表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/38

清楚なレポーター、恋人の前では少しだけ面倒くさい

純喫茶「霧笛」の午後は、いつもより少しだけ明るかった。


神戸港に近い古い路地。

磨き込まれた木のカウンター。

壁に飾られた古い港の写真。

琥珀色のランプ。

深煎りのコーヒーの香りと、やや苦めのカラメルが漂う店内で、岡本玲奈は白いブラウスに黒いエプロンを着け、いつものように無駄のない動きでカップを並べていた。


そこへ、扉のベルが軽く鳴った。


入ってきたのは、三好さつきだった。

長い黒髪がよく似合う、清楚で背の高い女子大生。女子アナ志望で、県域放送局・神戸放送の情報番組ではレポーターも務めている。戦隊ヒロインとしても人気があり、テレビ映りのいい上品な笑顔は、イベント現場でもよく目を引いた。


ただし、この日は完全にプライベートだった。

隣には、清潔感のある理知的な青年がいる。眼鏡の奥の目は穏やかで、話しぶりからどうやら医大生らしい。


玲奈は二人を見て、少しだけ目を細めた。


「いらっしゃいませ」


「玲奈さん、本当にこちらで働いてはるんですね」


さつきが微笑む。

テレビで見る顔より、少し柔らかい。

仕事ではない顔だった。


「現在は修行中です。ご注文は」


玲奈はいつもの調子で伝票を構える。

彼氏はブレンドを、さつきは紅茶と霧笛プリンを注文した。


最初の会話は、実に落ち着いていた。

医学部の実習の話。

神戸放送でのロケの話。

将来の進路の話。

互いに忙しさを分かち合うような、知的で穏やかな会話だった。


玲奈はカウンターの中でコーヒーを淹れながら、少しだけ感心していた。

恋人同士というものは、こういう風に会話するのか。

そう思った矢先、空気が微妙に変わった。


きっかけは、青年の何気ない一言だった。


「さつき、最近レポーターの仕事忙しそうやな。無理してない?」


気遣いの言葉のはずだった。

だが、さつきの眉がわずかに動いた。


「それ、私が無理してるように見えるってこと?」


青年はすぐに首を振る。


「いや、そういう意味じゃなくて。心配してるだけや」


「心配って言い方、便利やね」


「便利って何や」


「私の仕事を軽く見てるように聞こえる時があるんよ」


「そんなこと言ってへんやろ」


「言ってへんけど、顔に出とる」


「顔まで診断されても困る」


「医大生やのに表情管理もできへんの?」


「それ医学関係ある?」


霧笛の静かな午後に、小さな痴話喧嘩が始まった。


玲奈は、水を注ぎに行こうとして足を止める。

犯罪者の嘘は見抜ける。

尋問ならできる。

裏金の流れも追える。

けれど、恋人同士の言い合いには、どこから入ればいいのか分からない。


彼氏は彼氏で、本当に心配している。

さつきはさつきで、心配してほしいくせに、仕事を軽く見られるのは嫌なのだろう。

どちらも完全には悪くない。

だから余計に面倒だった。


「そもそもこの前も、私のロケ先聞いてへんかったやろ」


さつきが少しだけ阿波の響きを滲ませる。


「聞いてた。須磨やろ」


「それ先週。今週は明石」


「……ああ」


「ほら、聞いてへん」


青年は沈黙した。

玲奈も沈黙した。


カウンターへ戻った玲奈は、小声で女主人に言う。


「状況が複雑です」


女主人は苦笑した。


「玲奈ちゃん、これくらい普通の恋人同士や」


「普通なのですか」


「普通や。むしろ平和な方やね」


玲奈はさらに困惑する。

これが普通なら、恋人同士というものは相当難しい。


女主人は何もなかったように二人の席へ向かった。

霧笛プリンを置き、紅茶とコーヒーの位置を少し整えながら、穏やかに言う。


「若い人はええねえ。言い合えるうちは、まだ仲ええ証拠や」


二人は気まずそうに黙る。


「でもな、せっかく玲奈ちゃんのプリン食べに来てくれたんやから、冷めんうちに食べなさい。喧嘩はプリンのあとでもできるやろ」


さつきが小さく笑った。


「……すみません」


