清楚なレポーター、恋人の前では少しだけ面倒くさい
純喫茶「霧笛」の午後は、いつもより少しだけ明るかった。
神戸港に近い古い路地。
磨き込まれた木のカウンター。
壁に飾られた古い港の写真。
琥珀色のランプ。
深煎りのコーヒーの香りと、やや苦めのカラメルが漂う店内で、岡本玲奈は白いブラウスに黒いエプロンを着け、いつものように無駄のない動きでカップを並べていた。
そこへ、扉のベルが軽く鳴った。
入ってきたのは、三好さつきだった。
長い黒髪がよく似合う、清楚で背の高い女子大生。女子アナ志望で、県域放送局・神戸放送の情報番組ではレポーターも務めている。戦隊ヒロインとしても人気があり、テレビ映りのいい上品な笑顔は、イベント現場でもよく目を引いた。
ただし、この日は完全にプライベートだった。
隣には、清潔感のある理知的な青年がいる。眼鏡の奥の目は穏やかで、話しぶりからどうやら医大生らしい。
玲奈は二人を見て、少しだけ目を細めた。
「いらっしゃいませ」
「玲奈さん、本当にこちらで働いてはるんですね」
さつきが微笑む。
テレビで見る顔より、少し柔らかい。
仕事ではない顔だった。
「現在は修行中です。ご注文は」
玲奈はいつもの調子で伝票を構える。
彼氏はブレンドを、さつきは紅茶と霧笛プリンを注文した。
最初の会話は、実に落ち着いていた。
医学部の実習の話。
神戸放送でのロケの話。
将来の進路の話。
互いに忙しさを分かち合うような、知的で穏やかな会話だった。
玲奈はカウンターの中でコーヒーを淹れながら、少しだけ感心していた。
恋人同士というものは、こういう風に会話するのか。
そう思った矢先、空気が微妙に変わった。
きっかけは、青年の何気ない一言だった。
「さつき、最近レポーターの仕事忙しそうやな。無理してない?」
気遣いの言葉のはずだった。
だが、さつきの眉がわずかに動いた。
「それ、私が無理してるように見えるってこと?」
青年はすぐに首を振る。
「いや、そういう意味じゃなくて。心配してるだけや」
「心配って言い方、便利やね」
「便利って何や」
「私の仕事を軽く見てるように聞こえる時があるんよ」
「そんなこと言ってへんやろ」
「言ってへんけど、顔に出とる」
「顔まで診断されても困る」
「医大生やのに表情管理もできへんの?」
「それ医学関係ある?」
霧笛の静かな午後に、小さな痴話喧嘩が始まった。
玲奈は、水を注ぎに行こうとして足を止める。
犯罪者の嘘は見抜ける。
尋問ならできる。
裏金の流れも追える。
けれど、恋人同士の言い合いには、どこから入ればいいのか分からない。
彼氏は彼氏で、本当に心配している。
さつきはさつきで、心配してほしいくせに、仕事を軽く見られるのは嫌なのだろう。
どちらも完全には悪くない。
だから余計に面倒だった。
「そもそもこの前も、私のロケ先聞いてへんかったやろ」
さつきが少しだけ阿波の響きを滲ませる。
「聞いてた。須磨やろ」
「それ先週。今週は明石」
「……ああ」
「ほら、聞いてへん」
青年は沈黙した。
玲奈も沈黙した。
カウンターへ戻った玲奈は、小声で女主人に言う。
「状況が複雑です」
女主人は苦笑した。
「玲奈ちゃん、これくらい普通の恋人同士や」
「普通なのですか」
「普通や。むしろ平和な方やね」
玲奈はさらに困惑する。
これが普通なら、恋人同士というものは相当難しい。
女主人は何もなかったように二人の席へ向かった。
霧笛プリンを置き、紅茶とコーヒーの位置を少し整えながら、穏やかに言う。
「若い人はええねえ。言い合えるうちは、まだ仲ええ証拠や」
二人は気まずそうに黙る。
「でもな、せっかく玲奈ちゃんのプリン食べに来てくれたんやから、冷めんうちに食べなさい。喧嘩はプリンのあとでもできるやろ」
さつきが小さく笑った。
「……すみません」
