幕間:船橋史郎、武田豪人の憂鬱
冷たい風が、湿った土と、肺にへばりつくような濃密なカビの匂いを運んでくる。
富士山樹海ダンジョンの第十一層。発光苔の青白い光がまばらになり、岩肌の陰影が濃くなる領域を、黄金級探索者である船橋 史郎は音もなく進んでいた。
岩陰に身を隠し、視線の先を歩く五人の学生パーティを監視する。
その横には、大盾を構えたまま足音一つ立てずに追従する武田 豪人の姿があった。
「……なぁ、船橋。あいつら、意外と順調じゃねぇか?」
武田が、声を極限まで押し殺して囁く。
確かに、新田たち学生パーティは、危なげなく十一層の魔物を狩り続けていた。前衛がヘイトを集め、後衛の魔法が的確に急所を穿つ。どうやら、新田以外のパーティメンバーもこの階層で十分やっていけるほどの実力はあるらしい。
だが、船橋の背中には、目に見えない微小な虫が這い回るような、言語化しがたい違和感が張り付いていた。
「そうだな。ただ、どうにも引っかかる。この階層にしては、出てくる魔物の動きがやけに洗練されてる気がしねぇか?」
船橋の言葉に、武田が眉をひそめる。
その時、前方から学生たちの声が微かに漏れ聞こえてきた。
「なぁ、新田。なんか、いつもより敵が強くないか?」
「確かに、平均レベルはいつもより高いかもな。でも大したことないだろ」
「引率の人たちも言ってたように、スタンピードの後で魔力濃度が不安定なんじゃ……」
不安げに肩を縮めるパーティメンバーの弱音を、新田は苛立ちを含んだ声で一刀両断した。
「じゃあ、いつまで潜らないつもりだ? 偉い誰かがお墨付きをくれるまで、指をくわえて待ってるのか? 自分たちで限界を見極めるしかねぇだろ」
新田の強気で独善的な声が、薄暗い通路に反響する。
それを聞いた武田が、小さく息を吐いた。
「……言ってることは確かに間違ってねぇんだよな。実力的にも、まだ安全マージンは取れてるみたいだし」
「だが、俺の勘が警鐘を鳴らしてる。何が起きてもすぐに出られるように、準備だけはしておいてくれ」
「了解」
パーティの中でも実力が頭一つ抜けている船橋のただならぬ忠告に、武田から冗談めかした空気がスッと消え去る。
彼が分厚い胸板で短く息を吸い込み、大盾の裏側でグリップを力強く握り直す気配が伝わってきた。
船橋も短剣の柄を握り直し、二人は声もなく頷き合う。
気配をさらに薄くし、学生たちとの距離を詰める。
――それから、数時間が経過した。
彼らは第十一層からさらに深く潜り、ついに第十六層へと足を踏み入れていた。
中層と呼ばれる領域に入り、空気はより重く淀んでいる。
当然、出現する魔物の質も格段に跳ね上がっていたが、学生パーティは依然として危なげなく狩りを続けていた。
前衛が確実にヘイトを集め、新田の魔法剣が的確に急所を穿っていく。
その隙のない連携と、変わらず平穏な状況を見つめながら、船橋は小さく息を吐いた。
(……俺の勘過ごし、単なる杞憂だったか)
数時間にも及ぶ極限の気配遮断。見えない危機を探り続ける索敵。そして、学生たちに何かあれば即座に飛び出せるよう、筋肉の端々にまで緊張を強いてきた。
張り詰め続けた歴戦のスカウトの精神に、ほんの一瞬だけ、蓄積した疲労による空白が生まれた。
短剣の柄を握る指の力が、ふっと抜けた――その直後だった。
前方の通路から、岩の保護色に擬態した大蜘蛛が、後衛の女子学生の頭上から音もなく降ってきた。
「きゃあっ!?」
新田たちが反応するより早く、武田の巨体が弾かれたように前へ飛び出す。
ドンッ、と鈍い衝突音が響き、女子学生に突き立てられようとしていた鋭い前脚が、武田の大盾によって無慈悲に弾き飛ばされた。
