第84話 おじさんと、達人と、ジョン
――道場の端、冷たい板張りの上で見学していた私、舟木葵は、瞬きを忘れて視界が乾燥していくのも構わず、目の前の光景に釘付けになっている。
(あの厳しい叔父様が、部外者をあんなに手放しで絶賛するなんて……。門下生や兄すら褒めているところをほとんど見ないのに)
湊さんがひときわ才能ある探索者だということは知っていた。だが、まさか何十年も武の道を極めてきた叔父様を、ここまで戦慄させるほどの異常な才能の持ち主だったとは。
過剰なほどに褒め称えられ、居心地が悪そうに頬を掻いている湊さんの横顔を見つめながら、私は肺の奥底に溜まっていた熱い空気を細く逃がす。
そんなピンと張り詰めた道場の空気を一瞬で塗り替えたのは、開け放たれた入り口から響いてきた暢気な大声だ。
「やあ、ミナト! 朝の散策を楽しんでいたら、素晴らしい風切り音が聞こえてきてね。見事な鍛錬場じゃないか。思わず見入ってしまったよ」
声のした方へ振り返ると、入り口の敷居の外側に一人の巨大な影が立っている。
身長二メートルは優に超えるであろう、筋骨隆々とした外国人男性。ラフな私服姿で現れたその姿を見て、私は視界のピントを合わせ直した。
(あ……あの人、昨日見かけた観光客だ……)
「おぉ! ジョン!」
道場の中央に立つ湊さんが、入り口の向こうに立つ巨漢に気づく。構えていた木刀を下ろすと、親しげに声を上げた。
唐突な部外者の登場に動きを止める叔父様と兄に向き直り、湊さんは申し訳なさそうに頭を下げる。
「師範、すみません。昨日から同じ宿に泊まっている俺の知人なのですが……少々お騒がせしてしまったようで。どうやら、俺たちの稽古の音に惹かれてやってきたみたいです」
そう言って苦笑いする湊さんに、叔父様はゆっくりと一つ頷いた。
「構わんよ。武の音に惹かれるのは強者の性というやつじゃ。そこの御仁、立ち話も何じゃろう。よければ中へ入られよ」
「おお、それはありがたい。失礼するよ」
叔父様の許可を得て、ジョンと呼ばれた巨漢は嬉しそうに白い歯を見せる。大きなスニーカーを脱いで道場の敷居を跨ぎ、ドスドスと足音を立てて中へと入ってきた。
二人は昨日会ったばかりだ。湊さんが泊まるはずだった離れの部屋を彼に譲ってあげただけの関係なはず。それなのに、やけに親しげに会話を交わしている。私は瞬きの回数がバグったように、二人のやり取りを交互に見つめる。
「湊さん、いつの間にそんなに仲良くなったんですか……?」
私が恐る恐る尋ねると、湊さんは軽く肩をすくめる。
「あぁ、実は昨日の夜、一緒に食事をしましてね」
「初めまして。私はジョンです」
ジョンさんは、真っ白な歯を見せて人懐っこく笑うと、座っている私へと大きな右手を差し出してきた。
あまりのペースに圧倒されつつも、私は慌ててペコリと頭を下げる。
(昨日会ったばかりなのに、もう一緒に食事をする仲になってる。湊さんのコミュ力、どうなってるの……?)
