第85話 おじさんたち、観光する
昼食の膳が片付けられた旅館の食事処で、食後の熱いほうじ茶を啜っていた時のことだ。
「湊さんはこの後、何かやりたいことはありますか? 一応、車がありますので、よろしければ観光にでもお連れしようかと考えていたのですが」
向かいの座椅子に腰を下ろした舟木さんが、控えめな笑みを浮かべて提案してきた。
休日の私服姿であることも手伝って、今の彼女は気の置けない知人を案内するガイドのような、どこか柔らかい振る舞いだった。
「良いんですか? じゃあ、ぜひお願いします。……あ、そうだ。舟木さんさえよければ、ジョンも誘っていいですか?」
「ええ、もちろん構いませんよ。車も広いですし」
舟木さんが快諾してくれたのを受け、俺はテーブルを挟んで向かい側に座るラフな私服姿の大男へ視線を向けた。
「というわけだが、ジョン。あんたもこの後、特に予定がなかったらどうだ?」
俺が声をかけると、ジョンは待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「いいのかい? ぜひお願いするよ! できればカワグチコ? と言う湖に行ってみたいな。富士樹海ダンジョンのすぐ近くだし、フジヤマの眺めが素晴らしいと聞いているんだ」
「河口湖かぁ、いいな!」
俺が同意を示すと、舟木さんもにこやかに頷いた。
「分かりました。それなら河口湖周辺のドライブにしましょう」
話がまとまり、ジョンは満足げにほうじ茶をすする。
「うーん、今回の来日は本当に良いね。本命の目的は空振りだったが、こうして素敵な出会いに恵まれたんだから」
「本命?」
俺が首を傾げると、ジョンは少しだけ声を潜めた。
「実はね、昨日話題に上った『スタンピードを収束させた探索者』……彼に会いたくて日本へ来たんだよ。でも、ギルドに問い合わせても情報は完全に非公開でね」
「そ、そうなのか。ま、まあ、それが無理でも、こうして楽しめてるなら良かったよ」
俺は背筋に嫌な汗が伝うのを感じながら、どうにか引きつった笑みで誤魔化した。
◇
昼下がりの河口湖畔は、穏やかな陽光に包まれていた。
波一つない湖面の向こうには、雪化粧をした富士山が巨大な壁のようにそびえ立っている。そのあまりの雄大さに、俺もジョンも言葉を失って見入っていた。
「素晴らしい……。まるで絵画のような景色だ」
湖畔の風に金糸の髪を揺らしながら、ジョンが感嘆の溜め息を漏らす。
「近くにダンジョンがなかったら最高なんだけどな」
俺がしみじみと呟くと、脳内に直接、聞き慣れた無機質な音声が響いた。
『マスター。ダンジョンは、地脈の強い場所に発生しやすい傾向があります。富士山のような世界有数の霊峰の近くに最大級のダンジョンができるのは、ある意味で必然なのです』
(へぇ。じゃあ、日本全体でダンジョンの密度が高いのも、それが原因ってことか?)
『肯定します。日本は国土面積に対して地脈の活動が極めて活発な地域です』
(なるほどな)
ナビ子との脳内会話に内心で相槌を打っていると、隣で景色を眺めていたジョンが、眩しそうに目を細めて息を吐き出した。
「それにしても、見事なものだね。山頂を覆う純白の雪と、麓に向かってなだらかに広がる稜線。まるで大地そのものが、天に向かって凄まじいエネルギーを放っているようだ」
「ええ。季節や時間帯によっても見せる顔が全く違うんですよ。今日は特に空気が澄んでいて、絶好の観光日和ですね」
ジョンの感嘆の言葉に、舟木さんも嬉しそうに微笑んだ。
そんなふうに、三人で和やかに景色を楽しんでいた時のことだった。
舟木さんのショルダーバッグの中で、スマートフォンの着信音が鳴った。
「すみません、少し失礼しますね。……はい、舟木です」
和やかな笑みを浮かべたまま通話に出た舟木さんだったが、次の瞬間、その顔から急速に血の気が引いていく。
「え……? そんな、彼らが……!? イレギュラー……? 待って、すぐに……!」
言葉の端々から漏れ聞こえる単語だけで、事態の深刻さは十分に伝わってきた。
俺は表情を引き締め、即座に動き出せるよう小さく踵を浮かせる。隣のジョンも、観光客の空気を完全に消し去り、静かな臨戦態勢に入っていた。
「舟木さん。何があったんですか?」
通話を終え、手の中で端末を小刻みに震わせている舟木さんに、俺は短く問いかけた。
「富士山樹海ダンジョンで、ウチの門下生パーティが変異個体と遭遇したそうです……! 学生たちは無事に脱出できましたが、引率パーティの二名が殿を務めて、まだ中に残されているようで……!」
パニックで声が上擦る舟木さんは、ハッと我に返ったように深く頭を下げた。
「す、すみません。私、すぐに応援に向かわなければならないので、観光はこれで――」
「早く行きましょう。車を出して」
「え……? でも、湊さんたちのせっかくの休日が……」
「当たり前でしょ。こんな状況で放っておけるわけない」
俺が被せ気味に言い捨てると、隣ではすでにジョンがいつでも走り出せるよう、力強く頷いていた。
俺たちの迷いのない態度に、舟木さんは一瞬だけ泣きそうな顔になり、すぐに「ありがとうございます!」と叫んで駐車場の方へと駆け出した。
◇
富士山樹海ダンジョンのゲート前は、談笑しながら中へ向かう探索者たちが行き交い、いつもと変わらぬ活気を呈していた。
ダンジョンの底で誰かの命が潰えようとしていても、この巨大な魔境においてそれは些末な日常に過ぎない。
