1 - ラインシャルド帝国の帝都
数時間にわたる旅の末、ラインシャルド帝国の帝都がついにカイロの目の前へ姿を現した。遠くからでも、その巨大さは十分に分かるほどだった。街を取り囲む石造りの城壁は高くそびえ、その上からはいくつもの塔が空へ向かって伸びている。城壁には帝国の金色の紋章が描かれた濃紺の旗がいくつも掲げられ、風を受けて大きくはためいていた。そして巨大な正門には、絶え間なく人々が出入りしている。荷物を積んだ馬車、商品を運ぶ商人、剣や鎧を身につけた冒険者、そして帝国のさまざまな地域から訪れた旅人たち。その光景を馬車の中から眺めていたカイロは、いつの間にか窓際へ身を寄せ、片腕を窓の縁へ置きながら興味深そうに目の前の景色を追っていた。これほど大きな街を見るのは、この世界へ来てから初めてだった。もちろん、これまで暮らしていた日本の近代的な都市とはまったく違う。しかし、目の前に広がる街には、それとは別の魅力があった。まるで物語やゲームの中にしか存在しないと思っていた幻想的な都市が、本当に目の前に存在している。そう考えるだけで、カイロの胸には自然と好奇心が湧いてきた。いくつもの塔や屋台、城門を行き交う人々を見つけるたびに、彼はさらに顔を窓へ近づけていった。
「本当に……こんな街があるんだな」
カイロは小さな笑みを浮かべながら呟き、ゆっくりと息を吐いた。その視線は城壁の向こうへ向けられている。そこには石や木で造られた建物が並び、昨夜泊まった小さな村とは比べものにならないほど多くの人々が行き交っていた。商品を積んだ馬車、食べ物を売る屋台、剣や鎧を身につけた冒険者、値段について話し合う商人たち。その中には、明らかに人間とは異なる姿をした者までいる。カイロはそれらを一つずつ目で追いながら、何か新しいものを見つけるたびに首を動かしていた。どれほどそうしていたのか本人にも分からない。それでも数秒ごとに別の何かが目に入り、そのたびに視線を奪われてしまうのだった。つい最近まで日本でごく普通の生活を送っていた自分が、今では魔法や魔物、そしてさまざまな種族が暮らす世界にいる。その事実を改めて実感すると、どうしても気持ちが高揚してしまう。カイロはそんな自分に気づきながらも、それを抑えようとはしなかった。むしろ、この未知の世界をできるだけ多く見てみたいと思っていた。
やがて商人は帝都の正門前で馬車を止めた。長時間の旅だったこともあり、商人は安堵したように小さく息を吐きながら手綱を緩める。カイロは馬車から静かに降りると、少し乱れていた着物を軽く整え、それから巨大な門へ視線を向けた。何人もの兵士が入口に立ち、帝都へ入ろうとする人々を確認している。ある者は荷物を調べ、ある者は旅人へ質問をし、別の者は書類を確認してから入城を許可していた。カイロはその様子を興味深そうに眺め、荷物を大量に積んだ荷車を兵士が調べているのを見つけると、わずかに首を傾げた。
「入ってくるものは全部調べるのか?」
カイロはそう尋ねながら、検査を受けている荷車をさりげなく指差した。商人は馬車の上からその方向を見たあと、面倒そうに肩をすくめる。
「まあ、そうだろうな」
商人はそう答えながら再び手綱へ手を戻した。カイロの質問に興味があるというより、早くここから離れたいという様子だった。やがてカイロたちの順番が来ると、一人の兵士が真剣な表情で近づいてきた。男は習慣のように剣の柄へ手を添えながら、カイロを頭から足元まで注意深く見つめる。しかしカイロは威圧された様子をまったく見せなかった。それどころか、腰に差された剣よりも兵士が身につけている鎧のほうに興味を持っていた。これほど大きな都市の兵士を見るのは初めてだったため、まるで昔読んだ物語に登場する兵士そのものだと思っていた。
「入国の目的は?」
兵士はわずかに目を細め、落ち着いたものの厳しい口調で尋ねた。カイロは一度だけ巨大な城壁を見上げ、それから再び兵士へ視線を戻す。
「街を見てみたい。ここに来るのは初めてなんだ」