「それにしても、見事な太刀筋だったよミナト。まるでサムライだね!」
ジョンさんは興奮気味に湊さんへそう告げた後、すぐさまその隣に並び立つ叔父様と兄へと視線を移した。
「そちらの師範殿たち。どうか、私にも端のほうでもう少し見学をさせてもらえないだろうか? 決して邪魔はしないと約束しよう」
真っ直ぐな瞳で懇願してくる巨漢の外国人に、兄は胡散臭そうな目を向けたが、叔父様は再び鷹揚に頷いた。
「無論だ。熱心な見学者は歓迎しよう」
「ありがとう! じゃあ、端の方で見させてもらうよ」
ジョンさんは嬉しそうに微笑むと、道場の隅に胡座をかいて巨体を沈める。そして、熱心な視線を中央の湊さんたちに向け始めた。
その後、気を取り直して木刀の稽古が再開される。
叔父様の細かな指導が入るたび、湊さんは恐ろしいほどの精度で自分の癖を修正し、完璧な太刀筋を空間に刻みつけていく。その異常な吸収速度に、指導している叔父様や兄はもちろん、見学しているジョンさんまでもが感嘆の溜め息を漏らしている。
◇
それから一時間ほど汗を流した頃。
「さて、木刀を使った鍛錬はここまでにして、次は体術――『合気』の稽古に入ろうか。蒼星、畳の準備を」
叔父の弦之介がそう宣言すると、兄は無言で頷く。道場の隅に立てかけられていた何枚もの硬質マット――衝撃吸収用の特殊な畳――を、一枚ずつ床へ敷き詰め始めた。
私は慌てて叔父様に駆け寄る。
「ちょっと叔父様! 合気体術は、モンスター相手の探索ではほとんど使わない技術じゃないですか。湊さんは探索者なんですよ?」
「分かっておる。じゃが、先ほどの異常な身体操作……いや、完璧な肉体の自己管理能力を見たからには、どうしてもわしの技術を試してみたくなったのじゃ。……湊殿も、興味があるのではないかな?」
叔父様が細い目をさらに鋭くして視線を向けると、湊さんは深く頷いた。
「ええ、ぜひ教えてください!」
「うむ。では、まずは蒼星、前へ出ろ」
「はい」
兄が姿勢を低くして叔父様に向かって踏み込み、鋭い正拳突きを放つ。
しかし、叔父様は枯れ木のような腕を軽く添えたかと思うと、フワリと円を描くようにステップを踏む。兄の足が宙に浮き、視界が状況に追いつくより早く、道場が揺れるほどの重低音が響いた。
屈強な兄の身体が、見事に背中から畳へと叩きつけられている。
「おおっ……素晴らしい!」
道場の端で見学していたジョンさんが、興奮したように手を叩いた。
「見事な体捌きだね! 相手に触れただけで巨体を軽々と投げ飛ばすなんて、まるで魔法のようだ。これが噂に聞く日本の忍術というやつかい?」
「いや、忍術じゃねえよ。『合気』っていうんだよ」
畳に倒れたまま、兄が顔をしかめて抗議する。
しかし、ジョンさんは兄の言葉を演武の演出とでも思っているのか、ウキウキとした足取りで叔父様の前に進み出た。
「師範! どうか、私にもその技をかけてみてくれないだろうか?」
「ち、ちょっと待ってください! 素人の方が受け身も取れずに食らったら、最悪、首の骨が折れちゃうかもしれないんですよ!?」
私が慌てて止めに入ろうとすると、ジョンさんはニカッと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「心配無用だよ! 私はこう見えても探索者をやっててね。一応、『黄金級』だから、受け身の取り損ねくらいじゃ怪我一つしないさ!」
陽気な外国人観光客にしか見えなかったが、言われてみればやたらと体格がいい。黄金級探索者だと言われると、不思議と納得がいった。
受け身の取り損ねで大怪我をするようなレベルではない。その安心感が勝り、叔父様はジョンさんの言葉に少し目を細めると、小さく頷く。
「よかろう。では、力任せに掛かってきなさい」
ジョンさんが丸太のような腕を振り被り、戦車のような勢いで叔父様へと突進する。
黄金級の圧倒的なステータス。まともにぶつかれば、細身の老人は一たまりもない。
だが――叔父様はジョンさんの巨大な腕にスッと両手を添え、コマのようにクルリと身体を回転させる。
「なっ!?」
ジョンさんの巨大な身体が軽々と宙を舞い、先ほどの兄と全く同じように、背中から畳へドシンッ! と叩きつけられる。
「信じられない……。一体どうなっているんだい、これ!? 私の力が、全部自分に返ってきたみたいだったよ……!」
仰向けに倒れたジョンさんが、視線のピントをさまよわせながら驚きの声を上げる。
それを見ていた湊さんは、新しい玩具を与えられた子供のような好奇心を隠そうともせず、叔父様の前に歩み出る。
「す、凄い……! あの、俺もお願いしていいですか!?」
「うむ、来るがいい」
湊さんが軽く腰を落とす。ジョンさんほどではないが、鋭い踏み込みで叔父様に掴みかかろうとする。
叔父様は同じように湊さんの腕に触れ、合気の技で投げ飛ばそうとする。
――ドスンッ!
