月明かりの遠足、夜光虫は恋を急がせない ――しおかぜ、閉店後の浜辺へ
その夜の「しおかぜ」は、よく働いた。
黒糖プリンは昼過ぎに一度追加を出し、それでも夕方には完売した。観光客は「また来ます」と笑い、常連のおばあは「リョウちゃん、今日もよう動いたさぁ」と亮介を褒め、玲奈は厨房の奥で、いつも通り涼しい顔をしていた。
最後の客が帰る頃、空には大きな満月が出ていた。
帰り際、常連のおじいが店先でぽつりと言った。
「今夜は月がええ。浜に行けば、夜光虫が見えるかもしれんさぁ」
亮介の目が光った。
「夜光虫?」
「波打ち際が青く光ることがあるさぁ。毎晩じゃないけどね。見えたら、なかなか綺麗よ」
おじいが帰った後、亮介はすぐ玲奈を見た。
「行きましょう」
玲奈はカップを拭きながら即答した。
「明日の仕込みがあります」
「五分だけ」
「五分で行って帰れる距離ではありません」
「じゃあ十五分」
「距離の問題です」
亮介は諦めなかった。
閉店作業をいつもより早く終わらせ、コーヒーを小さなボトルに詰め、売り物には出せない形崩れの黒糖プリンを箱に入れる。
「遠足セットです」
玲奈は呆れたように見た。
「閉店後に遠足という概念を持ち込まないでください」
「でも、楽しそうでしょう?」
「……自然観察です」
「じゃあ自然観察セットで」
玲奈は返事をしなかった。
けれど、エプロンを外し、髪を整えた。
それは、行くという意味だった。
夜の島道を二人で歩く。
昼間の南ぬ島とは違う、静かな世界だった。草の匂い、潮の匂い、遠くの波音。満月は明るく、白い道を海へ向かって伸ばしていた。
浜へ着くと、月明かりが水面に銀色の帯を作っていた。
波は静かに寄せて返し、白砂は淡く光っている。
亮介は子どものように波打ち際へ近づいた。
「見えるかな」
玲奈は少し離れて言う。
「条件次第です」
「夢がないなあ」
「自然現象ですから」
その時、波が足元まで寄せた。
砂の上に、小さな青白い光がふっと浮かんだ。
亮介が息を呑む。
「光った」
また波が来る。
今度は、星屑を散らしたように、青い点がちらちらと揺れた。
派手ではない。
でも、静かな浜辺に浮かぶその光は、息をひそめたくなるほど綺麗だった。
玲奈も、少しだけ目を見開いた。
「ふーん……綺麗ですね」
亮介が笑う。
「それ、感動してる時の言い方?」
「しています」
「表情が控えめすぎる」
「仕様です」
二人は浜辺に座った。
亮介が箱を開け、黒糖プリンを差し出す。
満月の下で食べる黒糖プリンは、店で食べる時とは少し違う味がした。黒糖の甘さに、夜風の冷たさと、波音の静けさが混ざっている。
亮介が言う。
「夜営業、できるんじゃないですか。満月限定とか」
玲奈は即答する。
「却下です」
「早い」
「労働時間が増えます」
「月一回だけ」
「仕込みと片づけが増えます」
「夢がないなあ」
玲奈は少し黙った。
そして、月明かりの海を見たまま言った。
「営業ではなく、閉店後の小さな遠足なら……月に一度くらいは、検討します」
亮介の顔が明るくなる。
「かなり前向きですね」
「福利厚生です」
「誰の?」
玲奈は少しだけ間を置いた。
「主に、あなたの」
亮介は黙った。
その言葉が、やけに温かかったからだ。
「ありがとう」
玲奈は返事をしない。
ただ、風が少し強く吹いた時、ほんの少しだけ亮介の方へ肩を寄せた。
「寒いんですか?」
「風向きの問題です」
「そういうことにしておきます」
「そうしてください」
波打ち際で、また青白い光が揺れた。
亮介は過去を背負っている。
玲奈も、待つことでしか癒せなかった時間を抱えている。
けれど今夜だけは、返済も、帳簿も、店の仕込みも、少し遠くにあった。
ただ、満月。
夜光虫。
形の崩れた黒糖プリン。
そして、隣にいる人。
帰り道、亮介がぽつりと言った。
「今日、来てよかった」
玲奈はすぐ答える。
「明日の仕込みが遅れます」
「台無し」
少し歩いてから、玲奈が小さく付け足した。
「でも……来てよかったです」
亮介は笑った。
「相違ありません」
玲奈は横目で見た。
「勝手に使わないでください」
「嬉しかったので」
「なら、今回は許可します」
満月の光が、二人の影を島道に長く伸ばしていた。
「しおかぜ」は閉まっている。
けれど、その夜の二人の中では、小さな青い灯りがまだ消えずに残っていた。