そう答えながら、カイロは後頭部へ片手を回し、どこか気楽な表情を浮かべた。兵士はあまりにも簡単な返答に眉を上げると、馬車に残っている商人へ視線を向ける。
「こいつはあんたの連れか?」
男が小さく顎を動かしてカイロを指すと、商人は慌てたように首を横へ振り、片手を上げた。
「いえ、違います。近くの村で拾って、ここまで乗せてきただけです。旅の間も特に問題はありませんでしたし、入れてもいいんじゃないですかね」
商人はそう説明しながら、兵士と長く目を合わせないようにわずかに肩を縮めた。兵士は再びカイロへ視線を戻す。特に奇妙な反応を示している様子はない。以前の村の住民たちとは違い、誰も後ずさったり、怯えた様子を見せたりしていなかった。そのことにカイロは少しだけ安心していた。もしかすると、自分が村で見た反応を大げさに考えていただけなのかもしれない。これほど大きな都市なら、自分のように奇妙な姿をした者や、強い力を持った者も珍しくないのだろう。頭上に浮かぶ黒い王冠も、長い黒髪も、暗い色の着物も、ここではそれほど目立つものではないのかもしれない。実際、道中でも獣の耳を持つ者や奇妙な鎧を着た者、さまざまな種族を見かけていた。そう考えていると、兵士が再び口を開いた。
「冒険者ギルドのカードは持っているか?」
兵士は片手を差し出しながら尋ねた。カイロはゆっくりと首を横に振り、着物の袖へ手を入れてから、本当に何もないことを確認するように少しだけ探った。そして空の手を取り出し、そのまま身体の横へ下ろす。
「ない」
兵士はわずかに眉をひそめた。
「商人、貴族、それとも帝国の住民であることを証明する書類は?」
兵士は少し身を乗り出しながら続けた。カイロは再び首を横に振る。
「それもない。もう一回探したほうがいいなら探すけど」
その言葉に兵士は数秒間カイロを見つめ、それから小さくため息を吐いて手を下ろした。
「そこまでする必要はない」
「そうか」
カイロは特に気にした様子もなく頷いた。兵士はそんな彼を見ながら、少しだけ肩の力を抜く。
「では、どこかのギルドに登録してもらう必要がある」
「ギルド?」
カイロが首を傾げると、兵士は街の内部を親指で指した。
「帝国内には、外国から来た者でも数日間なら滞在できる。ただし、ここに残るつもりならギルドカードを取得してもらう。帝国の領内で暮らしたり働いたりする外国人は登録されていなければならない。期限は一週間もない。それまでに有効なカードを提示できなければ、帝国から出てもらうことになる」
兵士は一本の指を立て、規則を強調するように話した。
「仕事をするつもりでも、旅をするつもりでも、ただ滞在するだけでも規則は同じだ」
カイロは話を聞きながら顎へ手を添え、ゆっくりと頷いた。
「つまり、カードを手に入れればいいんだな」
「その通りだ」
兵士はようやく理解したことを確認して、少しだけ表情を緩めた。
「それを手に入れれば、ここにいてもいいのか?」
カイロがわずかに首を傾げると、兵士は頷いた。
「そうだ」
「分かった。じゃあ、問題ないな」
カイロは満足そうに小さく笑った。兵士は数秒間、そんな彼を見つめていた。おそらく、もう少し深刻な反応をすると思っていたのだろう。しかしカイロはすでに街の中へ視線を戻している。ギルドを見つけてカードを取得すればいい。それだけなら、そこまで難しいことではない。そう考えながら歩き出そうとした、そのときだった。カイロはふと兵士たちへ視線を戻した。やはり誰も自分を恐れていない。村では自分を見るだけでほとんどの人間が逃げ出していたのに、ここの兵士たちは自分を危険人物だとは考えていないようだった。帝都の人間は強者を相手にすることに慣れているのかもしれない。あるいは、頭上に浮かぶ黒い王冠も、この世界ではそれほど珍しくないのだろう。そんなことを考えながら、カイロは何気なく手を上げ、頬を軽く掻いた。
その瞬間、空気が変わった。
