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日本では、すでに数時間前から夜が訪れていた。しかし、その小さな部屋では、まだパソコンの明かりが消えることなく灯り続けていた。少年は長い間机の前に座り続けており、その周囲には開いたままの本や、びっしりと書き込みがされたノート、そして一日を通して少しずつ増えていった何枚もの紙が散らばっていた。一見すれば、彼は勉強に完全に集中しているようにも見えたが、実際にはそうではなかった。目はほとんど開いていられず、目の前に並ぶ文字に焦点を合わせるため、何度も瞬きを繰り返さなければならなかった。ほぼ一日中勉強を続けていたせいで、身体はすでに何時間も無視され続けていた休息を求め始めていた。それでも彼は、まるでもう何度も繰り返してきた普通の夜であるかのように、穏やかでどこか無関心な表情のままページをめくり続けていた。今やっていることに、特別に興奮するような要素は何もない。明日は試験があり、勉強する必要がある。だから勉強している。ただそれだけだった。それだけの理由があれば、彼はまだ起きていられた。


画面の隅に表示されている時計へ目を向けると、小さく息を吐いた。思っていたよりもずっと遅い時間になっている。机の上に置いてあったペンを手に取り、ノートにいくつか言葉を書き加えたものの、その直後には手を止めてしまった。ついさっき読んだばかりの内容が、もう正確には思い出せなかったからだ。同じページを数秒間じっと見つめた後、自分があまりにも長い間、何も先へ進めていなかったことに気づいた。


「……さすがに疲れたな……」そう呟きながら、少年は両手で目を擦った。


身体はほとんど横になれと訴えていたが、それでもまだ終わっていないことがいくつか残っていた。数秒ほど考えた末、本を閉じて朝に続きをやろうかとも思ったが、その場合どうなるかはよく分かっていた。今ここで眠ってしまえば、おそらく予定よりも長く眠ってしまい、勉強を終えられないまま試験を受けることになる。それは決して嬉しい状況ではなかったが、だからといって彼がそれほど気にしているわけでもなかった。これまでにも似たようなことは何度も経験してきたし、結局のところ、なんだかんだでいつも最後にはどうにかしてきたからだ。


再び目の前の本へ視線を戻し、少年は読み進めた。しかし数分もしないうちに、意識は少しずつ別の方向へ流れていった。インターネットで読んだ、いくつかの物語を思い出したのだ。死んだ人間が、目を覚ますと魔法の存在する異世界にいたという話。たいていの場合、そこには謎めいた女神が現れ、自分が事故で死んでしまったことを説明し、特別な能力を与えたうえで、何らかの使命を果たすため別の世界へ送り出す。かなり使い古された展開だとは思っていたが、それでも決して嫌いではなかった。むしろ、読んでいる分にはそれなりに面白い。


「もし俺がいつかそんなことになったら……たぶん、次に何が起こるかはもう分かるんだろうな」そう考えながら、少年は片手に頬を乗せた。


おそらく目の前には女神のような存在が現れ、ありえないほど強力な能力を与えられ、そして魔法に満ちた異世界へ送り出される。そんな会話さえ、簡単に想像できてしまった。奇妙だったのは、そんなことを考えているにもかかわらず、そこに特別な感情が湧いてこなかったことだ。今の人生から逃げたいわけでもなければ、何か特別な存在になりたいと夢見ているわけでもない。ただ、疲れていたせいで思いついただけの、何気ない考えだった。


部屋は静かなままだった。時計の針だけが淡々と進み続けている。少年は再びペンを手に取り、ノートへ文字を書き始めたが、その動きは次第に遅くなっていった。時折、頭が前へ落ちそうになり、そのたびに顔を上げて再び集中しようとする。やがて彼はペンを机の上へ置き、しばらくの間、目の前の画面をぼんやりと見つめた。


