第83話 おじさんと、達人と
旅館から少し離れた、舟木家の実家に隣接する年季の入った木造道場。
勝手に中へ入るわけにもいかず、俺は入り口の前で一人待っていた。
「お待たせしました!」
実家の母屋の方から小走りで駆け寄ってきたのは、凛々しい濃紺の道着に袴姿の舟木さんだ。
普段の事務服や、私服姿とは全く違う、武人としての凛とした佇まい。引き締まった表情と真っ直ぐな視線に、思わず見惚れそうになる。
舟木さんが重厚な引き戸を開けて案内してくれ、俺は更衣室で借りた道着と袴に着替えた。袴の紐を締め直しながら、広々とした道場内を見渡す。
磨き上げられた板張りの床には、冷たく引き締まった空気が満ちていた。
「凄い道場ですね。立派だし、長年使い込まれてる感じがします」
床には長年使い込まれた艶があり、壁には歴代の門下生たちの名札がズラリと並んでいる。
俺の言葉に、舟木さんは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、昔ほどじゃないんですよ。ダンジョンが現れてからは、対人戦の武術よりも、モンスター相手の戦闘スキルが重視されるようになりましたから。うちみたいな『人間相手の流派』は、どうしても実戦向きじゃないと思われがちで……」
「なるほど……。ステータス補正や魔法があれば、人間の技術なんて不要だって考える人は多いですからね」
「ええ。でも、ありがたいことに、ランクの上がったベテランの探索者さんや、警察官の方々は相変わらず通ってくださるんです」
「ベテランが?」
「はい。『結局、最後に一番怖いのはモンスターよりも人間の悪意だ』って。それに、システム補正に頼りきりになるよりも、基礎的な身体の使い方を知っていた方が生存率が上がる……皆さん、そうおっしゃってくれます」
「確かに、その通りかもしれませんね」
(人間の悪意、か。確かに、ステータスに溺れた『探索者崩れ』に狙われたら、生身の一般人じゃどうにもならない。……凛の一件みたいなこともあるからな)
『マスター! 私のサポートとマスターの実力があれば、世の中に蔓延る探索者崩れを端から粛清することも可能ですよ! やりますか、世直し!』
(お前なぁ……嬉々として『粛清』とか物騒な単語を使うなよ。それに、そんなこと始めたらキリがないだろうが)
ダンジョンという理不尽な力が世界に現れて三十余年。システム補正という安直な暴力に溺れ、野盗に成り下がった「探索者崩れ」による犯罪は、今も泥水のように社会の暗部へ染み出し続けている。
だからこそ、ナビ子の提案する「世直し」も、正直悪くないとは思う。無法なクズをバールで物理的に沈めるだけなら、今の俺の力なら容易いだろう。
だが、それは底の抜けた柄杓で、延々と泥水を掻き出し続けるような徒労だ。根源たるダンジョンがそこにある限り、力に溺れる人間は底なしに湧いてくる。俺のバール一本で片付く問題ではない。
脳内で物騒な提案をしてくる相棒に呆れ半分、同意半分でため息を吐き出す。俺は舟木さんの言葉に深く頷きながら道場内を見回し――ふと、あることに気がついた。
「そういえば、他の門下生の姿が見えませんね。平日の朝だからですか?」
「はい。それに今日は、うちの門下生たちが地元の大学のダンジョン演習の引率で出払っているんですよ」
(ダンジョン演習……。そういえば、凛も今日そんなことを言っていたな)
「大学でダンジョンの演習なんてあるんですね。最近の学生にとっては、そういうカリキュラムが普通なんですか?」
「ええ、プロを目指す学生にとって大学での実地演習は必須カリキュラムだと思いますよ。ただ、学生の引率には危険も伴うので、うちの道場のように実戦経験のある者が護衛として依頼されることが多いんです」
「なるほど。万が一の時に備えて、プロが後ろで見守るわけだ。じゃあ、今は貸切状態ってわけですね」
「ふふっ、そうですね。でも、旅館にいる父から、普段道場で指導をしている叔父様とお兄ちゃんに『湊さんが来ている』と連絡がいっているはずなので、後で顔を出すかもしれません。とりあえず、まずは二人で練習しましょうか」
「ええ、むしろ舟木さんに教えてもらえるならありがたいですよ」