カイロ自身には何の自覚もなかった。ただ頬を掻いただけだった。しかし、その身体から凄まじい圧力が放たれ、目に見えない何かが周囲へ一気に広がっていく。まるで空気そのものが押し潰されるような強大な気配が、門の周辺を覆い尽くした。兵士たちの顔から一瞬にして血の気が引く。一人が驚愕の表情を浮かべながら後退するが、その足は激しく震え始め、身体を支えきれなくなった。男はその場へ膝をつき、倒れ込まないよう両手を地面へつく。別の兵士も後退しようとしたものの、自分の足につまずいて背中から倒れ、荒い呼吸を繰り返していた。そして、カイロの正面に立っていた兵士も、それまで保っていた冷静な表情を完全に失っていた。
「な……なんだ……これは……?」
兵士は息を切らしながら呟き、恐怖に染まった目でカイロを見つめた。カイロは瞬きをする。兵士を見る。次に自分の手を見る。そして、もう一度兵士へ視線を戻した。
「どうした?」
カイロは本当に不思議そうな表情を浮かべながら、ゆっくりと手を下ろした。兵士は答えようとした。しかし、声が出ない。唇が震え、立ち上がろうとしても足が言うことを聞かなかった。カイロは周囲の兵士たちへ視線を向ける。全員が似たような状態だった。誰も自分へ近づくことができない。そして数秒後、それまで周囲を覆っていた圧力は、現れた時と同じように突然消え去った。カイロは地面へ座り込んでいる兵士たちを見つめながら、何が起こったのかを考える。しかし、やはり分からない。ただ、これが以前村で起きたことと同じ現象だということだけは理解できた。
「また……か」
カイロは顎へ指を当て、わずかに眉を寄せた。
「もしかして、俺の手が原因なのか?」
その光景を馬車の上から見ていた商人は、目を大きく見開いたまま完全に固まっていた。何かを言おうと口を開きかけたものの、結局何も言えず、唾を飲み込んで手綱を強く握りしめる。カイロはそんな商人へ顔を向けると、不思議そうに首を傾げた。
「あなたも大丈夫?」
「だ……大丈夫です……」
商人は無理やり笑顔を作りながら答えた。しかし、その笑顔は明らかに引きつっている。カイロはしばらく彼の顔を見つめ、それから小さく首を傾げた。
「そうは見えないけど」
商人は答えなかった。代わりに、すぐさま馬車を走らせた。カイロは遠ざかっていく馬車を見つめながら、何度か瞬きをする。
「変なの……」
そう呟きながら、再び頬を軽く掻いた。今考えても分からないことを、いつまでも考えていても仕方がない。いつか分かるだろう。そう判断したカイロは肩をすくめ、そのまま帝都の入口へ向かって歩き始めた。
しばらくして、カイロは完全に商人と別れ、一人で帝都の大通りを歩いていた。城壁から少し離れたところまで進むと、そこには想像していた以上の光景が広がっていた。通りには食べ物を売る屋台、武器屋、鍛冶屋、小さな飲食店、そして見たこともない物を売る店が並んでいる。人々の数も多く、あちらこちらから会話や笑い声が聞こえてきた。カイロは数分歩くたびに足を止め、何か新しいものを見つけるたびに興味深そうに眺めていた。紫色をした見たことのない果物を売っている屋台では、それが甘いのか酸っぱいのか気になって数秒間立ち止まり、巨大な剣を背負った男を見つければ思わず目を見開いた。その少し先には色とりどりのポーションを並べた店まであり、カイロはショーウィンドウへ近づきすぎて、今にも顔をガラスへぶつけそうになりながら中を覗き込んだ。
「本当に効果があるのか?」
青い液体の入った瓶を眺めながら、カイロは小さく呟いた。近くを通った男が不思議そうに彼を見るが、カイロはすでに別の場所へ興味を移していた。弓や剣を持った者、大きな荷物を運ぶ商人、全身を重厚な鎧で包んだ者、そして複数の冒険者と一緒に歩いている者たち。日本では決して見ることのできなかった光景が、そこら中に存在している。その中でも、カイロの足を完全に止めたものがあった。一人の女性が、普通の人間とは明らかに異なる長く尖った耳を持って歩いていたのだ。カイロの目がわずかに輝く。
「エルフ……?」
