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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

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港の老紳士は、いつも二杯目を残す

純喫茶「霧笛」には、毎週木曜の午後三時になると、必ず同じ席に座る老紳士がいた。


白髪をきれいに撫でつけ、薄いグレーのジャケットを羽織り、磨かれた革靴で静かに店へ入ってくる。

港町の古い紳士、という言葉がそのまま服を着て歩いているような人だった。


彼はいつも、窓際の席に座る。

注文は決まっていた。


「ブレンドを二つ」


玲奈は最初、その注文を不思議に思った。

向かいの席には誰もいない。

それでも老紳士は、毎回二杯のコーヒーを頼む。

一杯目はゆっくり飲む。

二杯目には、ほとんど口をつけない。


警察官時代の癖で、玲奈は理由を考えようとした。

待ち合わせ。

認知症の初期症状。

あるいは、何かの合図。

そこまで考えて、カウンターの向こうの女主人に小さくたしなめられた。


「玲奈ちゃん、見張ったらあかん。あの人は、ただ座りに来てはるんよ」


その老紳士の名は、桐島征一郎。

かつて神戸港の船会社で役員を務め、港湾荷役や倉庫業にも顔が利いた人物だった。

女主人によれば、玲奈の父が経営していた岡本港湾サービスとも長い付き合いがあったという。


「玲奈ちゃんのお父さんとも、ようここで話してはったわ。港の仕事の話やら、天気の話やら、船の話やら。男の人らしい、短い会話ばっかりやけどね」


玲奈はその名を聞いて、手を止めた。

父の会社の名前を、霧笛のカウンターで聞くとは思わなかった。


次の木曜日、玲奈は桐島の前に二杯のブレンドを置いた。

一杯目は彼の正面に。

二杯目は、向かいの席の少し右側に。


桐島は、その置き方を見て、ほんのわずかに目を細めた。


「君は、岡本さんの娘さんやね」


玲奈は静かに頷いた。


「はい」


「お父さんには世話になった。あの人は、港の泥臭い仕事を、きれいに片づける人やった」


桐島は一杯目のコーヒーを口にした。


「二杯目は、妻の分でね」


それだけだった。

説明は短い。

だが、十分だった。


桐島の妻は、昔よく一緒に霧笛へ来ていたという。

今はもういない。

けれど桐島は、木曜の午後三時だけ、向かいの席に妻が座っている時間を過ごしに来る。

玲奈はそれ以上聞かなかった。

女主人の言葉を思い出したからだ。


見張るのではなく、迎える。


その日の桐島は、港の話を少しだけした。

かつて神戸港に外国船が多く入っていた頃のこと。

岡本港湾サービスの若い社員たちが、夜通し荷を捌いたこと。

玲奈の父が、荒っぽい現場の中でも誰にでも丁寧に頭を下げる男だったこと。


「君のお父さんは、港に似合う人やった。潮風に削られても、芯は錆びん人やった」


玲奈は礼を言った。

声はいつも通り低かったが、胸の奥に小さな波が立っていた。


その帰り際、桐島は二杯目を残したまま、いつものように席を立った。


「ごちそうさま。今日の二杯目は、少し温かかった」


玲奈は何も言えなかった。


閉店後、玲奈は磨き終えたカップを棚に戻しながら、ふと悠真のことを思い出していた。


悠真。

玲奈がまだ今ほど冷たくなる前に、恋人だと思っていた男。

本当は黒鷹側から送り込まれたスパイだった。

近づいてきた理由は嘘だった。

最初から仕組まれた出会いだった。


それでも、すべてが嘘だったとは思えなかった。


任務のために玲奈を見ていた男が、いつの間にか玲奈自身を見ていた。

玲奈もまた、敵の影を持つその男に惹かれてしまった。

最期の瞬間、悠真は玲奈を庇い、事故に巻き込まれた。


あの時、彼が言った言葉だけは、今も耳に残っている。


「愛している」


それが償いだったのか。

本心だったのか。

死を前にした男の弱さだったのか。

玲奈は、いまだに答えを知らない。


亮介の言葉も、悠真の言葉も、玲奈の中ではまだ終わっていなかった。

真人間になって戻りたいと言った男。

愛していると言って死んだ男。

どちらも、玲奈の人生に深い傷を残した。


けれど、桐島の二杯目のコーヒーを見て、玲奈は少しだけ分かった気がした。


人は、いなくなった相手の席を、心の中に残してしまう。

たとえ二度と戻らないと知っていても、その席を片づけられないことがある。


その夜、玲奈は霧笛を出たあと、車を六甲山へ向けた。


夜景の光が、神戸の街を遠くに沈めていた。

山道を上がるにつれ、街のざわめきは消え、冷たい風だけが窓を叩いた。

事故現場に近づくほど、玲奈の胸の奥にしまい込んでいた古傷が、静かに痛み出す。


六甲山の闇の中で、玲奈は車を停めた。


ここで悠真は死んだ。

ここで玲奈の中の何かも、一度死んだ。


だが、霧笛のカウンターで老紳士が二杯目のコーヒーを残すように、玲奈もまた、ずっと向かいの席を空けたままだったのかもしれない。


玲奈は夜風の中で、しばらく目を閉じた。


愛している。

真人間になって、もう一度あなたの前に現れてもいいですか。


二つの声が、遠い霧笛のように重なって聞こえる。

玲奈はそのどちらからも逃げないことにした。


南の島で店を開く前に、まずこの山で、自分の古傷と向き合わなければならなかった。

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