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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

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ジャズシンガーは、苦いプリンを選ぶ

夕暮れ前の神戸は、少しだけ色気がある。


港の方から吹く風は湿っていて、古いビルの壁や石畳の路地に、昼間の熱を薄く残していく。旧居留地の方では革靴の音が乾いて響き、北野の坂道には観光客の声が残り、港に近づけば遠くで船の汽笛が低く鳴る。


純喫茶「霧笛」は、そんな神戸の午後が夜へ変わる手前に、いちばんよく似合う店だった。


磨き込まれた木のカウンター。

古い港の写真。

真鍮のランプ。

深煎りのコーヒーと、やや苦いカラメルの香り。

流行の明るさはない。けれど、時間が積もった店にしか出せない艶がある。


玲奈はその日も、黒いエプロンを結び、カウンターの中でカップを磨いていた。


まだ接客は不器用だった。

笑顔はぎこちない。

注文を取る声は少し硬い。

それでも、常連たちはもう分かっていた。

この新人ウェイトレスは無愛想だが、手を抜かない。

目つきは鋭いが、客の水が減る前に気づく。

言葉は少ないが、コーヒーはうまい。


夕方五時を少し回った頃、扉のベルが軽く鳴った。


入ってきたのは、派手な帽子をかぶった年配の女性だった。


黒のワンピースに、深い赤のスカーフ。

白髪はきれいに整えられ、唇には控えめな紅。

派手なのに下品ではない。

神戸の夜を、若い頃から知っている人の歩き方だった。


女主人が顔を上げる。


「まあ、律子さん。久しぶりやねえ」


女性はゆっくり笑った。


「まだ生きてたわよ、この店も、私も」


声に艶があった。

低く、少しかすれていて、それでも耳に残る声。

玲奈はすぐに、この人はただの客ではないと感じた。


女主人が紹介する。


「玲奈ちゃん、この人は昔、神戸のホテルラウンジやジャズ喫茶で歌ってはった人。律子さん」


律子は玲奈をじっと見た。


「あら、きれいな子。笑わないところまで神戸っぽいわね」


玲奈は一瞬だけ言葉を探す。


「ご注文は」


「そうね。ブレンドと、霧笛プリン。カラメルは苦いままにしてちょうだい。甘ったるいのは嫌いなの」


「承知しました」


玲奈はコーヒーを淹れ、プリンを皿に乗せた。

律子は窓際の席に座り、帽子を外して、港の方を見る。

夕暮れの光が、その横顔を淡く照らしていた。


最初の一口を飲むと、律子は目を細めた。


「いいわね。昔より少し硬い味がする」


女主人が笑う。


「玲奈ちゃんが淹れたんよ」


「なるほど。真面目な味ね」


玲奈は少しだけ眉を動かす。


「真面目な味、ですか」


「ええ。余計な媚びがない。コーヒーも人も、媚びると薄くなるのよ」


律子はプリンにスプーンを入れた。

固めのプリンが、静かに揺れる。

カラメルを絡めて口に運び、しばらく黙った。


「苦い」


女主人が言う。


「甘くしましょか」


「いいえ。この苦さがいいの。年を取るとね、甘いだけのものは信用できなくなるのよ」


その言葉が、玲奈の胸に少しだけ残った。


律子は、昔の神戸の話を始めた。


北野の坂道にあった小さなバー。

外国船の船員たちが立ち寄ったジャズ喫茶。

旧居留地のホテルラウンジ。

夜ごとにグラスが光り、煙草の煙が天井近くで揺れ、誰かがピアノを弾き、誰かが恋をして、誰かが明け方に一人で帰っていった時代。


「神戸の夜はね、昔から少し気取ってるの。でも、その気取りが悪くない。寂しさまでちゃんと飾ってくれる街なのよ」


玲奈は黙って聞いていた。


自分は、神戸の夜を任務の現場として見てきた。

尾行し、張り込み、誰かの嘘を見抜き、危険を探った。

けれど律子の語る神戸は違った。