思わず小さな声を漏らしながら、カイロはその女性を目で追った。見すぎないようにしようと思ったものの、結局好奇心には勝てない。数秒間その耳を眺めたあと、カイロは再び歩き始めた。それでも最後に一度だけ振り返り、女性が遠ざかっていく姿を見送った。どうにも不思議な感覚だった。異世界へ転移した主人公、巨大な都市、冒険者ギルド、商人、騎士、魔法、魔物、そしてさまざまな種族。これまで見たり読んだりした物語と、あまりにも似ている。違うのは、今、自分自身がその物語の中にいるということだった。カイロは興奮すべきなのか、驚くべきなのか、それともただ受け入れればいいのか分からなかった。しかし、少なくとも怖くはない。むしろ、面白い。そんな気持ちが、自然と小さな笑みになって顔へ浮かんでいた。
日本での生活は、とても単純で退屈なものだった。勉強をして、食事をして、眠り、そして翌日も同じことを繰り返す。長い間、特別なことは何も起こらなかった。しかし今は違う。角を曲がるたびに新しいものが見つかる。森には魔物がいて、人間は手から魔法を放ち、エルフが普通に街を歩いている。カイロはまだ、この世界がどのような仕組みで動いているのか理解していない。だからこそ、もっと知りたいと思った。もしかすると、この新しい人生は自分にとって一つの機会なのかもしれない。何をしたいのかはまだ分からない。けれど、少なくとも以前の退屈な日々からは完全に抜け出した。それだけは確かだった。そう考えながら歩いていると、カイロはついに一つの大きな建物を見つけた。入口の上には巨大な剣と盾の紋章が掲げられている。そして、その下には冒険者ギルドであることを示す看板があった。
カイロは建物の前で立ち止まり、巨大な紋章を見上げた。
「これが……噂のギルドか」
そう呟きながら、小さく笑う。少しだけ胸が高鳴っていた。これまで物語の中でしか見たことのなかった冒険者ギルドが、今は自分の目の前に存在している。カイロはそのまま扉へ手を伸ばし、少しだけ力を込めて押し開けた。
中へ入った瞬間、予想していた以上の騒がしさが彼を迎えた。いくつものテーブルには冒険者たちが座り、酒を飲みながら会話している者もいれば、何かの依頼について真剣に話し合っている者もいる。受付の前には何人もの人々が並び、重い鎧を身につけた者、ローブを着た者、弓を背負った者など、さまざまな装備をした人間が集まっていた。笑い声、議論する声、そして冒険の成功を祝っているらしい者たちの声が混ざり合い、外の街とはまったく違う空気がそこにはあった。カイロは興味深そうに周囲を見回し、首を動かしながら一つ一つの光景を目に焼き付けていく。ここにいる人間は、本当に全員冒険者なのだろうか。そんなことを考えながら受付へ近づくと、茶色の髪をした受付嬢が顔を上げた。彼女はカイロを見ると、目の前に置いていた書類を素早く整え、職業的な笑顔を浮かべた。
「ようこそ、ラインシャルド冒険者ギルドへ! こちらは初めてですか?」
受付嬢はそう尋ねながら、ペンを机へ置いて両手を軽く合わせた。カイロは頷きながら肩越しにギルド内を見回す。
「うん。みんな冒険者なのか?」
そう尋ねながら周囲へ視線を向けると、受付嬢も彼の視線を追って小さく笑った。
「ほとんどがそうですよ」
彼女が軽く手を動かしてギルド内を示すと、カイロは再び周囲を眺めた。
「思っていたより面白そうだな」
そう呟きながら、カイロの目が少しだけ輝く。受付嬢は再びペンを手に取った。
「では、登録のお手伝いをします。冒険者になりたいということでよろしいですか?」
新しい紙を用意し、ペン先をそこへ置きながら尋ねる。カイロは一瞬だけ考え、紙を見つめた。
「たぶん」
そう答えながら、わずかに肩をすくめる。受付嬢の手が止まり、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「……『たぶん』?」
「うん。やってみたいんだ。冒険者ってなったことがないから」