すかさず船橋が横から滑り込み、がら空きになった大蜘蛛の腹部へ短剣を深々と突き立て、魔石を抉り出す。
魔物が光の粒子となって消滅した後、学生たちはへたり込んで荒い息を吐いていた。
「あ、ありがとうございます……!」
「あぁ、怪我はなかったか?」
武田が、大盾を下ろしながら人懐っこく笑う。
新田は気まずそうに目を逸らした後、深く頭を下げた。
先ほどまでの強気な態度は綺麗に消え去っている。いくらプライドが高くとも、自分の判断ミスでパーティメンバーが死にかけたという事実を前にして、なおも反発するほど彼は愚かではなかった。
「……裏からついてきてくれていたんですね。俺のせいで……本当に、助かりました。ありがとうございます」
その声には先ほどの慢心は微塵もなく、震えるほどの本心からの感謝だった。
船橋は、静かに新田を見据える。
「やはりスタンピードの後で、ダンジョン自体が不安定になってる。今みたいなイレギュラーな奇襲が起きる確率は、普段よりはるかに高いぞ。……それでもまだ、探索を続けるか?」
厳しい問いかけに、新田は唇を噛み、首を横に振った。
「いえ……すみません。ちょっと、焦ってたみたいです。戻りましょう」
その殊勝な言葉に、船橋もわずかに胸のつかえが下りた。これなら、大事になる前に藤野たちの元へ戻れる。
そう安堵して、上層への階段へ踵を返す。
だが、ダンジョンは、彼らをそう優しく帰してくれそうにはなかった。
――ギャァァァァァァッ!!
地の底から響くような、鼓膜を直接引っ掻く獣の絶叫が、ダンジョン全体を揺るがした。
「なんだ、今の声……!?」
武田が大盾を構え直し、周囲を警戒する。船橋の皮膚の表面を微小な電流が走り抜け、脳の奥底で本能の警報がガンガンと鳴り響く。
「とにかく今は急いで戻るぞ! 新田、お前たちは俺たちの真ん中に入れ! 陣形を崩すな!」
船橋の鋭い指示に、学生たちが慌てて密集する。
撤退戦が始まった。
だが、第十六層から安全地帯である第十層までの道のりは、決して短いものではない。歩みを進め、階層を上がるごとに、状況の異常さが浮き彫りになっていく。
「グルルォォォ!」
第十五層へと上がる階段を抜けた直後、通路の角から運悪くオークの群れがポップしてくる。
船橋と武田が連携して即座に撃退するが、さらに第十四層、第十三層と進むにつれ、十分も歩かないうちにゴブリンやコボルトの奇襲に遭うようになった。
「やけに敵のポップ頻度が高くねぇか? もう三階層分も登ってきてるのに、全然魔物の数が減らねぇぞ」
武田が、盾についた血を振り払いながら息を吐く。その顔には、長時間の撤退戦による確かな疲労が滲んでいた。
船橋は周囲の気配を探りながら、苦い顔を作った。
「あぁ。なんだか、意図的に俺たちの足を止めるための『時間稼ぎ』をされてるみたいだ」
「さっきの獣の叫び声といい、結局、何が起こってるんですかね……?」
新田が背後から尋ねてくる。自分たちの実力なら対処できる範囲とはいえ、度重なる連戦と、いつ終わるか分からない異常事態に、学生たちの顔にも明らかな疲労と切羽詰まった色が浮かび始めていた。
「さぁな。ただ、ダンジョンの中でデカい音がする時ってのは、大抵ろくなことがねぇ。突然、変異個体が山のように湧いてきたって不思議じゃないさ」
肩をすくめる船橋に対し、大盾を構えた武田が渋面を作る。
「船橋、縁起でもねぇことを言うのはやめろ」
「変異個体……座学で習いましたけど、俺たちはまだ一度も遭遇したことがないです」
学生の新田が不安げにこぼすと、船橋は苦い記憶を呼び起こすように目を細めた。
「俺らも、長いこと潜ってるが過去に一度遭遇したきりだな。運良く格下の魔物だったからなんとかなったが、もし同格の相手だったら、俺たちは今ここにいなかったはずだ」
