霧笛の美人ウェイトレスは、注文を調書にしてしまう
神戸港に近い古い通りに、純喫茶「霧笛」はあった。
派手な看板はない。
流行りのカフェのような白い壁も、若者向けの明るい照明もない。
磨き込まれた木のカウンター、少し低めの椅子、壁に飾られた古い港の写真。真鍮の小さなランプが、午後の店内を琥珀色に照らしている。
女主人が一人で切り盛りする、こじんまりとした店だった。
けれど、隅々まで手入れが行き届いている。
古びているのではない。
時間を味方につけている店だった。
岡本玲奈の父は、若い頃からこの店に通っていた。
幼い玲奈も、何度か父に連れられて来たことがある。
大人になり、警察官になってからも、県警音楽隊カラーガード隊にいた頃も、NSTの任務で疲れ切った夜も、玲奈はふらりとこの店を訪れた。
女主人は、そんな玲奈をずっと見てきた。
だから玲奈が警察官も戦隊ヒロインも辞め、南の島でカフェを開きたいと打ち明けた時、女主人は驚かなかった。
ただ、深煎りのコーヒーを玲奈の前に置き、静かに言った。
「ほんなら、うちで修行していきなさい」
こうして、冷徹なる美貌のボスだった女は、純喫茶「霧笛」の新人ウェイトレスになった。
問題は、向いていなかったことである。
玲奈は仕事の覚えだけなら抜群だった。
カップの位置、伝票の種類、常連客の好み、テーブルごとの癖。
一度教えれば忘れない。
水が減ればすぐ注ぎ、椅子が曲がっていれば無言で直し、灰皿の位置までミリ単位で整える。
女主人も最初は感心した。
「やっぱり玲奈ちゃん、仕事は早いわ」
しかし、注文を取りに出た瞬間、空気が変わった。
窓際の常連客が、いつものように新聞をたたんで言った。
「ナポリタンと、食後にコーヒー」
玲奈は伝票を構え、背筋を伸ばし、相手の目をまっすぐ見た。
「確認します。ナポリタン一点。食後にホットコーヒー一点。ミルク、砂糖の有無は」
「え、あ、砂糖だけで……」
「砂糖のみ。ミルク不要。以上で相違ありませんか」
客はなぜか背筋を伸ばした。
「はい。相違ありません」
店内に微妙な沈黙が落ちた。
女主人がカウンターの中から、ゆっくり顔を上げる。
「玲奈ちゃん」
「はい」
「それ、注文やのうて調書や」
玲奈は真面目に答える。
「確認は重要です」
「重要やけど、ナポリタン頼むのに供述調書はいらん」
その日から、霧笛の常連たちは少し緊張するようになった。
玲奈は女優のように美しかった。
静かに立っているだけで絵になる。
黒い髪をきちんとまとめ、白いブラウスに黒いエプロンを着けた姿は、古い純喫茶の空気に驚くほどよく似合った。
しかも気が利く。
客が言う前に水を足す。
新聞を読む客には静かにコーヒーを置く。
腰の悪い老人には椅子を少し引く。
雨の日には、入口に置いた傘立ての向きを変える。
そういう細かな動きは完璧だった。
ただし、目つきが鋭い。
警察官として、NSTのボスとして、相手の嘘や動揺を見抜いてきた目で客を見るものだから、客はただプリンを頼むだけでも、自分の過去まで調べられている気分になる。
ある午後、若い会社員が恐る恐る言った。
「プリン、まだありますか」
玲奈は低い声で答えた。
「あります」
「じゃ、じゃあ一つ……」
「霧笛プリン一点。飲み物は」
「い、いえ、大丈夫です」
「本当に不要ですか」
「本当に不要です」
「分かりました」
そのやり取りを見ていた女主人は、頭を抱えた。
「玲奈ちゃん、客が追い詰められとる」
玲奈は少しだけ不満そうにする。
「追い詰めてはいません。確認しているだけです」
「その確認が強いねん」
女主人はついに言った。
「客商売は笑顔や。ちょっと笑ってみ」
玲奈は言われた通り、口角を上げた。
数秒。
店内の空気が止まった。
常連の老人が、カップを持ったまま小声で言う。
「……女将さん、これはこれで怖いですわ」
別の客も頷く。
「何か、これから重大発表されそうですな」
女主人は深く頷いた。
「玲奈ちゃん、やめよ」
「なぜですか」
「無理して笑うと、余計に事件性が出る」
玲奈は黙った。
女主人はやさしく、しかしはっきり言った。
「あんたはべっぴんさんや。無理に愛想笑いせんでもええ。そのままでええ。せやけどな、客を見張るんやなくて、迎えるんや」
その言葉は、玲奈の中に静かに落ちた。
見張るのではなく、迎える。
それは警察官だった玲奈には、少し難しい感覚だった。
相手を観察することはできる。
危険を察することもできる。
嘘を見抜くこともできる。
だが、ただ黙って座る客の時間を邪魔せず、必要な時だけそっと手を添える。
それは、これまで玲奈が鍛えてきた技術とは少し違っていた。
修行は続いた。
朝は床を拭き、豆を挽き、カップを温める。
昼は注文を取り、皿を下げ、常連客の世間話を聞く。
夕方には女主人の横で、名物の霧笛プリンを仕込む。
霧笛プリンは、甘いだけのプリンではなかった。
カラメルが少し苦い。
その苦さが、あとから卵の甘さを引き立てる。
「人間もプリンも、甘いだけでは飽きるんよ」
女主人はそう言って、玲奈にカラメルの焦がし加減を教えた。
玲奈は真剣に頷いた。
「温度、時間、色の変化を記録します」
「また調書にする気かいな」
「再現性は重要です」
「まあ、それは大事やけど」
女主人は呆れながらも、少し嬉しそうだった。
不器用な新人ウェイトレスは、少しずつ店に馴染んでいった。
常連客も、玲奈の鋭い目つきに慣れ始めた。
「玲奈ちゃん、今日も取り調べみたいに注文取ってくれるか」
「必要なら」
「いや、必要ではないけど、何かクセになる」
そんな冗談まで出るようになった。
玲奈は相変わらず無愛想だった。
笑顔もまだぎこちない。
けれど、客のコーヒーが冷める前に温かい水を添え、疲れた顔の客にはそっとプリンを勧めるようになった。
女主人はカウンターの奥で、それを見ていた。
戦場を降りた女が、今度はカウンターに立っている。
人を追い詰めてきた目で、今は人を迎える練習をしている。
霧笛の午後に、港の光が斜めに差し込む。
玲奈は白いカップを磨きながら、ふと遠い南の島を思った。
いつか、そこに自分の店を開く。
いつか、亮介がそこへ帰ってくるかもしれない。
その時、自分はきちんと迎えられるだろうか。
まだ分からない。
けれど、苦いカラメルの匂いの中で、玲奈は今日も注文を取る。
少しだけ圧のある声で。
少しだけ不器用な優しさを添えて。
そして、いつか潮風の吹くカフェで誰かを待つために。