カイロが落ち着いた様子で答えると、受付嬢は小さく笑い、口元へ手を添えた。
「普通は『世界で一番強い冒険者になる!』って言って来る人が多いんですけどね。あなたみたいな答えをする人は初めてです」
「そういう目標はない。ただ、冒険者って何をするのか見てみたいんだ」
カイロは肩をすくめながら答えた。受付嬢は少しだけ彼を見つめたあと、再び笑顔を浮かべてペンを走らせる。
「まあ、少なくとも正直ではありますね」
登録に必要なのは、名前、出身地、年齢、そして職業などの簡単な情報だった。さらに、初期ランクを決定するための能力検査も受ける必要があるらしい。カイロは説明を聞きながら、時折ギルド内へ視線を向けていた。どうやら彼は、最高ランクを目指すことよりも、このギルドがどのように機能しているのかを知ることのほうに興味があるようだった。数秒ほど自分の名前について考える。この新しい世界へ来てから、自分がどのような名前を名乗るのかについて深く考えたことはなかった。しかし、一つだけ決めていたことがある。もし本当に新しい人生を始めるのなら、日本にいた頃とは違う名前を使いたかった。だからこそ、カイロは少しだけ考えたあと、静かに口を開いた。
「俺の名前は、カイロ・ヴァレン」
カイロがそう告げると、受付嬢はその名前を書き込み、それから少しだけ顔を上げた。
「カイロ・ヴァレン……? 綺麗な名前ですね。どこから来たんですか?」
その質問にカイロは数秒間黙った。視線を横へ向け、何と答えるべきか考える。そして最終的に、日本で暮らしていた国の名前をそのまま答えることにした。
「日本」
「……日本?」
受付嬢のペンがぴたりと止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、明らかに困惑した表情を浮かべる。
「うん」
カイロは何でもないことのように頷いた。
「その場所、聞いたことがありません」
彼女は眉を寄せ、ペンで机を軽く叩きながら記憶を探ろうとする。カイロは顎へ手を当てた。
「結構大きいよ」
「ラインシャルドよりも?」
受付嬢が驚いたように目を見開くと、カイロは数秒考えた。
「帝国全体より大きいかは分からない。でも、人はかなり多い」
そう答えながら手を曖昧に動かす。受付嬢は困惑したように彼を見つめた。
「そんなに遠い場所だから、ここの人を一人も知らなかったんですか?」
「たぶん。俺も少し前までは、ここの誰も知らなかったから」
カイロが小さく笑うと、受付嬢は小さく息を吐いて再び書類へ視線を戻した。
「なるほど……それなら納得です」
「何が?」
カイロが首を傾げると、受付嬢はペンを動かしながら答えた。
「例えば、あなたの話し方です」
そう言いながら、彼女は一本の指を立ててカイロを軽く指す。
「俺、変な話し方してる?」
カイロが少し目を見開くと、受付嬢は笑った。
「少しだけ」
カイロは数秒間その言葉を考え、やがて真剣な表情で頷いた。
「じゃあ、覚えないとな」
その反応に受付嬢は再び笑い、書類を書き終えると立ち上がった。
「それでは、あなたの能力を確認します」
そう言いながら、小さな木製の杖を取り出す。その先端には、完全に透明な水晶玉が取り付けられていた。
「これを数秒間持っていてください。水晶があなたのデータを読み取り、登録用紙へ直接送ります」
受付嬢が杖を差し出すと、カイロは手を伸ばして受け取った。
「これだけ?」
水晶をじっと見つめながら尋ねる。
「それだけです」
受付嬢が小さく頷くと、カイロはさらに水晶へ顔を近づけた。
「魔法?」
「はい」
受付嬢が答えると、カイロの目がわずかに輝いた。
「へえ……」
「魔法を見たことがないんですか?」
彼女が首を傾げると、カイロは静かに首を横へ振った。
「こういう形ではね」
そう答えながら、指の間で杖を軽く回す。
「そんなに動かさないほうがいいですよ」
受付嬢が慌てて手を伸ばすと、カイロはすぐに動きを止めた。
「あ、ごめん」
「そのままで大丈夫です」