青年も頭を下げる。


「お騒がせしました」


二人はプリンを一口食べた。

やや苦いカラメルと、卵の甘さが口の中でほどける。

言葉でこじれた空気が、少しずつほどけていくのが見えた。


「これ、うまいな」


青年が言う。


「ほんまやね。玲奈さん、すごいです」


さつきも素直に笑った。


玲奈は短く答える。


「店の名物です」


女主人はカウンターへ戻りながら、玲奈に囁いた。


「恋人同士の話は、勝ち負けつけたらあかんのよ。間に甘いもん置いたら、だいたい少し落ち着く」


「勉強になります」


「また業務研修みたいに受け取ってるねえ」


女主人は呆れたように笑ったが、玲奈は真面目だった。


その時、玲奈の胸に、ふと亮介の顔が浮かんだ。


取調室で向かい合った男。

詐欺師だった男。

それでも、本気で愛してしまった男。

あの男とも、こんなふうに普通のことで言い合えたらよかったのかもしれない。

ロケ先の聞き間違いでも、甘いものを食べすぎることでも、コーヒーの濃さでも、どうでもいいことで少し拗ねて、少し謝って、最後にプリンを食べて笑う。

そんな時間を、自分たちは持てなかった。


そして、もう一人の顔が、遠い記憶の奥から浮かんだ。


悠真。


玲奈がまだ今ほど冷たくなかった頃、恋人だと思っていた男。

目の前で玲奈を庇い、事故に巻き込まれて帰らぬ人になった男。

彼とも、もっとくだらない喧嘩をしておけばよかった。

待ち合わせに遅れたとか、映画の好みが合わないとか、雨の日に傘を忘れたとか。

そんな取るに足らないことで言い合える時間が、どれだけ贅沢だったのか、失ってからしか分からなかった。


悠真は、玲奈の中でずっと静かな痛みだった。

亮介は、その痛みの上に落ちた別の傷だった。

ひとつは突然奪われた恋。

もうひとつは、自分で選んで傷ついた恋。


どちらも、玲奈を変えてしまった。


けれど目の前のさつきと青年は、今まさに普通の恋をしている。

少し面倒で、少し子どもっぽくて、でもちゃんと生きている恋だった。


玲奈は、それを少し眩しいと思った。


帰り際、さつきが申し訳なさそうに頭を下げた。


「玲奈さん、今日はすみません。完全にプライベートで来たのに、騒がしくしてしもうて」


彼氏も苦笑する。


「お恥ずかしいところを」


玲奈は首を振った。


「問題ありません。恋人同士としては通常範囲だそうです」


二人は一瞬きょとんとして、それから同時に笑った。


「玲奈さん、それ女将さんに聞いたんですか」


「はい」


「ほな、たぶん正しいですね」


さつきはそう言って、少し照れた顔で彼氏を見る。

彼氏も柔らかく笑い返した。


二人が店を出ると、霧笛にはまた静かな午後が戻ってきた。

カップの音。

新聞をめくる音。

港から届くわずかな風。


玲奈はカウンターの中で、霧笛プリンの皿を片づけた。

カラメルが少しだけ残っている。

苦くて、甘い。

それは恋に似ているのかもしれないと、玲奈は思った。


女主人が声をかける。


「玲奈ちゃん、何か考えとる顔やね」


「少しだけ、昔のことを思い出しました」


「そう」


女主人はそれ以上聞かなかった。

霧笛の優しさは、そこにあった。


玲奈は皿を洗い、カップを磨き、いつものように棚へ戻す。

南の島でいつかカフェを開くなら、こういう日もあるだろう。

恋人同士が言い合いをし、甘いものを食べて仲直りし、誰かが過去を少しだけ思い出す日。


亮介がもし帰ってきたら。

自分は、彼とそんな普通の時間を持てるのだろうか。


答えはまだ出ない。


ただ、霧笛の午後に漂うコーヒーの香りは、少しだけ玲奈の胸を柔らかくしていた。

恋は論理では片づかない。

事故のように奪われることもあれば、詐欺のように傷つくこともある。

それでも人は、どこかでまた誰かを待ってしまう。


玲奈は静かに湯を落とした。

次の客のために。

そして、いつか帰ってくるかもしれない男のために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