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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

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5/50

霧笛に集う昔の仲間たち――コーヒーは静かに、客は騒がしく

神戸港近くの純喫茶「霧笛」は、今日も静かだった。


磨き込まれた木のカウンター。

アンティーク調のランプ。

壁に飾られた古い港の写真。

深煎りのコーヒーの香りと、やや苦めのカラメルの匂い。

外では港町の午後がゆっくり流れ、店内では常連客が新聞をめくる音だけが小さく響いていた。


その静けさの中に、岡本玲奈はいた。


白いブラウスに黒いエプロン。

黒髪をきちんとまとめ、背筋は警察官時代そのまま。

ただし手にしているのは、拳銃でも捜査資料でもなく、銀色のコーヒーポットだった。


女主人はカウンターの奥で、そんな玲奈を眺めながら小さく笑う。


「玲奈ちゃん、だいぶ喫茶店の人になってきたねえ」


「まだ修行中です」


「その返事がまだ硬いんよ」


玲奈は何も言わず、カップを温めた。

不器用だが、仕事は丁寧。

愛想は乏しいが、客の様子はよく見ている。

霧笛の常連たちは、もうその無愛想さごと玲奈を受け入れ始めていた。


その日、最初に訪れた昔の仲間は、芹沢遥室長と藤堂隼人補佐官だった。


二人は完全に私用の顔をしていた。

遥は柔らかな色のブラウスに軽いジャケット。隼人は少し落ち着いたシャツ姿で、仕事の緊張を外したような雰囲気だった。


玲奈は一瞬だけ二人を見て、静かに席へ案内する。


「いらっしゃいませ」


「玲奈さん、本当に喫茶店が似合っていますね」


遥が穏やかに微笑む。

隼人も頷いた。


「店の雰囲気に合っている。少し意外だが」


玲奈は伝票を手にしたまま言う。


「ご注文は」


「私はブレンドをお願いします。隼人さんは?」


隼人がメニューを見て、少し考える。


「コーヒーと……プリンも」


その瞬間、遥の声がやわらかく差し込んだ。


「隼人さん、今日は甘いもの控えるって言ってましたよね?」


隼人は沈黙した。


「いや、しかし名物なら一度くらい――」


「一度くらい、が最近多いです」


「……ブレンドだけで」


玲奈は伝票に書き込みながら、淡々と言った。


「主導権が明確ですね」


隼人が軽くむせた。

遥は涼しい顔で微笑む。


「玲奈さん、そこは言わなくてもいいところですよ」


「失礼しました」


女主人はカウンターの奥で肩を震わせていた。


やがて玲奈の淹れたコーヒーが運ばれる。

遥は一口飲み、目を細めた。


「美味しいです。霧笛の味に、玲奈さんらしい几帳面さが出ています」


隼人も静かに頷く。


「確かに、雑味がない」


「ありがとうございます」


玲奈の返事は短い。

だが、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。


次にやってきたのは、波田顧問だった。


片手に競輪新聞。

店の空気を一瞬で下町の場外売場のように変えてしまう存在感。

扉を開けるなり、べらんめえ口調が響く。


「おう玲奈、ちゃんと働いてっか」


玲奈は何も驚かない。

すぐに喫煙席へ案内し、灰皿を置き、テーブルの上に競輪新聞を広げやすいよう空間を作る。

さらに水を置き、少し濃いめのコーヒーを用意する。


波田顧問はニヤリとした。


「相変わらず気が利くじゃねぇか。警察辞めても、そういうとこは抜けねぇな」


「接客業ですから」


「接客っていうより、逃走経路塞ぐ配置だな」


女主人がとうとう笑った。


「この子、注文取る時も調書みたいなんですよ」


「だろうな。目で客を追い詰めるからな、この女は」


玲奈は無表情で返す。


「追い詰めてはいません」


「自覚がねぇのが一番怖ぇんだよ」


霧笛の静かな午後は、少しずつ騒がしくなっていった。


そして、その騒がしさの本番は、彩香と美月が来てからだった。


二人は完全にオフの格好だった。

美月は明るいツインテールにラフな服装。彩香は落ち着いた私服だが、目つきだけはいつも通り鋭い。

扉を開けた瞬間、美月が大げさに声を上げた。


「うわっ、玲奈さんがほんまに喫茶店の人になってる!」


彩香がすぐに肘で小突く。


「店で騒ぐなや。あんたは入店の時点でうるさいねん」


「何で入っただけで怒られなあかんねん」


玲奈は二人を席へ案内する。


「ご注文は」


彩香はメニューを見て、すぐに言った。


「ミートソース」


美月も即答する。


「ナポリタン」


そこまでは普通だった。

問題は、そのあとである。


美月がメニューを置き、妙に得意げな顔をした。


