竹富島へ、遅すぎたデート未満 ――しおかぜ定休日、リョウさん八重山を学ぶ
「しおかぜ」の定休日は、玲奈にとって休みではない。
朝は家庭菜園の世話から始まる。島野菜サンドに使うオクラ、ミニトマト、島らっきょうの様子を見て、土を触り、雑草を抜く。天気がよければスキューバダイビングへ行くこともあるし、午後には店に並べるハンドメイド雑貨を作る。
玲奈の休日は、静かだが忙しい。
一方、亮介は暇だった。
地元のおじいに教わった釣りは楽しい。
だが毎回釣れるわけではない。
たまにパチンコへ行くこともあるが、玲奈の目が少し冷たくなるので、長居はしづらい。
ある夜、閉店後の「しおかぜ」で、亮介がぽつりと言った。
「俺、八重山のことをもっと知っておきたいんだよね」
玲奈はカップを拭く手を止めた。
「急に真面目ですね」
「しおかぜで働いてるのに、島のことを知らないままなのは、ちょっと違う気がして」
玲奈は少し考えた。
「では、竹富島へ行きましょう」
亮介が目を輝かせる。
「デートですか?」
「地域理解研修です」
「硬いなあ」
「定休日の業務外研修です」
「もっと硬くなった」
次の定休日、二人は石垣港離島ターミナルへ向かった。
朝のターミナルは活気がある。大きな荷物を持った観光客、島へ帰る人、船会社の案内放送、海風に混じるエンジンの匂い。そこへ、聞き覚えのある声が飛んできた。
「玲奈さん、リョウさん!」
振り返ると、若い男性の宮良拓海だった。
「しおかぜ」に時々やって来る、明るく礼儀正しい青年である。
「竹富ですか?」
「はい。地域理解研修です」
玲奈が答えると、拓海は笑った。
「玲奈さんらしい言い方ですね。リョウさん、今日は天気いいから最高ですよ。水牛車も気持ちいいし、集落歩くなら帽子あった方がいいです」
亮介は嬉しそうに頷いた。
「ありがとう、拓海くん」
「あと、帰ってきたら黒糖プリン食べに行きます」
「お待ちしています」
玲奈が静かに頭を下げる。
短い会話だったが、亮介はどこか嬉しそうだった。
「店の外で“リョウさん”って呼ばれるの、なんかいいね」
「島に馴染んできた証拠です」
船は石垣港を離れた。
海は穏やかで、朝の光を受けて銀色に揺れている。竹富島までは近い。けれど船が進むにつれて、石垣の街の輪郭が少しずつ遠ざかり、時間の流れが変わっていくようだった。
竹富島に着くと、空気がやわらかかった。
赤瓦の家並み。
白砂の道。
石垣に咲くブーゲンビリア。
ゆったり歩く人影。
観光地でありながら、暮らしの匂いがちゃんと残っている島。
亮介は、思わず足を止めた。
「近いのに、全然違うんだね」
「島ごとに時間があります」
「いい言い方だね」
「取材では使わないでください」
「はい」
二人は水牛車に乗った。
黒く艶やかな水牛が、ゆっくりと歩き出す。
車輪が白砂の道をやわらかく踏み、ぎしり、ぎしりと木の音がする。赤瓦の屋根の向こうに青空が抜け、石垣の花が風に揺れる。
ガイドが三線を爪弾くと、島の時間がさらに遅くなった。
水牛の背中は大きく、歩みは驚くほど穏やかだった。急がない。迷わない。ただ、決まった道を、確かめるように進んでいく。
亮介はその横顔を見て、少し黙った。
「なんか……いいね」
「何がですか」
「急がなくても、ちゃんと進んでる感じがする」
玲奈は水牛の背中を見つめた。
「あなたに必要な考え方ですね」
「刺さるなあ」
「事実です」
ガイドの歌声が、白砂の道に溶ける。
三線の音は派手ではない。けれど、赤瓦の家並み、南国の花、風の音、遠くの海の気配と混ざると、不思議と胸に残った。
亮介はぽつりと言った。
「俺たちも、こんな速度でいいのかな」
玲奈はすぐには答えなかった。
水牛車はゆっくり進む。
ふたりの間にも、急がない沈黙が流れる。
「いいと思います」
やがて玲奈は言った。
「急いで転ぶよりは」
「言い方」
「でも、本音です」
亮介は笑った。
「じゃあ、ゆっくり進みます」
玲奈は少しだけ目元を緩めた。
水牛車を降りたあと、二人は集落を歩いた。
白砂の道は、足音まで柔らかくする。石垣に積まれた琉球石灰岩、赤瓦の屋根の上のシーサー、庭先の花、遠くから聞こえる自転車のベル。竹富島は、観光の島でありながら、見せ物ではない暮らしの島でもあった。
亮介は何度も立ち止まった。
「ここで暮らす人たちは、観光客に見られる生活もあるんだね」
玲奈は頷く。
「だから、見る側にも礼儀が必要です」
「しおかぜも同じ?」
「ええ。店である前に、暮らしの一部です」
亮介はその言葉を、ゆっくり噛みしめた。
昼過ぎ、二人は木陰で冷たい飲み物を飲んだ。
亮介は白砂の道を眺めながら言う。
「竹富島、来てよかった。八重山って、ひとまとめに言えないね」
「少し分かりましたか」
「少しだけ」
「それで十分です。全部分かった気になると失礼です」
亮介は笑った。
「玲奈さんらしい」
「でも、知ろうとすることは大事です」
その言葉は、島のことだけではなかった。
亮介にはそう聞こえた。
帰りの船で、夕方の光が海に落ちていた。
亮介は外を眺めながら言う。
「また別の島にも行きたいな」
玲奈は少し考えた。
「次の定休日に検討します」
「かなり前向きですね」
「地域理解研修ですから」
「デートでは?」
玲奈は海を見たまま、少しだけ間を置く。
「……研修に、近いものです」
「近いもの?」
「分類は保留です」
亮介は笑った。
石垣港に戻る頃、海は金色になっていた。
「しおかぜ」は休みだった。
けれど二人は、店を続けるために、また少し島を知った。
遅すぎた恋は、今日もゆっくり進む。
水牛車のように、急がず、白砂の道を踏みしめながら。




