冷徹なる美貌のボス、最後の辞令
純喫茶「霧笛」のカウンターに立つようになってから、玲奈は少しだけ朝が早くなった。
警察官だった頃も、NSTのボスだった頃も、朝は早かった。
だが、あの頃の朝は戦場へ向かうための時間だった。
今は違う。豆を量り、カップを温め、床を拭き、店の灯りを点ける。
誰かを追い詰めるためではなく、誰かを迎えるための朝だった。
それでも、玲奈にはまだ済ませなければならないことがあった。
警察官を辞めること。
戦隊ヒロインを降りること。
そして、自分を必要としてくれた人たちに、自分の口で別れを告げることだった。
最初に向かったのは、新橋のヒロ室本部だった。
会議室には、波田顧問と遥室長が待っていた。
玲奈が入ると、波田顧問はいつものように腕を組み、いかにも不機嫌そうな顔をしていた。遥室長は穏やかな表情をしていたが、その目だけは少し揺れていた。
玲奈は背筋を伸ばし、静かに頭を下げた。
「警察官を辞めます。戦隊ヒロインとしての活動も、ここで終わりにします」
短い言葉だった。
だが、その重さは会議室の空気を一瞬で変えた。
「ふざけんな」
波田顧問の声が、低く落ちた。
「てめえみてえな女が抜けるってのはな、こっちにゃ大損害なんだよ。分かってんのか、べらぼうめ」
玲奈は黙っていた。
波田顧問は怒鳴っている。
だが、それが単なる怒りではないことを玲奈は知っていた。
この老人は、いつだって怒鳴ることでしか心配を表に出せない。
遥室長も、静かに口を開いた。
「玲奈さん。少し休んでから考え直す、という形では駄目ですか。玲奈さんは、NSTにもヒロ室にも必要な人です。現場に立たなくても、後進の育成や広報、調整役として残る道もあります」
その声は優しかった。
だから余計に胸へ刺さった。
玲奈は、二人の顔を順に見た。
「ありがとうございます。でも、決めました」
冷たい言い方ではなかった。
ただ、もう動かせない言葉だった。
「私は、これまでずっと誰かを守るために生きてきました。警察官としても、戦隊ヒロインとしても。それを後悔していません。けれど今度は、自分の人生を一度、自分の手で作り直したいんです」
波田顧問は何か言いかけた。
だが、言葉を飲み込んだ。
遥室長は少しだけ目を伏せる。
「カフェ、ですね」
玲奈は頷いた。
「はい。南の島で、小さな店を開きます」
波田顧問は長い沈黙のあと、深く息を吐いた。
「ったく……。おめえは昔っから、決めたら曲がらねえ女だ」
そう言うと、照れ隠しのように顔を背けた。
「今までよくやった。おめえの働きは、誰が何と言おうと一級品だった。今度はカフェだろうが何だろうが、てめえらしくやれ」
遥室長は、少しだけ涙を滲ませながら微笑んだ。
「玲奈さん、今まで本当にありがとうございました。今度はお客さんとして、そのカフェに行かせてくださいね」
玲奈は深く頭を下げた。
その礼は、任務完了の礼ではなかった。
一つの人生に区切りをつける礼だった。
兵庫県警でも、引き留めは強かった。
玲奈は高卒ノンキャリアの叩き上げでありながら、若くして警部補に昇進した有望株だった。交通課時代の実績、県警音楽隊カラーガード隊での広報力、NSTでの実戦経験。
県警にとって、玲奈は単なる優秀な警察官ではなかった。
“美人過ぎる警察官”としてポスターや啓発イベントにも起用され、県警の顔の一人でもあった。
上層部は休職を勧めた。
広報部門への異動を提案した。
後進育成の立場も用意できると言った。
だが、玲奈の答えは変わらなかった。
「これまで、お世話になりました」
その一言で、彼女は警察官としての長い道を降りた。
最後に玲奈は、神戸市北区に住む黒川玄蔵を訪ねた。
黒川は、玲奈の両親の事故を担当した元警察官だった。
幼い玲奈にとって、警察というものを初めて現実として見せた男であり、後に彼女が警察官を志すきっかけにもなった人物である。
玲奈にとっては、師匠のような存在だった。
黒川は、古い湯呑みを前に置き、玲奈の話を最後まで黙って聞いた。
警察を辞めること。
戦隊ヒロインも降りること。
南の島でカフェを開きたいこと。
そして、いつか帰ってくるかもしれない男のために、場所を作りたいこと。
長い沈黙のあと、黒川は静かに言った。
「それがええ」
玲奈は顔を上げた。
「止めないんですか」
黒川は少し笑った。
「止めてほしい顔には見えん。お前はよう頑張った。警察官としても、人としてもな。せやけど、警察官のままでは救えんもんもある。お前自身の人生や」
玲奈は、何も言えなかった。
「誰かを待つ場所を作りたい言うなら、それも立派な生き方や。逃げやない。お前が自分で選んだ道や」
その言葉で、玲奈はようやく少しだけ息ができた。
だが、一番苦しい報告は最後に残っていた。
大阪府内のヒロ室西日本分室。
NSTのメンバーが集まるその部屋で、玲奈は退任を告げた。
最初に動揺が走ったのは、あかりだった。
目を丸くし、すぐに涙ぐんだ。
麻衣は言葉を失い、美咲は静かに目を伏せた。
迫田ツインズも、いつもの華やかな笑みを消していた。
「玲奈さん、辞めないでください」
麻衣の声が震えた。
「まだ、私たちには玲奈さんが必要です」
美咲も小さく言った。
「私は、玲奈さんがいるから現場で落ち着けました」
あかりはもう泣いていた。
澪香は「寂しい」と短く言い、澄香は「でも、止められへん顔してる」と呟いた。
玲奈は全員の顔を見た。
それぞれに癖があり、弱さがあり、強さがある。
自分が率いてきた、誇れる仲間たちだった。
そして、最後の辞令を告げる。
「NSTは、これから彩香のチームや」
部屋の視線が一斉に彩香へ向く。
「彩香を中心に、黒鷹と元県知事の線を追い続けなさい。あなたたちならできる」
だが彩香だけは、納得しなかった。
ずっと黙っていた彼女が、低い声で言った。
「勝手すぎますわ」
玲奈は何も言わない。
彩香は顔を上げた。
その目には怒りと涙が同時にあった。
「玲奈さんがいなくなったら、うちが中心になる? そんな簡単な話やないです。うちは、玲奈さんの背中を見てきたんです。厳しく叱られて、現場で助けられて、ようやく少し近づけたと思ったら、今度は“あとは頼む”ですか」
彩香の声が震える。
「まだ何も返せてへん。まだ横に立ててもいない。そんな状態で、納得できるわけないやろ」
玲奈は静かに彩香を見た。
「あなたならできる」
「そんな言葉で済まさんといてください」
彩香は最後まで頷かなかった。
けれど、玲奈はもう引き返さなかった。
別れは、いつも綺麗には終わらない。
応援してくれる人がいても、送り出せない人もいる。
それでも人は、自分の選んだ場所へ向かわなければならない時がある。
その夜、玲奈は霧笛のカウンターに立っていた。
黒いエプロンを結び、白いカップを磨く。
警察手帳も、NSTの指令書も、もう手元にはない。
あるのは、コーヒー豆と、苦いカラメルの匂いだけだった。
冷徹なる美貌のボスは、最後の辞令を出した。
そして今度は、自分自身に新しい辞令を出す。
誰かを追う人生から、誰かを待つ人生へ。
戦場ではなく、カウンターへ。
その先にある南の島へ向かうために。