ジョンさんと全く同じように、湊さんの身体が宙を舞い、背中から畳へと叩きつけられる。
「なるほど。凄いな、めっちゃ繊細な動きですね、これ」
湊さんは畳に倒れたまま、どこか嬉しそうな声を出した。
「力のベクトルを読んで、ほんの少しの支点をずらすだけで、相手の力を完全に利用できるなんて……。じゃあ、これだとどうなんですか?」
言いながら立ち上がった湊さんが、再び叔父様へと掴みかかる。
叔父様は先ほどと同じように技を掛けようとするが――。
「なに……っ!?」
叔父様の驚愕の声が道場に響いた。
湊さんは投げ飛ばされるどころか、叔父様の力の流れを感知した瞬間、自らの関節の角度と重心を僅かにずらす。見よう見まねの動きで、叔父様の力をサラリと受け流してしまったのだ。
「……たった二度目の接触で、合気に似た身体操作を再現したというのか。それが感覚で出来るだけで、異常じゃよ」
「いや、完璧には程遠いですよ。ただ、実は似たようなことを探索の時にイメージしていたので、コツはなんとなく」
湊さんが頭を掻きながら平然と言ってのける。
叔父様は額に脂汗を滲ませながらも、武術家としての血が騒いだのか、次々と湊さんに様々なシチュエーションでの技を披露し始めた。
胸ぐらを掴まれた場合、背後から抱きつかれた場合、刃物で突かれた場合。
湊さんはそのすべてを楽しそうな笑顔で受け、スポンジのように次々と吸収していく。
一方で、ジョンさんも負けじと兄を相手に合気の稽古をつけてもらっていた。
「ジョンさん、アンタなかなか筋がいいな。うちの門下生たちよりも、遥かにセンスがあるぜ」
兄が珍しく素直に褒め言葉を口にする。
しかし、その直後に兄は、道場の中央で叔父様の技を次々とコピーしていく湊さんの方へと視線を移し、深い溜め息を吐き出した。
「……でも、アレと比べちまうとなぁ」
兄の視線の先には、嬉々とした表情で叔父様と高度な技の応酬を繰り広げている湊さんがいる。
その光景は、もはや道場の稽古というよりは、達人同士の高度な会話のようだった。
◇
それから数時間後。昼食に良い時間になったところで、今日の稽古はお開きとなった。
「全身の力を使った攻撃の身体操作や、合気の力の受け流し……本当に学びになりました! ありがとうございます!」
着替えを終えた湊さんが、深々と叔父様に向かって頭を下げる。
叔父様は満足そうに何度も頷きながら、湊さんの肩をポンと叩いた。
「うむ。湊殿、またいつでもいらしてくだされ。次に来る時までには、我ら舟木流の『秘伝』を教えられるか、道場主である兄者に確認しておこう」
「ひ、秘伝ですか!? そんな大切そうなものを俺なんかに……」
「構わん。お主のような天賦の才を持つ者に技を伝えられるのは、武術家冥利に尽きるというものじゃ。それに――」
そこで叔父様は、なぜか私の方をちらりと見て、満足そうに目を細めた。
叔父様のその言葉に、私は再び理解が追いつかず、視界のピントが外れそうになった。
あの厳しい叔父様が、部外者に秘伝の伝授を約束するなんて前代未聞の出来事だ。
道場を後にした私たちは、お腹を空かせたジョンさんの強い希望もあり、旅館に併設された食事処で一緒に昼食をとることになる。
「いやあ、それにしても本当に驚きましたよ。叔父様が、あんなに手放しで人を絶賛するなんて、私の記憶にある限り初めて見ましたから」
テーブルに並べられた豪華な和食御膳をつつきながら、私は興奮冷めやらぬ様子で湊さんに語りかける。
「それに、帰り際に『秘伝も教える』って言ってましたよね? あれって一子相伝というか、基本的に舟木家の男子にしか伝えられない技術なんですよ。身内の私ですら教えてもらってないのに」
「ええっ!?」
「うちの実家って、元々は戦国時代の武田家に仕えてたとされる武術の家系で、その頃からずっと受け継がれてきた歴史のある技なんです。叔父様ですら、たぶんすべては体得しきれてないんですよ。それでも、ステータス的には黄金級くらいしかない叔父様が、白金級の探索者を無傷で制圧したって話を聞いたことがあるので……本当に、凄まじい技術なんだと思います」
「……気軽に頷いちゃったけど、大丈夫だったかな」
湊さんが困ったように頭を掻くと、向かいの席で天ぷらを美味しそうに頬張っていたジョンさんが、豪快に笑い声を上げた。
「ハッハッハ! 素晴らしいことじゃないか、ミナト! いやー、私も身体を動かすことに関してはそれなりに自信があったんだけどね。初めて、自分よりもセンスのある規格外の人間を見つけてしまったよ!」
ジョンさんが太い指で湊さんを指差し、嬉しそうに目を細める。
その二人のやり取りを見ながら、私は胃の奥の緊張がふっと解け、じんわりとした安堵が広がっていくのを感じる。
普段は海を隔てた遠く離れた国で生活しているはずの二人が、こうして同じテーブルで笑い合っている光景が、なんだかとても不思議で、そして少しだけ眩しく見えた。
男子にしか伝えられてない秘伝を教えようとする叔父様。
舟木葵への意味深な頷き。
誤解してませんかねぇ。
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