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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

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霧笛の美人ウェイトレスは、注文を調書にしてしまう

神戸港に近い古い通りに、純喫茶「霧笛」はあった。


派手な看板はない。

流行りのカフェのような白い壁も、若者向けの明るい照明もない。

磨き込まれた木のカウンター、少し低めの椅子、壁に飾られた古い港の写真。真鍮の小さなランプが、午後の店内を琥珀色に照らしている。


女主人が一人で切り盛りする、こじんまりとした店だった。

けれど、隅々まで手入れが行き届いている。

古びているのではない。

時間を味方につけている店だった。


岡本玲奈の父は、若い頃からこの店に通っていた。

幼い玲奈も、何度か父に連れられて来たことがある。

大人になり、警察官になってからも、県警音楽隊カラーガード隊にいた頃も、NSTの任務で疲れ切った夜も、玲奈はふらりとこの店を訪れた。


女主人は、そんな玲奈をずっと見てきた。


だから玲奈が警察官も戦隊ヒロインも辞め、南の島でカフェを開きたいと打ち明けた時、女主人は驚かなかった。


ただ、深煎りのコーヒーを玲奈の前に置き、静かに言った。


「ほんなら、うちで修行していきなさい」


こうして、冷徹なる美貌のボスだった女は、純喫茶「霧笛」の新人ウェイトレスになった。


問題は、向いていなかったことである。


玲奈は仕事の覚えだけなら抜群だった。

カップの位置、伝票の種類、常連客の好み、テーブルごとの癖。

一度教えれば忘れない。

水が減ればすぐ注ぎ、椅子が曲がっていれば無言で直し、灰皿の位置までミリ単位で整える。


女主人も最初は感心した。


「やっぱり玲奈ちゃん、仕事は早いわ」


しかし、注文を取りに出た瞬間、空気が変わった。


窓際の常連客が、いつものように新聞をたたんで言った。


「ナポリタンと、食後にコーヒー」


玲奈は伝票を構え、背筋を伸ばし、相手の目をまっすぐ見た。


「確認します。ナポリタン一点。食後にホットコーヒー一点。ミルク、砂糖の有無は」


「え、あ、砂糖だけで……」


「砂糖のみ。ミルク不要。以上で相違ありませんか」


客はなぜか背筋を伸ばした。


「はい。相違ありません」


店内に微妙な沈黙が落ちた。

女主人がカウンターの中から、ゆっくり顔を上げる。


「玲奈ちゃん」


「はい」


「それ、注文やのうて調書や」


玲奈は真面目に答える。


「確認は重要です」


「重要やけど、ナポリタン頼むのに供述調書はいらん」


その日から、霧笛の常連たちは少し緊張するようになった。


玲奈は女優のように美しかった。

静かに立っているだけで絵になる。

黒い髪をきちんとまとめ、白いブラウスに黒いエプロンを着けた姿は、古い純喫茶の空気に驚くほどよく似合った。


しかも気が利く。


客が言う前に水を足す。

新聞を読む客には静かにコーヒーを置く。

腰の悪い老人には椅子を少し引く。

雨の日には、入口に置いた傘立ての向きを変える。

そういう細かな動きは完璧だった。


ただし、目つきが鋭い。


警察官として、NSTのボスとして、相手の嘘や動揺を見抜いてきた目で客を見るものだから、客はただプリンを頼むだけでも、自分の過去まで調べられている気分になる。


ある午後、若い会社員が恐る恐る言った。


「プリン、まだありますか」


玲奈は低い声で答えた。


「あります」


「じゃ、じゃあ一つ……」


「霧笛プリン一点。飲み物は」


「い、いえ、大丈夫です」


「本当に不要ですか」


「本当に不要です」


「分かりました」


そのやり取りを見ていた女主人は、頭を抱えた。


「玲奈ちゃん、客が追い詰められとる」


玲奈は少しだけ不満そうにする。


「追い詰めてはいません。確認しているだけです」


「その確認が強いねん」


女主人はついに言った。


「客商売は笑顔や。ちょっと笑ってみ」


玲奈は言われた通り、口角を上げた。


数秒。


店内の空気が止まった。


常連の老人が、カップを持ったまま小声で言う。


「……女将さん、これはこれで怖いですわ」


別の客も頷く。


「何か、これから重大発表されそうですな」


女主人は深く頷いた。


「玲奈ちゃん、やめよ」


「なぜですか」


「無理して笑うと、余計に事件性が出る」


玲奈は黙った。


女主人はやさしく、しかしはっきり言った。


「あんたはべっぴんさんや。無理に愛想笑いせんでもええ。そのままでええ。せやけどな、客を見張るんやなくて、迎えるんや」


その言葉は、玲奈の中に静かに落ちた。


見張るのではなく、迎える。


それは警察官だった玲奈には、少し難しい感覚だった。

相手を観察することはできる。

危険を察することもできる。

嘘を見抜くこともできる。

だが、ただ黙って座る客の時間を邪魔せず、必要な時だけそっと手を添える。

それは、これまで玲奈が鍛えてきた技術とは少し違っていた。


修行は続いた。


朝は床を拭き、豆を挽き、カップを温める。

昼は注文を取り、皿を下げ、常連客の世間話を聞く。

夕方には女主人の横で、名物の霧笛プリンを仕込む。


霧笛プリンは、甘いだけのプリンではなかった。

カラメルが少し苦い。

その苦さが、あとから卵の甘さを引き立てる。


「人間もプリンも、甘いだけでは飽きるんよ」


女主人はそう言って、玲奈にカラメルの焦がし加減を教えた。


玲奈は真剣に頷いた。


「温度、時間、色の変化を記録します」


「また調書にする気かいな」


「再現性は重要です」


「まあ、それは大事やけど」


女主人は呆れながらも、少し嬉しそうだった。


不器用な新人ウェイトレスは、少しずつ店に馴染んでいった。

常連客も、玲奈の鋭い目つきに慣れ始めた。


「玲奈ちゃん、今日も取り調べみたいに注文取ってくれるか」


「必要なら」


「いや、必要ではないけど、何かクセになる」


そんな冗談まで出るようになった。


玲奈は相変わらず無愛想だった。

笑顔もまだぎこちない。

けれど、客のコーヒーが冷める前に温かい水を添え、疲れた顔の客にはそっとプリンを勧めるようになった。


女主人はカウンターの奥で、それを見ていた。


戦場を降りた女が、今度はカウンターに立っている。

人を追い詰めてきた目で、今は人を迎える練習をしている。


霧笛の午後に、港の光が斜めに差し込む。

玲奈は白いカップを磨きながら、ふと遠い南の島を思った。


いつか、そこに自分の店を開く。

いつか、亮介がそこへ帰ってくるかもしれない。

その時、自分はきちんと迎えられるだろうか。


まだ分からない。


けれど、苦いカラメルの匂いの中で、玲奈は今日も注文を取る。


少しだけ圧のある声で。

少しだけ不器用な優しさを添えて。

そして、いつか潮風の吹くカフェで誰かを待つために。

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