「五分だけ……」そう呟きながら、少年は机の上に両腕を置いた。


ほんの数分だけ目を閉じればいい。それからまた続ければいい。少なくとも、彼はそう思っていた。一晩中眠るつもりなどまったくなかった。むしろ数分後には目を覚まし、再び勉強を始めるだろうとかなり確信していた。ゆっくりと目を閉じると、パソコンのファンが回る音と、遠くの街からかすかに聞こえてくる物音だけが耳に残った。呼吸は少しずつ穏やかになっていく。そして何時間もの間、無視し続けていた疲労が、ついに彼の意識を保とうとする最後の抵抗さえも上回った。


痛みもなかった。奇妙な感覚もなかった。最後に家族の姿が浮かんだわけでもなければ、大切な思い出が蘇ったわけでもない。ただ、思考そのものが途切れた。身体は机の上で動かなくなり、目の前ではパソコンだけが変わらず明かりを灯し続けていた。誰も部屋へ入ってくることなく、時間だけが過ぎていく。外の世界から見れば、その夜には何の変化もなかった。しかし、彼の心臓が静かに鼓動を止めたその瞬間、まったく別の何かが始まっていた。本来なら最後の思考とともに消えるはずだった意識が、少しずつ身体から遠ざかっていく。恐怖はなかった。悲しみもなかった。何が起きているのか考える時間すらなかった。すべてが、完全な闇の中へと沈んでいった。


そして、彼は目を開けた。


最初に感じたのは、風だった。冷たい風が顔を撫で、額へ垂れた髪の毛をいくつか揺らしていく。数秒間、少年はその場から動かず、ここがどこなのかを理解しようとしていた。目を覚ませば、再びパソコンの画面や、本で埋め尽くされた机、あるいは自分の部屋の天井が見えるはずだった。しかし、そこには何もなかった。頭上に広がっていたのは、雲一つない鮮やかな青空。天井も、壁も、先ほどまでいた部屋の痕跡も存在していない。


ゆっくりと身体を起こし、周囲を見渡す。少年がいたのは山の頂上だった。周囲には巨大な岩がいくつもあり、その遥か下には、何キロメートルにもわたって広がっている巨大な森が見えた。空気もまるで違っていた。以前よりもずっと澄んでいて、冷たく、そして純粋だった。少年はしばらくその場に座ったまま、目の前にある光景を説明できる、もっとも合理的な理由を探していた。


「……夢?」空を見上げながら、そう考える。


それが一番簡単な答えだった。おそらく自分はまだ机に突っ伏したまま眠っていて、これは疲れた頭が作り出したただの幻なのだろう。


少年は立ち上がり、自分の身体を調べ始めた。そのとき、初めて何かがおかしいことに気づいた。服がなくなっている。代わりに身につけていたのは、青みがかった黒色の着物だった。上品でありながらかなりシンプルな作りで、袖や裾には暗い色の細かな装飾が施されている。足元には、見覚えのない草履まで履かされていた。しかし、それ以上に彼の注意を引いたのは髪だった。顔の前へ垂れている一房を指でつまみ、少年は数秒間それを見つめる。黒く、長く、そしてひどく乱れている。自分がこんな髪型をしていた記憶などなかった。


「……何だ、これ?」そう呟きながら頭へ手を伸ばした少年は、その瞬間、頭上に何かがあることに気づいた。


顔を上げると、頭から数センチほど離れた場所に、一つの王冠が浮かんでいた。暗い色をした王冠で、その表面には青みがかった装飾が施され、太陽の光をわずかに反射している。頭に乗っているわけではない。ただ、まるでそれが当然であるかのように、空中に静かに浮かんでいた。


少年は片手を伸ばし、試しに触れてみた。指先には冷たい感触が返ってくる。だが、王冠は落ちることも、位置を変えることもなかった。手を離しても、まるで何事もなかったかのように頭上に浮かび続けている。