「それなら良かったです! それじゃあ、まずは私がいつもやっている基本の型をお見せしますね」
舟木さんが道場の中央へと進み出て、基本的な足捌きや、木刀を使った素振りの型を披露してくれた。
無駄のない重心移動。静から動への滑らかな切り替え。システム補正に頼らない、純粋な肉体の運用技術。
見よう見まねで、俺も木刀を構えて軽く振ってみる。
すると、道場の奥のふすまがスッと開き、二つの影が姿を現した。ひとりは枯れ木のように細身の白髪の男、もうひとりは使い込まれた道着姿の屈強な男だ。
「ほぅ……見様見真似にしては、随分と様になっておる構えだ」
「叔父様。それに、お兄ちゃんも」
舟木さんが振り返って声をかける。
兄と思しき道着姿の男は俺を胡散臭そうに上から下まで値踏みするように見つめ、叔父と呼ばれた作務衣姿の白髪の男は、細めた蛇のような目で俺の足元から手先までをねっとりと観察している。
「葵。そちらの御仁が?」
「はい、湊さんです。いつもギルドでお世話になっている探索者の方で、今日はうちの武道を見学にいらしたんです。湊さん、こちらが道場師範である叔父の弦之介と、師範代の兄・蒼星です」
紹介を受けて俺が軽く頭を下げると、兄の蒼星は不満げに顔をしかめた。
「探索者ね。ステータス補正や魔法に頼り切った連中が一朝一夕で、うちの対人武術が理解できるもんかね」
「蒼星、よさぬか」
棘のある言葉を、弦之介が静かに、しかし威圧感のある声で制した。
そして、俺に向かって穏やかに声をかけてくる。
「立ち話もなんだ。湊殿、もしよろしければ、少し一緒に汗を流してみる気はありませぬか?」
「ええ、ぜひお願いします」
作務衣と道着姿でいつでも動ける状態だった二人は、壁際の木刀立てからそれぞれ木刀を手に取った。
俺は弦之介や舟木さんと一緒に道場に等間隔で並び、見様見真似で木刀の素振りを始めた。
何十回か木刀を振り下ろした頃、その様子をじっと観察していた弦之介が、ふと手を止めてゆっくりと口を開いた。
「湊殿の動きは確かに隙がない。何十年も鍛錬を積んできたと言われても疑わんほどの安定感だ。しかし……攻撃に転じるときの体の使い方が、少し雑な気がするな。湊殿、普段使っておる武器は……剣ではないな? もっと重心が偏った、重い『鈍器』のようなものではないかな?」
「えっ……凄い。ちょっと振っただけで、そんなことまで分かるんですか!?」
図星を突かれた俺が目を丸くして手を止めると、弦之介はコクリと頷いた。
「いかにも。基礎的な身体能力やセンスがずば抜けておるから、どうしても『腕の筋力』や『反応速度』だけで動作を完結させてしまっておる、いわゆる『力任せ』の振りになっとるの。だが、元々武道というのは、身体能力が低い人間が、自分より強大で高い身体能力を持つ相手を倒すために研鑽されてきた技術体系なのだよ」
弦之介は足音ひとつ立てずにスッと重心を落とし、そのまま足裏から汲み上げた力を腰、肩、腕へと波のように連動させ、木刀をゆっくりと、しかし信じられないほど滑らかに振り抜いた。
ピュンッ! と、空気を切り裂く鋭い音だけが道場に響く。
「ただの筋力ではない。下半身から生み出したエネルギーを、背骨と肩甲骨を経由して、無駄なく剣先に伝える。体の力を『全て』使って相手にエネルギーを伝達するのだ」
(なるほど……)
俺は肺の空気を吐き出し、ハッと息を呑んだ。
これまで「完全手動」による精密な筋肉や関節のコントロールで戦ってきたつもりだった。だが、それはあくまで『個別のパーツの出力を100%引き出しているだけ』に過ぎなかったのだ。
全身を一つのバネのように連動させ、下半身のエネルギーをロスなく剣先に伝達させる「武術の身体操作」。この力の通り道を取り入れれば、今のステータスでもさらに上の出力が叩き出せる。
「体の力を、全て使う……。こうですか?」
俺は弦之介の動きを脳内でリプレイしながら、見様見真似でゆっくりと木刀を振り下ろした。
だが、俺の動きを見た弦之介は、静かに首を横に振って近づいてきた。
「違うな。それではまだ『点』と『点』だ。湊殿、そのまま構えてみてくれ」
弦之介が、竹の杖のように細い指先で俺の身体の各所を軽く叩いていく。
