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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

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霧笛の美人ウェイトレスは、笑わないまま常連になる

純喫茶「霧笛」に、新しい噂が生まれた。


神戸港近くの古い通りにある、小さな純喫茶。

昼下がりには常連の老人が新聞を読み、夕方には港で働く男たちが黙ってコーヒーを飲み、雨の日には誰かが傘を畳む音だけが店に響く。

そんな静かな店に、ある日から女優のような美人ウェイトレスが立つようになった。


名前は岡本玲奈(二十七歳)。


背筋が伸びている。

黒い髪はきちんとまとめられ、白いブラウスに黒いエプロンが妙に似合う。

皿を置く指先は美しく、歩き方には無駄がない。

ただし、目つきが鋭い。


常連客たちは、最初こそ遠巻きに見ていた。


「あの子、どこかで見たことあるな」


きっかけは、窓際でいつもスポーツ新聞を読む老人だった。

彼はコーヒーを啜りながら、しばらく玲奈の横顔を見ていたが、急に手を打った。


「思い出した。県警のポスターや」


その一言で、店内の空気が少しだけ動いた。


「美人すぎる警察官いうて、交通安全のポスターに出てた子ちゃうか」

「いや、戦隊ヒロインのニュースで見たことあるで」

「よう知らんけど、えらい別嬪さんやった」


その声が聞こえていないはずはなかった。

だが玲奈は顔色ひとつ変えず、カウンターから水を運び、老人の前に置いた。


「ご注文は」


老人は少し嬉しそうに笑った。


「玲奈ちゃん、昔ポスター出とったやろ?」


玲奈は一拍置いた。


「過去の広報活動です。現在は純喫茶霧笛の研修中です。ご注文をどうぞ」


老人はなぜか背筋を伸ばした。


「ほな、ブレンドで」


「ブレンド一点。砂糖とミルクは」


「今日はブラックで……」


「承知しました」


女主人はカウンターの中で、片手を額に当てた。


「玲奈ちゃん、それはあしらうというより取り締まりや」


玲奈は振り返る。


「不適切でしたか」


「不適切いうか、客が自白前みたいな顔してる」


玲奈は少しだけ首を傾げた。

本人には悪気がない。

むしろ、精一杯丁寧に接客しているつもりなのだ。

ただ、長年の警察官生活とNSTの現場で染みついた確認癖が、どうしても消えない。


噂はすぐに広がった。


「霧笛に元県警の美人ウェイトレスがおる」

「戦隊ヒロインやったらしい」

「注文取られる時、ちょっと緊張する」

「でもコーヒーがうまい」


中には、わざわざ顔を見に来る客もいた。

玲奈はそういう客にも、意外なほどきちんと対応した。

サインを頼まれれば、断らない。

写真を頼まれれば、条件付きで応じる。


「店内の他のお客様が写り込まない角度でお願いします。撮影は一枚までです」


「えらい厳密やなあ」


「トラブル防止です」


「ほな、ピースしてもらえます?」


「必要ですか」


「いや、できれば」


玲奈は数秒考え、ぎこちなく指を二本立てた。

表情は変わらない。

まるで証拠品の横に立つ刑事のようだった。


客は満足そうに帰っていく。

女主人は深いため息をついた。


「サービス精神はあるんやけどなあ。形が全部、警察やねん」


その日の夕方、女主人は玲奈をカウンターの奥へ呼んだ。


「玲奈ちゃん、客商売はな、もうちょい柔らかさがいるんよ」


「意識します」


「意識だけやと足らん。笑顔や。ちょっと笑ってみ」


玲奈は真剣に頷いた。

そして、ゆっくり口角を上げた。


店内が静まり返った。


常連の老人が、新聞の上から恐る恐る覗いた。


「……女将さん」


「何や」


「これはこれで怖いですわ」


別の客も小さく頷く。


「何か、これから重要参考人として呼ばれそうな笑顔ですな」


玲奈は表情を戻した。


「失礼しました」


女主人はしばらく玲奈を見つめ、それからきっぱり言った。


「玲奈ちゃん、笑顔の練習はいったんやめよ」


「改善が必要ということですね」


「いや、改善しようとすると事件性が増す。あんたはべっぴんさんやから、そのままでええ」


玲奈は少しだけ不満そうだった。

だが反論はしなかった。

自分が接客業に向いていないことは、薄々分かっていた。