「……これは、かなり変だな」そう考えながら、少年は王冠を見つめた。


どう見ても、それを浮かせている仕組みなど存在しない。それどころか、なぜ自分が着物を着ているのか、なぜ髪まで変わっているのかも分からなかった。少年は数歩歩き、岩の間に小さな水溜まりがあるのを見つけると、そこへしゃがみ込んで自分の顔を映してみた。水面に映った顔は、確かに人間だった。しかし、以前の自分とは違って見えた。どこか幼く、完全には見覚えのない顔立ちをしている。暗い瞳と長い黒髪が、乱れたまま顔の周囲を覆っていた。少年はしばらく自分の姿を見つめ、頭をわずかに動かしてみる。水面の反射も同じように動いた。それを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。


「やっぱり、これは夢だな」


そう結論づける。ほかに可能性が思いつかなかった。確かに、この場所には妙な現実感があった。それでも、すべてが自分の想像によって生み出されたものだと考えれば説明はつく。


目を覚ますまでの間、少し探索してみることにした。山頂にはこれ以上興味を引くものもなさそうだったので、少年は岩の間に自然にできた道を通り、山を下り始めた。ところが、下山には思っていた以上に時間がかかった。高度が下がるにつれて森はどんどん大きく見えるようになり、山頂からでは気づかなかったものまで見えるようになっていった。巨大な幹を持つ木々、その形すら日本では見たことのない葉、そして色とりどりの花。近づくたびに茂みの中へ素早く逃げていく、小さな動物たち。何度も足を止めてそれらを観察してしまうほど、そこには見慣れないものが溢れていた。夢にしては、あまりにも細部まで作り込まれている。風の冷たさも、足元の岩の感触も、長時間歩いたことで少しずつ蓄積していく脚の疲労さえも感じられた。それでも少年は気にしなかった。本当に夢なら、いつか目を覚ます。それだけのことだった。


数時間後、ようやく森へ辿り着いた。そこは静かな場所だったが、ときどき聞いたことのない鳥の鳴き声や、木々の間で枝が揺れる音が聞こえてくる。少年は特に目的地を決めることもなく、長い間歩き続けた。どこかに道がないか、人が住んでいる場所がないかを探していたのだ。しばらくすると、透き通った水が流れる小さな川を見つけた。しゃがみ込んで少し水を飲み、その流れを眺めていると、今度は腹の中から抗議するような音が響いた。


「腹、減ったな……」そう呟きながら、少年は腹部へ手を当てた。


これはさすがに問題だった。食べ物はない。自分がどこにいるのかも分からない。それどころか、どれほどの時間を歩いているのかさえ分からない。それでも森の中を進み続けていると、やがて彼の目に一つのものが映った。土でできた道だった。それは動物が通った跡には見えない。あまりにも真っ直ぐで、人や荷車が何度も通ったことで明確な道として残っていた。


少年はその道を長い間歩き続けた。やがて木々の間隔が少しずつ広がり、その向こうにいくつかの木造の建物が見えてきた。少年は足を止める。どうやら、村を見つけたらしい。遠くからでも小さな家々や畑、そして建物の間を歩く人々の姿が確認できた。山で目を覚ましてから初めて、ようやく自分が置かれている状況について答えを得られるかもしれないと思った。少年は少しだけ歩く速度を上げ、村へ近づいていく。しかし、村へ足を踏み入れた瞬間、予想もしなかったことが起きた。水の入った桶を運んでいた一人の女性が少年の姿を見つけ、その場で完全に動きを止めたのだ。


手から桶が落ち、地面にぶつかって大きな音を立てる。女性は恐怖に目を見開き、数歩後ずさると、そのまま叫び声を上げた。


「――あいつだ!」


その声を聞いた周囲の住民たちが、一斉に少年へ振り向く。数秒間、村全体が静まり返った。しかし次の瞬間、まるで誰かから同じ命令を受けたかのように、人々は一斉に走り出した。住民たちは自分の家へ逃げ込み、ある者はすぐさま扉を閉め、またある者は子供の腕を掴んで家の中へ引きずり込んでいく。道の途中に道具や荷物を置き去りにしたまま、隠れる場所を探して走っていく者までいた。少年はその場から動かず、困惑した表情でその光景を眺めていた。次々と扉の向こうへ消えていく住民たちを見た後、自分の身体へ視線を落とす。


