台風前夜、しおかぜは臨時食堂になる ――南ぬ島、寄り添いながら風を待つ
南ぬ島は、楽園の顔をしている。
青い空。
白い雲。
光る海。
道端に揺れるハイビスカス。
のんびり歩くおじいと、よく笑うおばあ。
けれど、その美しい島には、ときどき容赦のない風が来る。
数年に一度の巨大台風。
朝から空気が違っていた。
海の青はまだ綺麗なのに、風の奥に重さがある。鳥の声も少なく、遠くの雲は低く、島全体が何かを待っているようだった。
「しおかぜ」では、玲奈と亮介が朝から台風対策に追われていた。
玲奈は窓の鍵を確認し、棚の上の瓶を下ろし、店先の鉢植えを中へ入れる。亮介は外の木製看板を外し、飛ばされそうなベンチを倉庫へ運んでいた。
「リョウちゃん、台風なめたらだめさぁ」
通りかかった常連のおじいが声をかけた。
亮介は汗を拭きながら笑った。
「門司の港でも風は強かったですけど、これは別物ですね」
「南の台風は本気出すさぁ。油断したら看板どころか人も飛ぶよ」
「人もですか」
「気持ちは飛ぶさぁ」
「それはちょっと分かります」
玲奈が中から言う。
「会話している暇があったら、雨戸の確認をお願いします」
「はい」
「“喜んで”は禁止です」
「今日は言いません」
昼前になると、近所の人たちが次々に「しおかぜ」へ顔を出し始めた。
「玲奈ちゃん、ちょっと休ませて」
「買い出し帰りさぁ」
「水、重いからここで分けようね」
最初は、ただの休憩だった。
ところが一人が来ると、次の一人が来る。おばあが缶詰を置き、おじいが懐中電灯を出し、若い夫婦が赤ちゃん用の水を分け、近所の青年が電池を持ってくる。
気づけば「しおかぜ」のテーブルには、パン、缶詰、島野菜、飲料水、電池、携帯ラジオ、ガムテープ、タオルがずらりと並んでいた。
亮介は目を丸くした。
「これ、カフェですよね?」
玲奈は淡々と答える。
「少なくとも現在は、カフェ機能が低下しています」
常連のおばあが笑う。
「今日は島の臨時食堂さぁ」
「当店は臨時食堂としての営業許可を取っていません」
「玲奈ちゃん、そういう細かいところが好きさぁ」
玲奈は少し困った顔をしたが、結局、余った島野菜を刻み始めた。
「亮介さん、鍋を出してください」
「はい」
「大きい方です」
「臨時食堂、やる気ですね」
「食品ロス防止です」
「そういうことにしておきます」
玲奈は島オクラ、にんじん、冬瓜、玉ねぎを刻み、出汁を取った鍋に入れた。そこへおばあが持ってきた島豆腐が加わり、おじいの畑の青菜も入る。誰かが「うちの味噌も使って」と差し出し、誰かが「ジューシーおにぎりもあるさぁ」と包みを広げる。
いつの間にか、店内には温かい匂いが満ちた。
外では風が強くなり始めていた。
窓の向こうで木々がざわめき、遠くの海は低く唸っている。
それでも店内は明るかった。
亮介は水を配り、重い荷物を奥へ運び、腰の悪いおじいの椅子を引いた。玲奈は鍋を見ながら、手際よくスープをよそう。
「玲奈ちゃん、こんな時でも手つき綺麗さぁ」
「調理中ですから」
「リョウちゃん、皿運ぶの早くなったねぇ」
「鍛えられてます」
「玲奈ちゃんに?」
「主に」
「聞こえています」
笑いが起きた。
若い母親が、赤ちゃんを抱いたまま不安そうに外を見ていた。亮介がそっと声をかける。
「大丈夫です。雨戸も確認しましたし、停電してもライトあります。何かあれば俺、走ります」
玲奈がすかさず言う。
「台風中に走ってはいけません」
「では、歩きます」
「それも状況次第です」
母親が少し笑った。
「二人見てると、安心します」
玲奈は少しだけ目を伏せた。
「安心材料としては、まだ不十分です」
おばあが横から言う。
「十分さぁ。玲奈ちゃんとリョウちゃんがおるだけで、みんな落ち着くさぁ」
玲奈は返す言葉を探して、結局スープをよそった。
「温かいうちに食べてください」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
夕方になると、空は灰色に変わった。
風はさらに強くなり、店の外に置いてあった最後の鉢植えも中へ入れた。亮介と近所の青年が雨戸を固定し、おじいがロープの結び方を教える。
「リョウちゃん、そこ甘いさぁ」
「こうですか?」
「違う違う。風は遠慮せんよ」
「厳しいなあ」
「台風よりは優しいさぁ」
玲奈が確認しに来る。
「固定状況は?」
亮介が苦笑する。
「玲奈さん、完全に現場指揮官ですね」
「台風対策は段取りがすべてです」
「昔の仕事が出てますよ」
「役に立つなら問題ありません」
そして最後に、玲奈と亮介は店の外へ出た。
看板は外され、窓は守られ、鉢もベンチも中へ入った。いつも観光客を迎える「しおかぜ」は、今夜だけ小さな砦のようだった。
風が玲奈の黒髪を揺らす。
亮介が横で言った。
「いい島ですね」
玲奈は少しだけ驚いたように見た。
「台風前ですよ」
「それでも。みんな自然に集まって、自然に助け合う」
玲奈は店内を振り返った。
おばあが子どもにおにぎりを渡している。
おじいがラジオの電池を確認している。
若い夫婦が隣の老人の荷物をまとめている。
誰も大げさに感謝しない。誰も偉そうにしない。
ただ、当たり前のように手を貸している。
玲奈は静かに頷いた。
「だから、ここで店を開いたんです」
亮介はその横顔を見た。
玲奈は、強い人だ。
けれど、この島に来てからの玲奈は、強いだけではなくなった。
人に頼り、人に頼られ、少し照れて、少し笑う。
亮介はその変化を見るのが好きだった。
店内に戻ると、島野菜スープが配られていた。
「リョウちゃん、明日は片付け頼むよ」
おじいが言う。
亮介は反射的に言いかけた。
「はい、喜ん――」
玲奈の視線が飛ぶ。
「……承知しました」
店内が大笑いになった。
外では、いよいよ風が強くなっていた。
雨戸が低く鳴り、遠くで海が荒れる音がする。けれど「しおかぜ」の中には、スープの湯気と黒糖プリンの甘い匂いと、人が人を気にかける温度があった。
玲奈はカウンターの奥から、その光景を見ていた。
南ぬ島は楽園ではない。
台風も来る。停電もする。風は容赦ない。
けれど、だからこそ人は寄り添う。
美しい海だけではない。
強い風を一緒に待つ人たちがいるから、この島は美しい。
亮介が隣に立った。
「玲奈さん」
「はい」
「今日は、しおかぜが本当に島の店になった気がします」
玲奈は少し考え、短く答えた。
「前からです」
「そうですね」
「でも、今日は少しだけ……強くそう思います」
亮介は笑った。
「それ、いい言葉ですね」
「取材では使わないでください」
「駄目ですか」
「恥ずかしいので」
二人は並んで、店内を見た。
おばあが笑い、おじいがラジオを調整し、子どもがスープを飲み、誰かが誰かの荷物を気にしている。
台風前夜の「しおかぜ」は、カフェではなく、島の臨時食堂だった。
そして、玲奈と亮介は、その真ん中で静かに風を待っていた。
外の風は、さらに強くなる。
それでも店の灯りは、まだ消えなかった。