変異個体――それは、ダンジョンに極稀に発生する恐怖。
通常の魔物と比べて莫大な経験値を持っており、討伐時の見返りこそ大きいものの、探索者が使っているシステム補正に『障害』を引き起こすという、極めて厄介な敵。
「あぁ、あの時は本当に最悪だったな。『憤怒』のイレギュラーでよ。エイム補正や魔力制御がガタガタになって、スキルは当たらねぇわ不発するわで……マジで死ぬかと思ったぜ。あんなのは、もう二度とご免だな」
「そうなんですね……。もし出会ったら、どうすればいいんでしょうか?」
武田の思い出話に船橋が顔をしかめる横で、新田がゴクリと喉を鳴らして尋ねる。
「とにかく逃げることだけを考えろ。同格以上の変異個体なんて、まともにやり合える相手じゃない。特に、システム補正への依存度が高い奴ほど、急に梯子を外された時の生存率が下がる。お、見えてきたぞ。もうすぐ十二層だ」
船橋の声に、強張っていた一行の頬の筋肉が、わずかに緩む。
過酷な撤退戦もようやく折り返しを過ぎ、彼らは第十二層へと繋がる広い空間にたどり着いた。
安全地帯である第十層まで、あと二階層。終わりが見え始めたことで、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、学生の一人が肺の底から安堵の息を吐き出した。
「はぁ……よかった、もう少しだ――」
その気の緩んだ言葉を聞いて、船橋が「油断するな」と口を開きかけた、まさにその瞬間だった。
彼の規格外に研ぎ澄まされたスカウトとしての嗅覚が、極限まで気配を消した『死の気配』を辛うじて捉えたのだ。
「――っ、避けろ!!」
船橋の絶叫と同時だった。
天井の闇から、黒い影が音もなく落下し、最後尾にいた学生の肩口を鋭い爪が深く抉り取った。
「ぎゃあっ!?」
「クソ! システムのアラートが反応しなかったぞ!?」
武田が大盾を突き出し、学生の前に割り込む。
地面に着地したその魔物の姿を見て、船橋は喉の粘膜が急激に干上がり、かすかな鉄の血の味が広がるのを自覚した。
二足歩行の狼男、すなわち人狼のようなシルエット。しかし、その毛並みはどろりとしたタールのように粘り気を帯びている。
何より異質なのは、その身から立ち上るオーラだ。
黒、赤、青――三つの不吉な色が混じり合った毒々しい光。
「こいつ、変異個体だ……!」
つい先ほど話していたばかりの厄災。
しかも目の前の個体は、武田が語っていた赤一色の『憤怒』の強化版とも言える存在。黒の『貪』、赤の『瞋』、青の『痴』。ダンジョンに渦巻くこれら三毒が同時に共鳴し、複雑に絡み合って生まれた最悪の変異個体――通称『煩悩』。
その真の恐ろしさは、単なる物理的な強さや凶暴性ではない。複数の悪意が混ざり合っているがゆえに、探索者のシステム補正に与える障害すらも『全く予測がつかなくなる』ことだ。
「とにかく、学生連中は先に行け! 藤野たちがいるセーフエリアまでそう遠くない!」
船橋が叫ぶと、負傷した学生を抱えた他のメンバーたちが、悲鳴を上げながら階段へと走り出す。
だが、新田だけがその場に残り、腰の剣を引き抜いた。
「あんだけ偉そうなことを言ってた俺が、自分だけ逃げて残らないわけにはいきませんよ!」
無駄なプライドだ、と普段なら一蹴していただろう。だが、この変異個体を前にして、前衛が一人でも多いのは助かる。
「……分かった。だが、絶対に俺の指示には従えよ!」
「はい!」
船橋、武田、そして新田。
三人とイレギュラーとの、絶望的な防衛戦が始まる。
「おおらぁっ!」
武田が盾で突進を受け止め、船橋が死角から短剣を滑り込ませる。
だが、刃が魔物の皮膚に触れる寸前。
(――っ!?)