けれど、霧笛での玲奈は、決して役立たずではなかった。


むしろ、店の仕事そのものは異様な速さで身につけていった。

豆の量、湯温、蒸らし時間、注ぐ速度。

女主人が一度見せると、玲奈は正確に再現した。

しかも、ただ手順を覚えるだけではない。

客の好みを観察し、次に来た時には微妙に味を調整する。


ブラックで飲む老人には、苦味を少し深く。

ミルクを入れる会社員には、後味が薄くならないよう濃いめに。

甘いものを好む女性客には、プリンと合わせて香りの柔らかい一杯を。


ある日、常連の一人が玲奈の淹れたコーヒーを飲み、カップを見つめたまま言った。


「……うまいな」


女主人はカウンターの奥で、少しだけ目を細めた。


「せやろ」


「女将さんのとは違うけど、これはこれでええ」


玲奈は静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


声は硬い。

だが、ほんの少しだけ嬉しそうだった。


軽食の調理も、玲奈は完璧だった。

ナポリタンの炒め具合は均一。

トーストの焼き色は美しく、卵サンドの断面は寸分の狂いもない。

ピラフの具材の大きさまで揃っている。


女主人は呆れたように笑った。


「玲奈ちゃん、喫茶店の軽食を鑑識の資料みたいに整えるんやない」


「見た目の統一は重要です」


「まあ、確かに綺麗やけどな」


常連客たちも、次第に玲奈を受け入れていった。


最初は怖い。

注文は調書みたい。

笑顔は不気味。

だが、よく気が利く。

コーヒーはうまい。

食事も丁寧。

そして何より、嘘がない。


「玲奈ちゃん、今日は取り調べみたいに注文取ってくれへんのか」


「通常通りお伺いします」


「それが取り調べみたいなんや」


「改善します」


「いや、もうそのままでええ。クセになる」


店内に小さな笑いが起きた。

玲奈は意味が分からない顔をしたが、水の減ったグラスにはすぐ気づいて、黙って注ぎ足した。


そんな日々の中で、女主人はある朝、玲奈を厨房へ呼んだ。


「そろそろ、霧笛プリン教えよか」


玲奈は手を止めた。


霧笛プリン。

この店の名物だった。

やや苦めのカラメルが効いた、昔ながらの固めのプリン。

玲奈の父も好んで食べていた一品で、常連客の中には「これを食べに来ている」と言う者もいる。


女主人は鍋を火にかけ、砂糖を入れた。


「ここからが大事や。焦がしすぎたら苦いだけ。浅いと甘ったるい。ちょうどええところで止めるんよ」


玲奈は真剣に見つめる。


「温度は」


「温度計だけ見たらあかん。色と匂いや」


「記録します」


「また調書かいな」


女主人は笑った。

だが、今度は止めなかった。


「これは調書にしてもええわ。あんたが南の島で出すプリンになるんやから」


玲奈の胸の奥が、ほんの少しだけ震えた。


南の島。

まだ見ぬ小さなカフェ。

亮介がいつか帰ってくるかもしれない場所。

そこに、この味を持っていく。


カラメルの香りが、厨房に広がった。

甘さの奥に、苦さがある。

まるで玲奈の人生そのもののようだった。


やがて玲奈は、仕入れ、仕込み、売上管理、清掃、常連客の好みの記録まで任されるようになった。

女主人は少しずつ、店全体の運営を玲奈に預け始めた。


「愛想は相変わらずやけど、店は任せられる」


それが、女主人の評価だった。


玲奈は相変わらず笑わない。

注文を取る声にはまだ少し圧がある。

だが、常連客たちはもう、その圧を含めて霧笛の日常として受け入れていた。


ある午後、港からの光が店内に斜めに差し込んだ。

玲奈は磨き上げたカップを棚に戻し、窓の外を見た。

海の匂いが、ほんのわずかに店へ入ってくる。


いつか、この潮の匂いよりもっと南の島で、同じようにカップを並べる日が来る。

その時、自分は誰かをきちんと迎えられるだろうか。


まだ分からない。


けれど、霧笛のカウンターで玲奈は少しずつ覚えていた。

見張るのではなく、迎えること。

問い詰めるのではなく、待つこと。

そして、苦いものを苦いまま抱えながら、それでも甘い一皿を差し出すこと。


冷徹なる美貌のボスだった女は、笑わないまま、少しずつ喫茶店の人になっていった。

苦いカラメルと深煎りの湯気の向こうに、遅すぎた恋を迎えるための店が、静かに形を持ち始めていた。

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