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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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台風前夜、しおかぜは臨時食堂になる ――南ぬ島、寄り添いながら風を待つ

南ぬ島は、楽園の顔をしている。


青い空。

白い雲。

光る海。

道端に揺れるハイビスカス。

のんびり歩くおじいと、よく笑うおばあ。


けれど、その美しい島には、ときどき容赦のない風が来る。


数年に一度の巨大台風。


朝から空気が違っていた。

海の青はまだ綺麗なのに、風の奥に重さがある。鳥の声も少なく、遠くの雲は低く、島全体が何かを待っているようだった。


「しおかぜ」では、玲奈と亮介が朝から台風対策に追われていた。


玲奈は窓の鍵を確認し、棚の上の瓶を下ろし、店先の鉢植えを中へ入れる。亮介は外の木製看板を外し、飛ばされそうなベンチを倉庫へ運んでいた。


「リョウちゃん、台風なめたらだめさぁ」


通りかかった常連のおじいが声をかけた。


亮介は汗を拭きながら笑った。


「門司の港でも風は強かったですけど、これは別物ですね」


「南の台風は本気出すさぁ。油断したら看板どころか人も飛ぶよ」


「人もですか」


「気持ちは飛ぶさぁ」


「それはちょっと分かります」


玲奈が中から言う。


「会話している暇があったら、雨戸の確認をお願いします」


「はい」


「“喜んで”は禁止です」


「今日は言いません」


昼前になると、近所の人たちが次々に「しおかぜ」へ顔を出し始めた。


「玲奈ちゃん、ちょっと休ませて」


「買い出し帰りさぁ」


「水、重いからここで分けようね」


最初は、ただの休憩だった。


ところが一人が来ると、次の一人が来る。おばあが缶詰を置き、おじいが懐中電灯を出し、若い夫婦が赤ちゃん用の水を分け、近所の青年が電池を持ってくる。


気づけば「しおかぜ」のテーブルには、パン、缶詰、島野菜、飲料水、電池、携帯ラジオ、ガムテープ、タオルがずらりと並んでいた。


亮介は目を丸くした。


「これ、カフェですよね?」


玲奈は淡々と答える。


「少なくとも現在は、カフェ機能が低下しています」


常連のおばあが笑う。


「今日は島の臨時食堂さぁ」


「当店は臨時食堂としての営業許可を取っていません」


「玲奈ちゃん、そういう細かいところが好きさぁ」


玲奈は少し困った顔をしたが、結局、余った島野菜を刻み始めた。


「亮介さん、鍋を出してください」


「はい」


「大きい方です」


「臨時食堂、やる気ですね」


「食品ロス防止です」


「そういうことにしておきます」


玲奈は島オクラ、にんじん、冬瓜、玉ねぎを刻み、出汁を取った鍋に入れた。そこへおばあが持ってきた島豆腐が加わり、おじいの畑の青菜も入る。誰かが「うちの味噌も使って」と差し出し、誰かが「ジューシーおにぎりもあるさぁ」と包みを広げる。


いつの間にか、店内には温かい匂いが満ちた。


外では風が強くなり始めていた。

窓の向こうで木々がざわめき、遠くの海は低く唸っている。


それでも店内は明るかった。


亮介は水を配り、重い荷物を奥へ運び、腰の悪いおじいの椅子を引いた。玲奈は鍋を見ながら、手際よくスープをよそう。


「玲奈ちゃん、こんな時でも手つき綺麗さぁ」


「調理中ですから」


「リョウちゃん、皿運ぶの早くなったねぇ」


「鍛えられてます」


「玲奈ちゃんに?」


「主に」


「聞こえています」


笑いが起きた。


若い母親が、赤ちゃんを抱いたまま不安そうに外を見ていた。亮介がそっと声をかける。


「大丈夫です。雨戸も確認しましたし、停電してもライトあります。何かあれば俺、走ります」


玲奈がすかさず言う。


「台風中に走ってはいけません」


「では、歩きます」


「それも状況次第です」


母親が少し笑った。


「二人見てると、安心します」


玲奈は少しだけ目を伏せた。


「安心材料としては、まだ不十分です」


おばあが横から言う。


「十分さぁ。玲奈ちゃんとリョウちゃんがおるだけで、みんな落ち着くさぁ」


玲奈は返す言葉を探して、結局スープをよそった。


「温かいうちに食べてください」


その声は、いつもより少し柔らかかった。


夕方になると、空は灰色に変わった。

風はさらに強くなり、店の外に置いてあった最後の鉢植えも中へ入れた。亮介と近所の青年が雨戸を固定し、おじいがロープの結び方を教える。


「リョウちゃん、そこ甘いさぁ」


「こうですか?」


「違う違う。風は遠慮せんよ」


「厳しいなあ」


「台風よりは優しいさぁ」


玲奈が確認しに来る。


「固定状況は?」


亮介が苦笑する。


「玲奈さん、完全に現場指揮官ですね」


「台風対策は段取りがすべてです」


「昔の仕事が出てますよ」


「役に立つなら問題ありません」


そして最後に、玲奈と亮介は店の外へ出た。


看板は外され、窓は守られ、鉢もベンチも中へ入った。いつも観光客を迎える「しおかぜ」は、今夜だけ小さな砦のようだった。


風が玲奈の黒髪を揺らす。


亮介が横で言った。


「いい島ですね」


玲奈は少しだけ驚いたように見た。


「台風前ですよ」


「それでも。みんな自然に集まって、自然に助け合う」


玲奈は店内を振り返った。


おばあが子どもにおにぎりを渡している。

おじいがラジオの電池を確認している。

若い夫婦が隣の老人の荷物をまとめている。

誰も大げさに感謝しない。誰も偉そうにしない。

ただ、当たり前のように手を貸している。


玲奈は静かに頷いた。


「だから、ここで店を開いたんです」


亮介はその横顔を見た。


玲奈は、強い人だ。

けれど、この島に来てからの玲奈は、強いだけではなくなった。

人に頼り、人に頼られ、少し照れて、少し笑う。

亮介はその変化を見るのが好きだった。


店内に戻ると、島野菜スープが配られていた。


「リョウちゃん、明日は片付け頼むよ」


おじいが言う。


亮介は反射的に言いかけた。


「はい、喜ん――」


玲奈の視線が飛ぶ。


「……承知しました」


店内が大笑いになった。


外では、いよいよ風が強くなっていた。

雨戸が低く鳴り、遠くで海が荒れる音がする。けれど「しおかぜ」の中には、スープの湯気と黒糖プリンの甘い匂いと、人が人を気にかける温度があった。


玲奈はカウンターの奥から、その光景を見ていた。


南ぬ島は楽園ではない。

台風も来る。停電もする。風は容赦ない。

けれど、だからこそ人は寄り添う。


美しい海だけではない。

強い風を一緒に待つ人たちがいるから、この島は美しい。


亮介が隣に立った。


「玲奈さん」


「はい」


「今日は、しおかぜが本当に島の店になった気がします」


玲奈は少し考え、短く答えた。


「前からです」


「そうですね」


「でも、今日は少しだけ……強くそう思います」


亮介は笑った。


「それ、いい言葉ですね」


「取材では使わないでください」


「駄目ですか」


「恥ずかしいので」


二人は並んで、店内を見た。


おばあが笑い、おじいがラジオを調整し、子どもがスープを飲み、誰かが誰かの荷物を気にしている。


台風前夜の「しおかぜ」は、カフェではなく、島の臨時食堂だった。

そして、玲奈と亮介は、その真ん中で静かに風を待っていた。


外の風は、さらに強くなる。


それでも店の灯りは、まだ消えなかった。

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