船橋の腕が、不自然にブレた。
普段ならシステム補正の『エイムアシスト』で正確に急所を捉えるはずの短剣の軌道が、大きく逸れる。
刃は魔物の皮膚を滑り、硬い骨に弾かれた。
「くそっ、攻撃が外れた!?」
新田も魔法剣の炎が安定せず、明滅を繰り返してパニックに陥っている。
船橋はすぐに原因を悟った。
「気をつけろ! こいつのオーラに当てられると、システムの補正がランダムにオンオフ切り替わっちまう!」
ステータスによって超人的に強化された肉体。だが、それを正しく制御するための『システムのアシスト』が外れた状態では、自らの手足を満足に動かすことすら至難の業となる。
慣れない感覚に戸惑い、彼らの連携は徐々に綻びていく。
それでも、地力で勝る武田の盾と、船橋の素の技術でなんとか魔物を押し込み始めていた。
(よし、いける……!)
魔物の動きが鈍り、武田がトドメの一撃を放とうと大盾を振り上げた、その瞬間。
――ズシュッ。
背後の闇から、もう一つの黒い影が音もなく飛び出してきた。
「なっ――!?」
武田の肩を、二体目のイレギュラーの爪が浅く切り裂く。
痛覚抑制のシステムがちょうどオフになっていたのか、武田が苦痛に顔を歪めた。
「もう一体だと!?」
圧倒的な絶望に、船橋の視界から急速に彩度が抜け落ちていく。
一体でもギリギリの綱渡りだ。補正が不安定な状態で、二体のイレギュラーを相手にするなど自殺行為に等しい。
ここで、誰かが犠牲にならなければ全滅する。
船橋は、冷え切った頭で瞬時に最善の『損切り』を計算した。
「クソ! 新田、お前は逃げろ!」
「でも!」
「いいから指示に従え!」
船橋は新田の首ぐらを掴み、階段の方へと無理やり突き飛ばした。
「俺には、広範囲に毒を散布するスキルがある! パーティを組んでないお前にはダメージが入っちまうんだよ!」
藤野の元までこの絶望的な状況を確実に伝えるためには、誰かを逃がす必要がある。
「藤野に『船橋が毒を使う』って言えば、状況は伝わる! さっさと行ってくれ!」
その言葉の意味を察したのか、盾を構え直した武田の顔に、覚悟を決めたような凄絶な笑みが浮かんだ。
新田は、武田と船橋の背中を交互に見つめ、ギリッと唇を噛み破る。
「……分かりました! すぐに救援を呼んできます!」
新田が階段を駆け上がっていく足音が遠ざかる。
それを見送った船橋は、短剣を逆手に構え直した。
「……武田。すまないな。お前まで残しちまって」
「はぁ。全くだよ。妻に怒られちまうな」
二人の前に、三色のオーラを纏った二体の化け物が、涎を垂らしながら身構えていた。
◇
喉の粘膜を張り付かせるような荒い呼吸を繰り返し、新田は安全地帯の第十層へと飛び込んだ。
先に逃げていた学生たちの手当てをしている藤野と佐藤の姿が見え、新田は転がるように彼らの元へ駆け寄った。
「藤野さん……!」
血相を変えた新田を見て、藤野が立ち上がる。
「学生たちは無事に合流した。お前も無事みたいだな。……で、船橋たちはどうした?」
「変異個体が、二体も出たんです! 俺だけ逃がされて……船橋さんが、広範囲に毒を使うから離れろって!」
その言葉を聞いた瞬間、藤野の顔からスッと感情が消え落ちた。
「毒……。船橋が、本当にそう言ったのか?」
「はい! パーティじゃない俺にはダメージが入るからって! 早く、急いで救援に行かないと――!」
新田が踵を返そうとした時、藤野の太い腕がその肩をガシリと掴んだ。
「そうか。……佐藤」
「はい」
佐藤の声が、わずかに震えていた。
藤野は、一切の躊躇なく言い放った。
「撤収だ。ダンジョンから出るぞ」
「……え?」
新田は自分の耳を疑った。
「どうしたんですか!? 急がないと、二人が!」
「いや、救援には行かない」
「どうして! 仲間なんでしょ!」
怒りで声を荒らげる新田に対し、藤野は血の滲むほど強く奥歯を噛み締めた。
屈強な男の分厚い胸板が、堪えきれない悔しさで小刻みに震えている。
「……アイツに、毒スキルなんてない」
「え……じゃあ、どうして」