受付嬢はそう言いながら、水晶へ視線を戻した。
水晶が淡い光を放ち始める。最初は弱かった光が、少しずつ強くなっていく。それと同時に、受付嬢の前に置かれた紙へ文字が浮かび上がっていった。名前、年齢、身体能力、魔力などの情報が次々と表示されていく。しかし、その速度は次第に異常なものへ変わっていった。受付嬢は最初こそ普通に確認していたものの、やがて目を見開き、紙へ顔を近づける。
「……ちょっと待ってください」
「どうした?」
カイロが首を傾げると、受付嬢は不安そうな表情で水晶と紙を交互に見る。
「これ……数値がこんな速度で上がってるんですか?」
「これも普通なのか?」
「普通じゃありません! 絶対に!」
受付嬢は声を上げながら後退した。水晶が激しく震え始める。カイロもわずかに目を見開いた。
「これ、放したほうがいい?」
「ダメです! 待ってください!」
「でも、なんか震えてるけど」
「だから待ってください!」
水晶から甲高い音が響き始める。受付嬢の顔が青ざめていく。
「これ……もしかして……」
「……」
カイロが水晶を見つめていると、受付嬢が小さく呟いた。
「爆発するんじゃ……」
その直後だった。
「ドンッ!」
水晶が爆発した。
数秒間、受付嬢は完全に固まっていた。小さな水晶の破片が一つ机の上へ落ち、ゆっくりと転がって彼女の目の前で止まる。カイロは壊れた杖を見下ろし、それから受付嬢へ視線を向けた。
「壊れた」
何事もなかったかのように呟きながら、カイロは杖を少し持ち上げる。
「はい……」
受付嬢は震える手で登録用紙を拾い上げた。
カイロは水晶の残骸を興味深そうに眺めたあと、少しだけ首を傾げる。
「もう一回やっていい?」
「ダメです!」
受付嬢は勢いよく顔を上げ、登録用紙を胸へ抱きしめるようにして叫んだ。
「分かった」
カイロは素直に手を下ろした。
受付嬢は深く息を吸い込み、どうにか落ち着きを取り戻そうとする。そして再び登録用紙へ視線を落とした。
「あなたのランクは……」
彼女は紙を指でなぞりながら呟き、しばらく沈黙したあと、ゆっくりと顔を上げた。
「ブロンズです」
「それが一番下?」
カイロが首を傾げると、受付嬢は信じられないという表情で目を見開いた。
「はい。一番下のランクです!」
「じゃあ、そこから始めるよ」
カイロは両手を着物の袖へ入れながら、何でもないことのように答えた。
受付嬢は両手を机へ叩きつけ、身を乗り出した。
「いいんですか!? 今、登録用の魔道具を爆発させたんですよ!?」
カイロは声の大きさに少しだけ後退し、困惑した表情を浮かべる。
「どうしろっていうんだ?」
そう言いながら、壊れた水晶を指差した。
受付嬢は口を開いた。しかし、何も言えない。しばらくして額へ手を当て、深いため息を吐いた。
「あなたが一体何者なのか、分からなくなってきました……」
「俺も分からない」
カイロは小さく笑いながら肩をすくめた。
やがて受付嬢はブロンズ色のカードを取り出し、まだ何かを理解しきれていないような表情のままカイロへ差し出した。
「こちらがあなたのギルドカードです。常に持ち歩いてください。帝国内での身分証明にもなりますし、依頼を受ける際にも必要になります」
カイロはカードを受け取り、目の前へ持ち上げて両面をゆっくり確認した。
「これが……冒険者カードか」
「はい」
「気に入った」
カイロはカードを大切そうにしまいながら満足げに笑った。
「カードが?」
受付嬢が少し面白そうに尋ねる。
「うん」
「それならよかったです」
受付嬢が笑いながら書類を整えると、カイロは依頼掲示板へ視線を向けた。そこには数多くの依頼が貼られていたが、ほとんどはブロンズランクの冒険者には難しそうなものだった。その中で、一つの簡単そうな依頼が目に入る。グラグの森で薬草を採取する依頼だった。カイロは掲示板へ近づき、その依頼書を手に取った。
「これにする」
そう言いながら依頼書を受付嬢へ見せる。