青年も頭を下げる。
「お騒がせしました」
二人はプリンを一口食べた。
やや苦いカラメルと、卵の甘さが口の中でほどける。
言葉でこじれた空気が、少しずつほどけていくのが見えた。
「これ、うまいな」
青年が言う。
「ほんまやね。玲奈さん、すごいです」
さつきも素直に笑った。
玲奈は短く答える。
「店の名物です」
女主人はカウンターへ戻りながら、玲奈に囁いた。
「恋人同士の話は、勝ち負けつけたらあかんのよ。間に甘いもん置いたら、だいたい少し落ち着く」
「勉強になります」
「また業務研修みたいに受け取ってるねえ」
女主人は呆れたように笑ったが、玲奈は真面目だった。
その時、玲奈の胸に、ふと亮介の顔が浮かんだ。
取調室で向かい合った男。
詐欺師だった男。
それでも、本気で愛してしまった男。
あの男とも、こんなふうに普通のことで言い合えたらよかったのかもしれない。
ロケ先の聞き間違いでも、甘いものを食べすぎることでも、コーヒーの濃さでも、どうでもいいことで少し拗ねて、少し謝って、最後にプリンを食べて笑う。
そんな時間を、自分たちは持てなかった。
そして、もう一人の顔が、遠い記憶の奥から浮かんだ。
悠真。
玲奈がまだ今ほど冷たくなかった頃、恋人だと思っていた男。
目の前で玲奈を庇い、事故に巻き込まれて帰らぬ人になった男。
彼とも、もっとくだらない喧嘩をしておけばよかった。
待ち合わせに遅れたとか、映画の好みが合わないとか、雨の日に傘を忘れたとか。
そんな取るに足らないことで言い合える時間が、どれだけ贅沢だったのか、失ってからしか分からなかった。
悠真は、玲奈の中でずっと静かな痛みだった。
亮介は、その痛みの上に落ちた別の傷だった。
ひとつは突然奪われた恋。
もうひとつは、自分で選んで傷ついた恋。
どちらも、玲奈を変えてしまった。
けれど目の前のさつきと青年は、今まさに普通の恋をしている。
少し面倒で、少し子どもっぽくて、でもちゃんと生きている恋だった。
玲奈は、それを少し眩しいと思った。
帰り際、さつきが申し訳なさそうに頭を下げた。
「玲奈さん、今日はすみません。完全にプライベートで来たのに、騒がしくしてしもうて」
彼氏も苦笑する。
「お恥ずかしいところを」
玲奈は首を振った。
「問題ありません。恋人同士としては通常範囲だそうです」
二人は一瞬きょとんとして、それから同時に笑った。
「玲奈さん、それ女将さんに聞いたんですか」
「はい」
「ほな、たぶん正しいですね」
さつきはそう言って、少し照れた顔で彼氏を見る。
彼氏も柔らかく笑い返した。
二人が店を出ると、霧笛にはまた静かな午後が戻ってきた。
カップの音。
新聞をめくる音。
港から届くわずかな風。
玲奈はカウンターの中で、霧笛プリンの皿を片づけた。
カラメルが少しだけ残っている。
苦くて、甘い。
それは恋に似ているのかもしれないと、玲奈は思った。
女主人が声をかける。
「玲奈ちゃん、何か考えとる顔やね」
「少しだけ、昔のことを思い出しました」
「そう」
女主人はそれ以上聞かなかった。
霧笛の優しさは、そこにあった。
玲奈は皿を洗い、カップを磨き、いつものように棚へ戻す。
南の島でいつかカフェを開くなら、こういう日もあるだろう。
恋人同士が言い合いをし、甘いものを食べて仲直りし、誰かが過去を少しだけ思い出す日。
亮介がもし帰ってきたら。
自分は、彼とそんな普通の時間を持てるのだろうか。
答えはまだ出ない。
ただ、霧笛の午後に漂うコーヒーの香りは、少しだけ玲奈の胸を柔らかくしていた。
恋は論理では片づかない。
事故のように奪われることもあれば、詐欺のように傷つくこともある。
それでも人は、どこかでまた誰かを待ってしまう。
玲奈は静かに湯を落とした。
次の客のために。
そして、いつか帰ってくるかもしれない男のために。