「右の肩甲骨が数ミリ上がっておる。股関節の開きが浅い。大腿四頭筋から腹斜筋への連動が断たれておるな。もっと力を抜いて、骨盤の傾きを……」
弦之介の具体的な指摘に従い、俺は意識を自分の肉体の奥深くへ潜らせる。
『完全手動』の操作権限を起動し、指摘された筋肉の繊維、関節の角度、骨格のバランスを、まるで精密機械のネジを回すように、ミリ単位で一つずつカチ、カチと調整していく。
「右肩甲骨、下方修正。股関節、二度開放。腹斜筋への接続……よし。これでどうですか」
俺が再び木刀をゆっくりと振り下ろした瞬間――ピュンッ! と、弦之介と同じ鋭い風切り音が道場の空気を切り裂いた。全身の力がロスなく剣先に伝わる、完璧な一撃だった。
その瞬間、先ほどまで泰然としていた弦之介が、限界まで目を見開いて数歩後ずさった。枯れ木のような額に、脂汗が滲む。
「なっ……なんという男だ……。わしが指摘したそばから、長年染み付いた癖や余分な力みを、一瞬でミリ単位の狂いもなく修正しおった。そんな馬鹿な。肉体の各パーツが、まるで機械の歯車のように恐ろしい精度で完璧に噛み合っていくのが見えたぞ……!」
戦慄の声を漏らす弦之介だったが、やがてハッと我に返り、一つ咳払いをして道場主としての表情を取り繕った。
「コホン。う、うむ、見事な修正だ。……だが、素振りならできても、いざ実戦となればそうはいかん。標的に当たるインパクトの瞬間に無意識の力みが入り、この感覚が抜け落ちてただの力任せに戻ってしまう者が多いからな。そこを注意して――」
言いかけて、弦之介の言葉がピタリと止まった。
何かを思い出したように俺の顔と木刀を交互に見比べ、スゥッと再び顔から血の気が引いていく。
「……いや。湊殿のこの異常な操作精度なら、実戦での力みなど、心配するだけ無用かもしれんな……」
信じられないものを見るような目で俺を見つめ、弦之介は深い溜め息を吐き出した。
隣にいた蒼星も「お、おい……嘘だろ……」と息を呑み、信じられないものを見るような顔で俺を見つめている。
「叔父様がここまで驚かれるの、初めて見ました」
横で見学していた舟木さんが、目を丸くしてポツリと呟いた。
その声にハッとしたように振り返り、弦之介は大きくかぶりを振る。
「葵。お前さん、とんでもない御仁を連れてきたな」
「そ、そんなにですか?」
「……我々が何十年と血反吐を吐いて辿り着く『武の極致』の一端を、あの男は己の肉体を完璧に支配することのみで体現してみせたのじゃ」
弦之介の言葉を引き継ぐように、今まで絶句していた蒼星が額の汗を拭いながら口を開いた。
「無論、武の道は今教えたものだけで極められるほど底の浅いものじゃねえ。……だが、もし俺たち舟木流体術の全てをあの男に伝えたら、一体どんな化け物が誕生するのか……想像するだけで恐ろしいよ」
そう言って、蒼星は忌々しげに頭を掻き、俺と、道場の端にいる舟木さんを交互に見比べた。
「……チッ。得体の知れねえ男だってんで、最初はボコボコにして追い出してやろうかと思ってたが……。これほどの男なら、葵を任せても……」
後半は蚊の鳴くような声で呟き、蒼星は悔しそうに、けれどどこか認めたような複雑な表情で顔を伏せた。
弦之介と蒼星の二人が、改めて俺の全身を舐め回すように見つめてくる。
そこまで過剰に評価されると、流石の俺も居心地が悪い。照れ隠しのようにポリポリと頬を掻いた。
「いや、そんなに褒められても何も出ないですよ……」
俺の底知れなさに道場全体が戦慄し、空気が限界まで張り詰めた、その時。
不意に、開け放たれた道場の入り口から、暢気な大声が響き渡った。
「やあ、ミナト! 朝の散策を楽しんでいたら、素晴らしい風切り音が聞こえてきてね。見事な鍛錬場じゃないか。思わず見入ってしまったよ」
振り返ると、そこにはラフな私服姿の巨漢――ジョンが、目を輝かせて立っていた。息一つ乱れておらず、朝の涼しい風を浴びて清々しい顔をしている。
【朗報】おじさん、まだ成長の余地ある【技術面で】
【悲報】妹が連れてきたいけ好かない男が才能の塊なんだが【絶望】
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