「俺、何か変なものでも付いてるのか?」


両手や服を改めて確認してみるが、これほどまでに恐れられる理由はまったく思いつかなかった。もしかすると、見た目が変なのかもしれない。頭上に浮かんでいる王冠には、何か特別な意味があるのかもしれない。あるいは、ただ単にタイミングが悪かっただけなのかもしれない。少年には判断できなかった。数秒ほど考えた末、深く気にするのはやめた。彼らが自分を恐れているのなら、その理由もいずれ分かるだろう。そう考えながら、ほとんど人のいなくなった道を歩いていくと、その先にある家の扉がゆっくりと開いた。


中から出てきたのは、一人の老人だった。背中は少し曲がっており、歩くために杖を使っている。平静を装おうとしているようだったが、わずかに震える手がその緊張を隠しきれていなかった。老人はゆっくりと少年へ近づき、目の前まで来ると、敬意を示すように頭を下げた。


「旦那様……私の名はエルドラン。この村の創設者でございます。旦那様ほどのお方がこの村へお越しくださったこと、身に余る光栄にございます」


少年はわずかに眉を寄せ、意味が分からないというように老人を見つめた。


「俺ほどの……?」


エルドランは慎重に顔を上げた。その表情には、少年を刺激することへの警戒が浮かんでいる。


「はい、旦那様。これほどのお力を持つお方が、このような土地へ現れることは滅多にございません。旦那様の存在そのものが……かなりの威圧感を放っております」


少年はしばらく黙った。頭上に浮かぶ王冠を見上げ、それから自分の服へ視線を落とす。そして再び老人へ目を向けた。


「だから、みんな逃げたのか?」


少年が尋ねると、エルドランはゆっくりとうなずいた。


「はい、旦那様。普通の人間にも感じ取れるほどでございます。旦那様には……あまり近づかないほうがいいと思わせる何かがあるのです」


少年は数秒間考えた。そして、少し妙な結論へ辿り着いた。おそらく、自分の見た目が原因なのだろう。頭上に王冠が浮かび、見慣れない服を身につけているのだから、彼らからすれば何かの支配者や、相当に身分の高い人物に見えているのかもしれない。この土地の人々は貴族などと接することに慣れていて、単純に権力を持つ相手の機嫌を損ねることを恐れているだけなのだろう。


「じゃあ、俺が危なそうに見えるってことか」


少年がそう言うと、老人はすぐに何度もうなずいた。


「まさに、その通りでございます、旦那様」


少年は軽く肩をすくめた。自分がなぜ強者として扱われているのかについて、それほど興味はなかった。それよりも今の彼には、もっと重要な問題がある。何時間も何も食べずに歩き続けていることだ。ちょうどそのとき、腹が再びはっきりと音を立てた。それを聞いたエルドランが目を瞬かせる。


「食べ物、ある?」


少年が尋ねると、老人はあまりにも単純な質問だったことに驚いたように瞬きを繰り返した。


「も、もちろんでございます、旦那様。私どもに用意できる中で、最高の食事をご用意いたします」


そう言ってエルドランは少年を、一際大きく立派な小屋へ案内した。建物の壁には丁寧に手入れされた木材が使われ、いくつもの彫刻が施されている。それらはかなり古いものらしく、どこか特別な雰囲気を醸し出していた。中へ入ると、部屋の中央には大きな木製の椅子が置かれていた。背もたれは高く、細かな装飾まで施されている。その姿は、まるで簡素な玉座のようにも見えた。