「最初の依頼としてはいいと思います。グラグの薬草を十本採取して持ち帰るだけです。報酬は銀貨十五枚ですね」
受付嬢が報酬額を指差すと、カイロの視線がそこへ止まった。
「銀貨十五枚……」
カイロは顎へ手を当て、自分のギルドカードと報酬額を交互に見る。そして小さな笑みを浮かべた。
「面白いことをして、お金まで稼げるんだな」
「まあ……そういうことになりますね」
「やる」
カイロはそう宣言しながら依頼書を丁寧に折りたたんだ。
「それでは、頑張ってください」
受付嬢は片手を上げながら見送る。
「それと、もうギルドの道具を壊さないでくださいね」
カイロは去ろうとしていた足を止め、肩越しに振り返った。
「わざとじゃない」
少し困ったような表情を浮かべながら答える。
「それが一番心配なんですけどね」
受付嬢は苦笑しながらカイロを見送った。
それからしばらくして、カイロは帝都を離れ、グラグの森へ続く道を歩いていた。城壁から遠ざかるにつれて人の数は少なくなり、やがて彼の周囲には巨大な木々だけが広がっていった。森は想像していたよりもずっと大きく、美しかった。巨大な木々が空へ向かって伸び、その根元には見たことのない色をした小さな花が咲いている。茂みの間を小さな生き物が走り抜け、鳥の鳴き声が森全体へ響いていた。カイロはゆっくりと歩きながら、一つ一つの景色を眺めていた。時々足を止めて木の幹へ触れたり、見たことのない花を眺めたり、茂みの中へ消えていく小動物を目で追ったりする。急ぐ必要はなかった。長い間、勉強ばかりしていた人生だった。そんな自分が今、異世界の幻想的な森を歩いている。それなら、少しくらい楽しんでもいいだろう。
「この場所……本当にすごいな」
巨大な木々の枝葉を見上げながら、カイロは小さく呟いた。何もかもが日本とは違う。建物も、車も、スマートフォンも、画面もない。そこにあるのは自然と動物、そして自分が知っていた常識では説明できない世界だけだった。空気さえも違って感じられる。カイロは深く息を吸い込み、笑みを浮かべながら歩き続けた。日本で過ごしていた頃の生活は、勉強をして、食事をして、眠り、翌日も同じことを繰り返すだけだった。机の上に積み重なった本、いつも見慣れていた部屋、変化のない日々。そんな過去を思い出しても、悲しさは不思議と湧いてこなかった。ただ、もう終わったことなのだと思った。今、自分の目の前には完全に未知の世界が広がっている。何が待っているのかは分からない。それでも、久しぶりに何かを知りたいと思った。
「これが……俺の新しい人生なのかもな」
カイロはそう呟き、少しだけ笑った。
その後、カイロは依頼書を取り出して薬草を探し始めた。数分ほど歩いたところで、岩の近くに青みがかった葉を持つ小さな植物を見つける。カイロはしゃがみ込み、依頼書に描かれている絵と目の前の植物を見比べた。
「これだ」
そう呟きながら、慎重に手を伸ばして薬草を採取する。少し先へ進めば、また一本。さらに木の根元にも一本。気づけば、すでに何本か集まっていた。カイロは集めた薬草を確認し、満足そうに笑う。
「あと少しだな」
そう呟きながら、薬草を丁寧にしまった。
そのときだった。
「グルルル……」
低い唸り声が森の中へ響いた。
カイロは足を止め、ゆっくりと顔を上げる。
木々の間から、一匹の巨大な獣が姿を現した。
全身が真っ黒な毛で覆われた狼だった。
日本で見たどんな狼よりもはるかに大きい。赤く輝く瞳と、明らかに人間を襲うことを前提とした巨大な牙。その姿だけなら、普通の人間なら恐怖で足がすくんでもおかしくない。
しかし、カイロは恐れるどころか、むしろ興味深そうに目を輝かせた。
「狼?」
カイロは首をわずかに傾げながら、その巨体を上から下まで観察する。
「かなり大きいな」
狼が牙を剥き出しにする。
カイロはさらに首を傾げた。
「怒ってるのか?」
心から不思議そうに尋ねる。
狼は低い唸り声を上げた。
次の瞬間、その巨体が地面を蹴り、カイロへ向かって一直線に飛びかかった。