頭蓋の奥で冷たい耳鳴りが響き、新田の思考のピントが完全に吹き飛んだ。
藤野は、さらに奥歯をギリギリと噛み鳴らしながら、喉の奥から絞り出すように言葉を続けた。
「『毒』ってのは、斥候役のアイツが決めていた合言葉だ。『救援不要、二次災害の可能性高し』……絶対にくるなって意味だ」
「え、そんな……」
新田は、俄かにはその言葉を信じられなかった。
あの警告は、ただ彼を安全に逃がすための方便だったというのか。
見下していたはずのプロの探索者が、見ず知らずの生意気な学生の命を優先して、自らの命を投げ出した。
突きつけられた残酷な事実に、新田の全身から急速に血の気が引いていく。
「とにかく、俺たちもすぐにダンジョンから出るぞ。変異個体がセーフエリアに侵入したという事例は聞いたことがないが……最悪の事態を想定して動く」
「でも……俺が、俺のせいで……!」
膝から崩れ落ちそうになる新田の胸ぐらを、藤野が強引に掴み上げた。
「ガタガタ抜かすな!! アイツがお前を逃がしたなら、それはアイツの責任なんだよ! お前は、生きて帰るんだ!」
血走った目で怒鳴りつける藤野に背中を押され、新田は絶望と後悔で視界を歪ませながら、地上への階段を登り始めた。
◇
薄暗いダンジョンの底で、武田は荒い息を吐きながら大盾を構えていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
武田の内心に、ふと、愛娘の笑顔がよぎる。
今朝、家を出る時に「パパ、お仕事がんばってね」と抱きついてきた、小さな手の感触。
(あぁ……終わりって、あっけないもんだなぁ)
不思議と、恐怖はなかった。
長年の経験が、自分たちの命脈があとわずかであることを冷徹に告げている。
それでも諦めたわけではなく、船橋との阿吽の呼吸で、魔物の攻撃をひたすらに耐え忍んでいた。
一体のイレギュラーは、船橋の決死の特攻によって討伐した。
だが、もう一体はまだ健在だ。
――システム補正・痛覚抑制機能:オフ。
「ぐぁっ……!」
ランダムに切り替わるシステム補正の悪意。
痛覚抑制が切れた瞬間、全身の筋肉に溜まった疲労と、無数の切り傷から生じる痛みが、熱く煮えたぎる鉛となって脳を焼く。
動きが鈍ったその一瞬の隙を、獣は逃さなかった。
ドゴォッ!!
圧倒的な質量が、大盾ごと武田の身体を吹き飛ばす。
岩肌に激突し、肺から空気が根こそぎ絞り出される。
「武田っ!!」
船橋の悲痛な叫び声が聞こえた。
立ち上がろうと右腕に力を込める。だが、感覚がない。
視線を落とすと、大盾を握っていたはずの右腕が、肘の少し上から根こそぎ千ちぎれ飛んでいた。
吹き飛んだ腕が、数メートル先の地面に転がっている。
「……あ、あぁ……」
どくどくと血が溢れ出し、激痛が視界を白く染め上げる。
身体制御の補正も、欠損による極端なバランス低下には対応できない。武田は無様に地面に転がった。
仰向けに倒れ、ひどく虚ろな瞳で、血だまりの中に転がる『数瞬前まで自分に繋がっていたはずの右腕』を見つめる。
(これじゃあ……結衣を、抱っこしてやれねぇな……)
薄れゆく意識の中で、武田は愛娘の顔を思い浮かべた。
お日様のような匂いがする柔らかい頬っぺた。短い腕をいっぱいに伸ばしてしがみついてくる、あの小さな温もり。「パパ!」と満面の笑みで腕の中にはしゃぐ、世界で一番愛おしい声。
もう、二度と触れることはできない。
視界の端で、タールのようなドロリとしたオーラを纏った化け物が、とどめを刺そうと大きく顎を開くのが見えた。
死が、ゆっくりと牙を剥いて迫ってくる。
「武田ァァァァッ!!」
船橋の絶叫が、ダンジョンの冷たい闇に吸い込まれていった。
ブックマークや☆評価で背中を押してくださるあなたへ。
本当にありがとうございます。
この作品が続けられているのはあなたのおかげです。
評価をしていない人は、お好きなタイミングで構いません。
少しでも面白ければ評価を頂けると嬉しいです。
★は五個まで増やせます。