「これ、座っていい?」


少年が椅子を指差すと、エルドランはすぐさま反応した。


「もちろんでございます、旦那様」


少年は特に気にすることもなく、その椅子へ腰を下ろした。思っていたよりも座り心地は悪くなかったが、この状況そのものには妙な違和感があった。少年が再び老人を見ると、エルドランはいつの間にか床へ直接座っている。


「他に椅子はないの?」


少年が尋ねると、エルドランは慌てたように首を横へ振った。


「必要ございません、旦那様」


少年はそれ以上、何も言わなかった。


しばらくすると、何人かの村人が料理を部屋へ運んできた。彼らが用意したものが、この村で出せる最高の食事であることは明らかだった。焼いた肉に焼きたてのパン、果物や野菜、チーズ、そして少年には見覚えのない飲み物まで並べられていく。少年はそのまま食事を始めた。長い旅の中で溜まっていた空腹のせいもあり、その料理は特に美味しく感じられた。数分間、少年は自分がどこにいるのか、なぜこんな場所にいるのかといったことを考えるのをやめ、ただ目の前の食事を楽しんだ。


「結構うまいな」


少年が食べ続けながらそう呟くと、床に座ったエルドランは緊張した表情のまま小さく頭を下げた。


「お気に召していただけたのであれば、何よりでございます、旦那様」


少年は出された料理のほとんどを食べ終え、最後に杯をゆっくりと傾けた。不思議なことに、これだけ奇妙なことが起きているにもかかわらず、気持ちは驚くほど落ち着いていた。これが本当に夢なら、心配する意味などない。そして、もし夢ではないのなら、まだ知らないことが大量に残っているというだけだ。少年は食器を机へ置き、改めて老人へ視線を向けた。


「ここは、正確にはどこなんだ?」


少年が尋ねると、エルドランは数秒考えてから答えた。


「ここはラインシャルド地方でございます、旦那様。この土地は、偉大なるラインシャルド帝国から数キロほど離れた場所にございます」


少年はその名前を頭の中で繰り返した。ラインシャルド。聞き覚えのない名前だった。


「帝国?」


そう尋ねると、エルドランはすぐにうなずいた。


「はい、旦那様。ラインシャルド帝国は、この地域でも有数の大きな領土を持つ国でございます。帝都はこの村からかなり離れておりますが、定期的にそちらへ向かう商人もおります」


少年は黙った。何もかもが分からない。この世界について知っていることなど、ほとんど何もなかった。


「日本って、知ってる?」


少年がそう尋ねると、エルドランは眉をひそめた。


「いいえ、旦那様。そのような名前は一度も聞いたことがございません」


少年は椅子へ背中を預け、数秒間目を閉じた。その答えは、さすがに無視することが難しくなってきた。もしこれが夢なら、自分の頭は今まで一度も知らなかった名前や場所、人間まで作り出していることになる。それも可能ではある。しかし、ここまで来ると少しずつ現実味が薄れてきていた。そんな少年の考え込んだ表情を見たエルドランは、すぐに一つの提案を口にした。


「もしラインシャルド帝国へお向かいになりたいのであれば、村を通る商人の一人に話をつけてみましょう。もしかすると、帝国までお連れしていただけるかもしれません」


少年は再び目を開き、ゆっくりとうなずいた。


「じゃあ、頼む」


翌朝、一台の荷馬車が商品を積んで村へやって来た。エルドランは商人と数分間話をし、少年を見た商人は明らかに怯えた様子で何度も彼を見返していたものの、最終的には少年を乗せることを了承した。少年は商人の反応を特に気にすることなく荷馬車へ乗り込み、窓の近くの席へ腰を下ろす。やがて荷馬車は村を離れ始めた。窓から外を見ると、何人かの村人が家の陰からこちらを見つめているのが分かった。エルドランも自宅の入り口に立ち、荷馬車が遠ざかっていくのを見ながら、軽く頭を下げている。少年はそれに気づくと、片手を上げて別れの挨拶をし、それから再び進行方向へ視線を戻した。ラインシャルド帝国への旅が、こうして始まった。


