな。未来ある若者を助けるのに、金などいらないさ。たまたま君たちが、私の『手の届く範囲』にいてくれた。だから手を伸ばした。それだけのことだ」
ジョンはそう言って、悪戯っぽく俺の方へ視線を送った。
その言葉を聞いた新田が、地面に突っ伏したままさらに激しく嗚咽を漏らす。限界を超えてぐちゃぐちゃになった感情を吐き出す彼に、船橋が近づき、その震える肩を乱暴にポンと叩いた。
「……馬鹿野郎。お前は一度うちの道場に来い。根性から叩き直してしごいてやる」
「はいッ!」
鼻をすりながら不器用に慰める船橋の言葉に、新田が涙と鼻水まみれの顔を上げて力強く返事をする。
「あの……お二人とも、本当にありがとうございました。私一人では、到底彼らを助けられませんでした」
一連のやり取りを静かに見守っていた舟木さんが、血に染まった止血布を両手で固く握りしめながら、俺とジョンに向けて深々と一礼した。引率者としての責任を果たせなかった悔恨と、教え子たちが救われたことへの深い安堵が、彼女の表情で入り混じっている。
その後、当然ながら演習は中止となった。
俺たちは富士山樹海ダンジョンに併設されている探索者協会に向かい、変異個体の討伐を報告した。協会側の見解としては、先日の大規模スタンピード後の不安定なダンジョン環境が引き起こした事態だろう、ということで落ち着いた。
◇
血と泥に塗れた一日を終え、夕方。俺たちは予定通り、温泉旅館へと帰還していた。
「ミナト、今日も部屋で飲まないかい?」
「いいね。そうだ、舟木さんも呼んでいいか?」
「もちろんさ! 彼女も今日は教え子のことで心労が絶えなかっただろうし、パーッと発散してもらおうじゃないか」
ということで、さっそく舟木さんを誘い、今夜は三人で離れの特別室で飲み直すことになった。
宴が始まるまではまだ余裕があったため、俺は一足先に大浴場へ向かい、酷使した筋肉を熱い湯でほぐしていた。
外気に冷やされた露天の岩風呂から立ち上る湯気が、夜の闇に溶けて白く霞んでいる。
「ふぅ……」
肩まで湯に浸かって深々と息を吐き出していると、ざばり、と背後で大量の湯が波打つ音が響いた。
湯気の向こうに目をやると、彫刻のように鍛え上げられた裸体を晒し、ジョンが歩み寄ってくるところだった。
彼が手ぬぐいを頭に乗せ、俺のすぐ横に腰を下ろす。湯船の縁に腕を預けながら、話題は自然と今日のダンジョンでの出来事へと移った。
「今日は凄かったね、ミナト」
「なにがだ?」
とぼける俺の横で、ジョンは上機嫌に笑い声を上げる。
「変異個体に飛びかかった時のことさ。一瞬だったけど、とても黄金級とは思えないほどの速度が出てたよ」
「それを言ったら、ジョンだって。一瞬で欠損部位を再構築できる黄金級がいるなんて、心底驚いたぜ」
俺がそう返すと、ジョンは「おっと」というように大げさに肩をすくめた。
お互い、隠しごとをしていることには気付いている。
だが、それをこれ以上深く追求するつもりはない。俺たちは暗黙の了解のもと、互いに悪戯っぽく笑い合った。
「ま、昨日も言った通り、ランクなんて気にせず、ここではただの友人として楽しもう」
「ああ、違いないな」
じっくりと汗を流した後、俺たちは旅館が用意した浴衣に袖を通し、連れ立って離れの特別室へと向かった。
◇
湯冷ましに浴びる夜風が、火照った体に心地いい。
特別室でくつろいでいると、少しして、髪をアップにまとめ、湯上がりでさっぱりとした様子の舟木さんが部屋へとやってきた。
全員が揃ったところで内線を入れると、ほどなくして仲居さんが手際よく豪勢な夜食とキンキンに冷えたビールを卓へ並べていく。
「さて、一杯目はビールでいいか?」
仲居さんが下がった後、確認して三つのグラスにビールを注いでいく。
「それじゃあ、今日一日、お疲れ様でし――」
乾杯の音頭を取ろうとした、その時だ。
トゥルルル、トゥルルルル。
浴衣の袖にしまっていたジョンのスマートフォンが、どこか間抜けな電子音を鳴らした。
「おっと、すまない」
ジョンは片手で俺たちを制し、縁側へと歩きながら通話ボタンを押す。
「私だ。……どうした?」
静かな部屋に、ジョンの声が響く。だが、通話の先から聞こえてきた報告に、彼の広い背中が強張り、表情がみるみる険しく歪んでいった。
一難去ってまた一難……っぽい。
ブックマークや☆評価で背中を押してくださるあなたへ。
本当にありがとうございます。
この作品が続けられているのはあなたのおかげです。
評価をしていない人は、お好きなタイミングで構いません。
少しでも面白ければ評価を頂けると嬉しいです。
★は五個まで増やせます。