「やっぱ純喫茶いうたらナポリタンやろ。ケチャップで真っ赤っ赤。昭和の魂。鉄板の王道や」


彩香が鼻で笑う。


「浅いわ。喫茶店の軽食はミートソースや。落ち着いた店内、深いコーヒー、そこにちゃんと煮込まれたソース。品がある」


「品て何やねん。スパゲッティに貴族制度持ち込むなや」


「ナポリタンは雑やねん。ケチャップで全部ごまかしてるやろ」


「ごまかしてへん。あれは包容力や。ケチャップは全てを受け止める母性や」


「母性をスパゲッティに押し付けるな」


美月はムッとして、ツインテールを揺らした。


「彩香はミートソースみたいに理屈っぽいねん。ぐちゃぐちゃ言うて最後に服につくタイプや」


彩香の眉がぴくりと動く。


「あんたのツインテール、トマトペーストで真っ赤に染めたろか」


美月はすぐに反撃する。


「ほな彩香の黒髪に粉チーズふりかけたるわ。播州名物・粉チーズ女や」


「何やそれ。全然名物ちゃうわ」


「じゃあミートソース県代表」


「県代表にするな。しかも兵庫はもっと他にあるやろ」


「知らん。今日から彩香はミートソース大使や」


「勝手に任命すな!」


二人の論争は完全に小学生だった。

純喫茶の王道論から、いつの間にか髪型攻撃と謎の大使任命になっている。

常連客は新聞の陰で笑いをこらえ、波田顧問は競輪新聞をたたんで面白そうに眺めていた。


女主人はカウンターの奥で、もう声を出して笑っている。


「玲奈ちゃん、この子らほんまに戦隊ヒロインなん?」


玲奈は伝票を見ながら、静かに言った。


「一応、そうです」


「一応て」


玲奈は二人の前に立った。

彩香と美月はまだ睨み合っている。


「結論を申し上げます」


二人が同時に玲奈を見る。


「どっちでもよろしい」


店内が一瞬静まり返ったあと、女主人が大笑いした。


「それが一番正しいわ!」


美月は唇を尖らせる。


「玲奈さん、もうちょいナポリタン寄りに判定してくれてもええやん」


彩香も不服そうに腕を組む。


「いや、ここはミートソースの品格を認めるべきや」


玲奈は淡々と返す。


「どちらも軽食です。優劣を争う必要はありません」


「正論で殴ってきた」


「ほんま冷たいわ、この人」


だが、出てきたナポリタンとミートソースは、どちらも見事だった。

ナポリタンはケチャップの香ばしさが立ち、ミートソースは丁寧に温められて、麺の固さも絶妙。

美月も彩香も、食べ始めると黙った。


「……うまい」


「……確かに」


玲奈は食後に、霧笛プリンを二つ置いた。


「こちらもどうぞ。店の名物です」


二人は一口食べた。


今度は、完全に同時だった。


「うまっ!」


「これは美味しいですわ」


美月は目を輝かせる。


「カラメルがちょい苦いのがええな。大人の味や。でもプリンはちゃんと優しい」


彩香も素直に頷いた。


「これは認めます。ナポリタン派もミートソース派も関係ない」


美月がスプーンを掲げる。


「霧笛プリンの前では、人類みな平等や」


彩香も真顔で頷く。


「その意見だけは同意するわ」


女主人はまた笑った。


「玲奈ちゃん、プリンで世界平和やね」


玲奈は小さく息を吐いた。


「規模が大きすぎます」


それでも、口元はほんの少しだけ緩んでいた。


別の日から、彩香が率いる新しいNSTの面々も、任務後に霧笛へ顔を出すようになった。

迫田ツインズ、麻衣、美咲、あかり。

疲れた顔で入ってきて、玲奈の淹れるコーヒーを飲み、霧笛プリンを食べる。

それだけで、張り詰めていたものが少しほどけるようだった。


ただし、玲奈は最初に釘を刺した。


「ここでは任務の話はしないで。NSTは隠密活動です」


あかりが慌てて口を閉じる。


「いま言いかけました」


「言う前でよかったわね」


澪香は苦笑する。


「元ボス、やっぱり厳しいね」


澄香がカップを持ちながら言う。


「でも、こういう場所があるのは助かるわ」


彩香は何も言わず、玲奈のコーヒーを飲んだ。

まだ納得しているわけではない。

玲奈が現場から去ったことも、自分がその後を任されたことも、全部を飲み込めたわけではない。


けれど、霧笛のコーヒーはうまかった。

霧笛プリンは、悔しいほど優しかった。


玲奈はもうNSTのボスではない。

だが、カウンターの向こうから今も仲間たちを見ている。

命令ではなく、コーヒーで。

叱責ではなく、プリンで。

そして必要な時だけ、静かな一言で。


霧笛には、昔の仲間たちが少しずつ集まるようになった。

玲奈が戦場を離れても、縁は切れなかった。

ただ、形を変えただけだった。


コーヒーは静かに香り、客は騒がしく笑う。

その中心で、冷徹なる美貌のボスだった女は、不器用なウェイトレスとして、少しずつ誰かの帰る場所になり始めていた。

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