最初の数時間、商人はほとんど口を開かなかった。少年も特に話したい気分ではなかったため、窓の外に流れていく景色を眺めながら静かに座っていた。巨大な森が次々と後方へ流れていき、荷馬車は土の道や耕された畑、小さな川を越えて進んでいく。何もかもが、自分の知っている時代とは完全に異なっていた。自動車もなければ、近代的な建物も、電柱も、舗装された道路も存在しない。そこにあるのは荷馬車と動物、そして村の住民たちと似た服装をした人々だけだった。観察すればするほど、これがただの夢だと考えることは難しくなっていく。そんなとき、しばらく黙っていた商人が、ようやく少年へ声をかけた。


「旦那様……一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」


少年は景色から視線を外し、商人へ目を向けた。


「いいよ」


商人は少し迷ってから、慎重に口を開いた。


「旦那様は……貴族のお方なのでしょうか?」


少年は数秒ほど考えた。


「分からない」


その答えに、商人は完全に困惑した表情を浮かべる。


「……分からない、のでございますか?」


「うん」


少年があっさりと答えると、商人はそれ以上質問することを諦めた。


旅はそのまま何時間も続いた。やがて太陽が少しずつ沈み始め、空がオレンジ色へ変わっていく。少年は荷馬車の壁へ頭を預け、窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。山で目を覚ましてから、すでに一日以上が過ぎている。それでも、いったい何が起きたのかはまだ理解できていなかった。ふと、自分の部屋のことを思い出す。机、本、パソコン、そしてコーヒーの入ったカップ。眠りにつく直前に考えていたこと。そして、その後に訪れた暗闇。


それ以外には、何も覚えていない。いつ目を覚ましたのかも分からない。部屋から出た記憶もない。あの山へ辿り着いた記憶もない。そして初めて、それまで馬鹿げた可能性だと思っていた一つの考えが、少しずつ頭の中で形になり始めた。


「……俺、本当に死んだのか?」


その問いは、少年が道を眺め続ける間も頭の中に残り続けた。


恐怖はなかった。


悲しみもなかった。


ただ、不思議なほど穏やかな受け入れだけがあった。


もし本当に死んでいたのだとすれば、これまで起きたことの多くが説明できる。部屋へ戻れないことも、日本という名前を誰も知らないことも、別人のようになった身体も、着物も、王冠も、そして自分が目を覚ましたこの奇妙な世界も。少年は自分の手へ視線を落とし、数秒間黙り込んだ。もしかすると、自分は本当に別の世界へ送られたのかもしれない。もしかすると、これは昨夜、勉強をしながらぼんやりと想像していたことそのものなのかもしれない。あまりにも奇妙な偶然だったが、無視するには出来すぎていた。


荷馬車はそのまま道を進み続け、やがて地平線の向こうから暗闇がゆっくりと広がっていく。少年は顔を上げ、再び見知らぬ大地を眺めた。本当に別の世界へ連れてこられたのなら、ここがどのような場所なのかもまだ分からない。なぜ誰もが自分を恐れるのか、頭上に浮かんでいる王冠が何を意味するのかも知らない。そもそも自分にどんな力があるのか、それとも本当に何か特別な能力を持っているのかさえ分からなかった。今の彼にあるのは、ただ大量の疑問だけだった。しかし、そのどれもが彼を慌てさせるほどではない。なにしろ、自分はもう死んでいるのだから。少なくとも、少年はそう考え始めていた。


「まあ……着けば分かるか」


少年が小さく呟いても、商人から返事はなかった。


荷馬車は夜の闇に包まれていく道を、ラインシャルド帝国へ向かって進み続けていた。そして、はるか遠く――地平線の向こうに連なる山々のさらに先には、この帝国の中心となる巨大な都が存在していた。

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