霧笛のカウンターに、女は夢を置いた
日協商事事件は、世間では終わったことになっていた。
巨額投資詐欺会社は破綻し、会長は消え、新聞もテレビも連日の報道を少しずつ小さくしていった。被害者には、被害金の一部が弁済されることになった。だがそれは、奪われたものの十分の一にすぎなかった。
残りの九割は戻らない。
金だけではない。失われた老後、壊れた家族、信じた時間、取り返しのつかない後悔。そういうものは、どれだけ帳簿をめくっても戻ってこない。
そして岡本玲奈もまた、この事件で金額以上のものを失っていた。
玲奈は、兵庫県警の警部補だった。
西日本特別諜報班NSTのボスでもあった。
冷徹なる美貌の指揮官。
仲間たちはそう呼び、敵はその視線を恐れた。
事件が一段落したあとも、玲奈はいつも通りだった。
報告書を読み、指示を出し、必要な場所へ必要な人員を配置する。声は低く、判断は早く、無駄な感情は見せない。
誰が見ても、以前と変わらない岡本玲奈だった。
けれど、その胸の奥には、ぽっかりと穴が開いていた。
水野亮介。
詐欺師だった男。
日協商事の営業の中枢にいた男。
そして、玲奈が本気で愛してしまった男。
取調室の冷たい空気の中で、亮介は最後に言った。
「真人間になって、もう一度あなたの前に現れてもいいですか?」
あの言葉が、玲奈の中で消えない。
それが詐欺師の最後の演技だったのか、罪を恐れた男の逃げ道だったのか、それとも本当に、自分の人生をやり直したいという小さな本心だったのか。
玲奈には、まだ分からなかった。
ただ、忘れられなかった。
任務のあと、誰もいない部屋でコーヒーを飲む時。
神戸の港沿いを一人で歩く時。
ふと窓ガラスに映る自分の顔を見た時。
亮介の声は、霧の向こうから聞こえる船の汽笛のように、玲奈の胸へ戻ってきた。
玲奈には、誰にもあまり話していない趣味があった。
カフェ巡りである。
非番の日、任務の合間、予定と予定の隙間。
玲奈は一人で喫茶店に入るのが好きだった。
古い椅子、磨かれたカウンター、カップが置かれる小さな音、静かに流れる時間。
そこでは、誰にも命令しなくてよかった。
誰の嘘も見抜かなくてよかった。
ただコーヒーを飲み、窓の外を眺めていればよかった。
いつか警察官を辞めたら、静かなカフェを開きたい。
そんな夢が、玲奈にはあった。
大きな店でなくていい。
有名店でなくていい。
海風が少し入る、小さな店。
深煎りのコーヒーと、甘すぎないプリンがあって、客が黙って座っていられる場所。
誰かを待っている人も、何かから逃げてきた人も、名前を聞かれずにいられる場所。
日協商事事件のあと、その夢は少しだけ形を変えた。
もし亮介が本当に真人間になって帰ってくるなら。
もし、あの言葉が嘘でなかったなら。
その時、彼が帰ってこられる場所を作っておきたい。
それは赦しではない。
過去をなかったことにするわけでもない。
ただ、あの男を愛してしまった自分まで、全部嘘だったことにはしたくなかった。
ある午後、玲奈は神戸港近くの古い純喫茶を訪ねた。
店の名は、霧笛。
父が若い頃から通っていた店だった。
玲奈自身も、警察官になってから何度か足を運んだことがある。港に近い路地にひっそりと立つ、昭和の匂いを残した店。少しくすんだ看板、重たい木の扉、年季の入ったカウンター。
店内には、深煎りのコーヒーと、やや苦めのカラメルの匂いが漂っていた。
一人で店を切り盛りする高齢の女主人は、玲奈を見るなり、少しだけ目を細めた。
「玲奈ちゃん、今日はコーヒー飲みに来た顔やないね」
玲奈はカウンターに座った。
いつもの席だった。
女主人は何も聞かず、湯を落とし、カップを温め、ゆっくりとコーヒーを淹れた。
白いカップが、玲奈の前に置かれる。
「相談があります」
玲奈は、そう言った。
女主人は返事をしない。
ただ、カウンターの向こうで黙って玲奈を見ていた。
玲奈は話した。
警察を辞めたいこと。
戦隊ヒロインも降りたいこと。
南の島で、小さなカフェを開きたいこと。
そして、いつか真人間になって戻ってくるかもしれない男のために、帰る場所を作っておきたいこと。
話しているうちに、自分でも驚くほど声が静かだった。
女主人は最後まで遮らなかった。
すべて聞き終えると、ふっと息を吐き、玲奈の前のカップを少しだけ押した。
「ほんなら、うちで修行していきなさい」
玲奈は顔を上げた。
「私が、ですか」
「当たり前やないの。カフェいうんは、夢だけでは回らんよ。コーヒーも、掃除も、仕入れも、客あしらいも、全部覚えなさい」
女主人は、そこで少しだけ笑った。
「あんた、顔は女優みたいやけど、愛想は交通違反の取り締まりみたいやからね。そこから直さなあかん」
玲奈は返す言葉を失った。
だが、その言葉の奥にある優しさだけは分かった。
その日、玲奈は初めて、警察官でもNSTのボスでもない自分の未来を、誰かに預けた。
拳銃も、手錠も、捜査資料もない。
あるのは、コーヒー豆と、白いカップと、苦いカラメルの匂いだけ。
純喫茶「霧笛」のカウンターで、岡本玲奈の新しい修行が始まる。
それは、戦うためではなく、待つための修行だった。
いつか南の島で、遅すぎた恋を迎えるために。