だが、ゲート脇の休憩スペースの一角だけは、ひどく重苦しい空気に沈み込んでいた。
青ざめた顔の学生たちが座り込み、その中心でブランド物の装備を身につけた茶髪の青年が、虚ろな目で地面を見つめて細かく震えている。
その傍らには、無言でベンチにへたり込んでいる血まみれの男たちの姿があった。どこか見覚えのある顔だ。
『マスター。彼らは以前、この富士山ダンジョンのスタンピードで前線に立っていた探索者です』
(あぁ、あの時の……)
ナビ子の解説で薄れかけていた記憶を掘り起こしていると、俺たちの乗る車から飛び降りた舟木さんが、彼らの近くに集まっていた一団へと駆け寄っていった。
舟木家の道場に通う『門下生パーティ』の面々だ。彼らもまた、一様に沈痛な面持ちで俯いている。
「みんな、無事なの!?」
「……あ、葵さん……! 俺たちは大丈夫です。でも、船橋さんたちが……!」
門下生の一人が、舟木さんの顔を見るなり縋るような声を上げた。
彼らの口から断片的に語られた状況は、絶望的なものだった。
第十三層で、船橋と武田の二人が学生たちを逃がすために殿に残っていること。
相手は第十六層から登ってきた正体不明の変異個体であり、システム補正がランダムに切れたり点いたりするという異常事態のため、残された二人には荷が重いこと。
絶望に打ちひしがれる門下生たちの姿に、舟木さんは唇を強く噛み締めた。
第十六層に出現する魔物なら、基本の強さはせいぜい黄金級相当のはずだ。イレギュラーとしての強化を加味しても、白金級である舟木さんなら本来は十分に対処可能な相手だろう。
だが、それはあくまで『今判明している情報通りであれば』の話だ。システムへの干渉を強いる変異個体を相手にする以上、未知のリスクが潜んでいない保証はない。それでも、彼女は決死の覚悟で力強く頷いた。
「……分かりました。私が向かいます」
「あ、葵さん……! ありがとうございます……!」
門下生たちが涙ながらに深く頭を下げる。
舟木さんが振り返って俺を見た。
「湊さん……」
「話は聞いてました。急ぎましょう」
俺は短く頷き、収納機能から引き抜いた黒鉄のバールを肩に担いだ。
『マスター。状況を解析しました』
脳内で、ナビ子の無機質な音声が響く。
『現在、対象の変異個体は第十三層付近に停滞中。漏れ出ている波長パターンから、対象は三毒の複合体……『煩悩』の変異個体と推測されます。また、その直近に二つの生体反応を検知。反応は著しく低下しており、すでに限界を超えています。一刻を争う事態です』
(煩悩のイレギュラー……! わかった、最短ルートを頼む!)
『了解しました。ナビゲーションを開始します』
ゲートへ向かって駆け出しながら、俺は並走する二人に目を向けた。舟木さんは当然として、なぜかジョンまで当然のように横に並んで走っている。
「おい、ジョン。相手は同格と思われる変異個体だ。あんたは観光の付き添いで来ただけだろ? 無理してついてこなくても――」
「心配いらないよ。こう見えても、命のやり取りには慣れているつもりだ。それに……友人が窮地に向かっているのに、見過ごすわけにはいかないからね」
ジョンがニヤリと不敵に笑う。その目には、本物の修羅場をくぐり抜けてきた者特有の鋭い光が宿っていた。
「……そうか。ちなみに敵は変異個体ってことだが、二人とも大丈夫か?」
俺が確認すると、舟木さんが即座に力強く答えた。
「はい! 私が探索者に復帰したのは湊さんと潜ったあの事件がきっかけなので、全てレベル1で設定しています!」
原種を前にして足手まといになったという悔しさが、彼女を再び前線へと駆り立て、己を鍛え直す決意をさせたのだろう。
探索者のシステム補正は、完全に自動操縦となるレベル3から、ほぼ自力で動かすレベル1まである。補正のレベルを下げれば下げるほど、自分の身体能力を100パーセント発揮できる反面、些細なミスが命取りになるシビアな操作を要求される。
それを聞いたジョンが、目を丸くして大声を上げた。
「レベル1!? おいおい、それが日本のスタンダードなのかい!?」
「ジョン、補正への依存度が高いなら、今からでも引き返した方が――」
「舐めないでくれよ、ミナト。私もレベル1だよ」
「……じゃあ、なんであんなに驚いてたんだよ」
「いや、私の国では、レベル1で戦うような奴は一握りのトップ層か、ちょっとイカれてる奴扱いだからね。まさかこんな可憐なレディがそう設定してるとは思わなかったのさ」
「安心してください。日本でも同じ扱いですよ」
舟木さんが走りながらも苦笑交じりにツッコミを入れる。
(最近やっと実感できてきたけど、やっぱりレベル1でイカれてる扱いなんだな……)
意図せず浮き彫りになった世間の常識に、俺は走りながら密かにしゅんと肩を落とした。すると、すかさず脳内にナビ子の無機質な音声が響く。
『ご安心ください、マスター。完全手動の領域まで突き抜ければ、ただの異常者という枠組みには収まりません。マスターは正真正銘、変態の王です。どうぞ胸を張ってください』
慰めているように見せかけて的確にトドメを刺してくる相棒を内心でスルーしつつ、俺は二人の頼もしい『異常者』たちと肩を並べ、底知れぬ闇が広がるダンジョンの入り口へと躊躇うことなく足を踏み入れた。
湊の周りにはいかれた奴しかいない……。
まともそうだった人も、いかれていくし、もはや呪物なのでは?
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