同じ夜なのに、そこには音楽があり、恋があり、別れがあり、戻らない時間があった。


律子はプリンをもう一口食べる。


「私もね、一度だけ東京へ行ったの。歌で勝負したくて。若かったから、自分には何か特別なものがあると思ってた」


「歌手として、ですか」


玲奈が尋ねると、律子は笑った。


「そう。だけど、東京には私みたいな女が山ほどいたわ。少し歌えて、少しきれいで、少し不幸そうな女。そんなの、掃いて捨てるほどいた」


その笑いは乾いていたが、卑屈ではなかった。


「結局、私は神戸へ戻った。ホテルで歌って、バーで歌って、誰かの記念日や、誰かの失恋の横で歌った。それでよかったのよ。大きな夢には届かなかったけど、小さな夜はいくつも照らせたから」


玲奈は、その言葉を静かに受け止めた。


夢に届かなかった人。

けれど、夢を捨てたわけではない人。

形を変えて、自分の場所で歌い続けた人。


律子は、玲奈を見上げた。


「あんた、何かを辞めて、ここに来た顔をしてる」


玲奈は返事をしなかった。


「言わなくていいわ。カウンターに立つ女には、言わない過去が一つくらいあった方がいい」


女主人が苦笑する。


「律子さん、また格好つけて」


「年寄りは格好つけるくらいしか楽しみがないの」


律子はブレンドを飲み干し、プリンの皿を見た。


「このプリン、いいわ。苦いのに、最後は甘い」


玲奈は静かに言う。


「女主人のレシピです」


「いつか、あなたの味になるわ」


「私の味、ですか」


「そう。今はまだ、誰かの味を正確に守っているだけ。でもそのうち、あなたの傷や、待っている人や、諦めきれないものが少しずつ混ざる。そうなったら、ただのレシピじゃなくなる」


玲奈は言葉を失った。


待っている人。

その言葉で、亮介の顔が一瞬だけ浮かぶ。

そして、もっと遠い記憶の奥から、悠真の声もかすかに揺れた。


愛している。

真人間になって、もう一度あなたの前に現れてもいいですか。


玲奈は、カウンターの下で指先を軽く握った。


律子は立ち上がり、帽子を手にした。


「また来るわ。今度は夜に。ここは、夕方もいいけど夜が似合う」


「お待ちしています」


玲奈がそう言うと、律子は少しだけ嬉しそうに笑った。


「その言い方、まだ硬いわね。でも悪くない。あなた、笑わない方がいいわ。笑えない女が無理に笑うと、安く見えるから」


女主人が吹き出した。


「同じこと言うてるわ。私もこの子に笑顔はやめとき言うたんよ」


律子は扉の前で振り返る。


「けれどね、いつか本当に笑える時が来たら、その時は惜しまず笑いなさい。そういう笑顔は、店の灯りになるから」


扉のベルが鳴り、律子は夕暮れの神戸へ戻っていった。


店内には、コーヒーの香りと、プリンの苦いカラメルだけが残った。

外はもう夜に変わり始めている。港の方で、遠く汽笛が鳴った。


玲奈は律子の使った皿を下げながら、ふと思った。


カフェとは、ただ飲み物を出す場所ではないのかもしれない。

夢に届かなかった人が、少しだけ自分を許す場所。

誰かを失った人が、二杯目のコーヒーを残す場所。

恋人同士が言い合いをして、プリンで仲直りする場所。

そして、自分のような女が、過去を抱えたまま未来を練習する場所。


女主人がカウンターから声をかける。


「玲奈ちゃん、律子さんの言うこと、気にした?」


「少しだけ」


「ええこと言う時もあるんよ。だいたい格好つけやけど」


玲奈は皿を洗いながら、静かに答えた。


「格好つけも、悪くありません」


女主人は笑った。


霧笛の夜が始まる。

ランプの光は琥珀色に濃くなり、窓の外には神戸の港町らしい影が落ちていた。


玲奈は新しいカップを温める。

南の島のカフェで、いつか自分の味のプリンを出す日を思いながら。


甘いだけではない。

苦いだけでもない。

それでも最後に、少しだけ優しさが残る味を。

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