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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

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霧笛の灯りを取り戻せ――小さすぎる任務、されど大問題

神戸港に近い路地は、夕方になると急に顔を変える。


昼間は古いビルの壁に潮風が当たり、錆びた看板もどこか懐かしく見える。けれど日が傾くと、細い道は港町の影を吸い込み、店の灯りだけが頼りになる。


純喫茶「霧笛」は、その路地の奥にあった。


こじんまりとした店だ。

磨き込まれた木のカウンター、アンティーク調の照明、壁に飾られた古い神戸港の写真。女主人が一人で切り盛りするその店には、流行りのカフェにはない、古い時間の重みがあった。


だが、その重みは時々、不便にもなる。


店先の看板灯は、もう何年も調子が悪かった。

点いたり消えたり、雨の日には完全に沈黙する。路地の入口にある共同案内板からは、いつの間にか「霧笛」の名前が消えていた。さらに隣の空きテナントの雨樋が壊れ、雨の日には店の入口前に水が流れ込み、小さな池みたいな水たまりを作る。


常連は来る。

場所を知っているからだ。


だが初めての客は、店の前を通り過ぎる。

暗い。

営業しているのか分からない。

雨の日は入りづらい。


女主人は、何度も管理会社や商店会に相談していた。


「そこはうちの管理じゃないですね」

「古い資料が残っていません」

「空きテナントのオーナーに確認中です」


確認中。

それは便利な言葉だった。

何もしない時に使える、柔らかい逃げ道だ。


玲奈は、その話を聞いた時、カウンターの中で動きを止めた。


白いブラウスに黒いエプロン。

元警察官、元戦隊ヒロイン。いまは純喫茶「霧笛」の研修中。

だがその目だけは、昔の冷たさを取り戻していた。


「状況を整理します」


女主人は苦笑した。


「玲奈ちゃん、喫茶店の悩みやで。そんな大げさにせんでも」


「長期間、営業に支障が出ています。十分に対応対象です」


「対応対象て」


女主人は笑ったが、玲奈は本気だった。


その夜、霧笛の片隅に、かつての仲間たちが集まった。


彩香、あかり、迫田ツインズ、麻衣、美咲。

表向きはただの戦隊ヒロイン仲間の集まり。

けれど彼女たちの目は、単なるお茶会のものではない。


玲奈は一枚のメモを机に置いた。


「目的は三つ。共同案内板への霧笛名義復旧。看板灯の修理。隣接空きテナントの雨樋問題の解決」


あかりが手を挙げる。


「それ、作戦名つけます?」


彩香が即座に睨む。


「いらん。絶対にいらん」


玲奈は淡々と言った。


「仮称、霧笛周辺環境改善作戦」


彩香が額を押さえた。


「玲奈さん、地味すぎて逆に怖いです」


「分かりやすさを優先しました」


こうして、神戸港近くの小さな純喫茶をめぐる、やけに本格的な調査が始まった。


美咲は、女主人が保管していた古い封筒を一枚ずつ整理した。

管理会社とのやり取り、商店会の議事メモ、修繕依頼書、領収書の控え。

その中から、共同案内板の管理責任がまだ商店会に残っている証拠を見つける。しかも、霧笛の名前が外された理由は、十年以上前の更新時に「閉店」と誤って記載されたまま放置されたことだった。


「閉店扱い……ひどいですね」


美咲の声は静かだったが、目は笑っていなかった。


麻衣は近所の古い店を回った。

柔らかい声で話し、相手の警戒を解く。

昔の商店会役員、看板屋、電気屋、路地をよく知る配達員。

何気ない雑談の中から、当時の経緯を拾っていく。


「霧笛さん、昔からちゃんと営業してましたよね」


その一言だけで、長年曖昧にされていた話が、少しずつ形になった。


迫田ツインズは、相変わらず華やかだった。


澄香は商店会の若手役員に穏やかに話を通し、必要な書類を整えさせる。

澪香は管理会社側の担当者と会い、柔らかな笑顔で逃げ道を塞いでいく。


「こちらとしても、責任の所在を明確にしておきたいだけです」


言葉は丁寧。

だが、逃げれば面倒になる空気がそこにあった。


一方、あかりは現場写真の撮影係になった。


しかし最初に持ち帰った写真を見て、彩香は固まった。


「……あかり」


「はい」


「これは何や」


「現場記録です」


写っていたのは、店先に立つ玲奈のウェイトレス姿だった。

しかも構図が妙に良い。

肝心の壊れた雨樋は、背景の端に少しだけ写っている。


彩香は深く息を吸った。


「これは現場記録やない。玲奈さん写真集や」


あかりは真顔で言う。


「資料価値は高いと思います」


「別の意味でな」


結局、写真は美咲が撮り直した。

ただ、あかりの失敗も無駄ではなかった。

通行人目線で撮った写真から、初めて来る客がどの角度から霧笛を見落とすのかが分かったのだ。


彩香はそれらをまとめ、全体を動かした。

玲奈がかつてやっていたように、情報を集め、優先順位を決め、人を配置する。

まだぎこちなさはある。

だが、彩香はもうただの部下ではなかった。


「商店会には澄香さん。管理会社には澪香さん。麻衣は近隣証言の補強。美咲は資料整理継続。あかりは……次は余計な美人写真撮らんと看板を撮る」


「了解です」


「ほんまに分かってるんやろな」


霧笛の問題は、少しずつほどけていった。


共同案内板には、再び「純喫茶 霧笛」の文字が戻ることになった。

管理会社は、空きテナント側の雨樋修繕を手配した。

古い看板灯は、麻衣が聞き出した地元の電気屋が直してくれることになった。


大事件ではない。

新聞にも載らない。

誰かが表彰されるわけでもない。


だが、女主人にとっては、何年も胸につかえていた小石がようやく取れたような出来事だった。


修理が終わった夕方。

霧笛の看板に、柔らかな灯りがともった。


古びた文字が、路地の影の中に静かに浮かび上がる。

店はそこにある。

今も開いている。

そう告げるための、小さな灯りだった。


女主人は店先に立ち、しばらく何も言わなかった。

やがて、玲奈たちに向かって深く頭を下げた。


「ありがとう。こんな小さいことに、みんなで動いてくれて」


玲奈は静かに答えた。


「小さいことではありません。ここは、帰ってくる人の場所ですから」


女主人は目を潤ませた。

彩香は照れ隠しにそっぽを向き、あかりは「私も役に立ちましたよね」と確認し、迫田ツインズは灯った看板を見上げて笑った。

麻衣と美咲は、何も言わずにその光を見ていた。


その夜、霧笛では全員にコーヒーとプリンが振る舞われた。

女主人の好意だった。


カップの湯気が立ち、苦いカラメルの香りが広がる。

玲奈はカウンターの中から、仲間たちを見ていた。


もう正式な指揮官ではない。

それでも、久しぶりに指示を出し、仲間が動き、誰かの困りごとが解けた。

その感覚は懐かしく、少しだけ苦かった。


女主人が言った。


「玲奈ちゃん、あんた南の島でも、きっとええ店を作れるよ」


玲奈は少しだけ目を伏せた。


「まだ修行中です」


店内に小さな笑いが広がった。


霧笛の灯りは、港町の夜に静かに揺れていた。

派手な勝利ではない。

だが、誰かの毎日を少しだけ明るくする。


玲奈がこれから開こうとしているカフェも、きっとそういう場所であればいい。

そう思わせるには、十分な夜だった。

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