国道二号線の鬼台貫、カウンターに立つ
神戸港に近い純喫茶「霧笛」の午後は、ゆっくりと沈む。
古い木の扉。
磨き込まれたカウンター。
壁に飾られた港の写真。
深煎りのコーヒーの香りと、やや苦いカラメルが効いた霧笛プリン。
岡本玲奈は、その静かな店で黒いエプロンを締め、カップを磨いていた。
かつて兵庫県警の警部補として現場を指揮し、戦隊ヒロインとして裏の任務に立った女は、今では純喫茶の新人ウェイトレスである。
もっとも、本人の動きはまだ完全に警察官だった。
水を出す角度は正確。
伝票の記入は端正。
客の動線も無意識に把握している。
女主人はそれを見て、いつものように苦笑する。
「玲奈ちゃん、店内見回りみたいになってるよ」
「安全確認です」
「喫茶店やで。交番やない」
玲奈が返事に困った時、扉のベルが鳴った。
入ってきたのは、灰色のコートを着た初老の男だった。
背筋が伸びていて、歩き方に無駄がない。
玲奈は一目で分かった。
交通課時代の元上司である。
男は玲奈を見るなり、にやりと笑った。
「国道二号線の鬼台貫が、今はコーヒー淹れとるとはな」
店内の常連客が、何だその物騒な異名は、という顔でこちらを見る。
玲奈は表情を変えず、淡々と答えた。
「現在は純喫茶霧笛で修行中です。ご注文は」
「昔と変わらん返しやな。ブレンドをくれ」
元上司は窓際に座り、コーヒーを一口飲むと、懐かしそうに目を細めた。
「お前は若い頃から変わっとった。過積載のトラック見つけたら、相手がどんな業者でも一歩も引かん。台貫に乗せて、重量出して、書類を揃えて、逃げ道を全部塞ぐ。若い女の警官やと思って甘く見た連中が、みんな青い顔しとったわ」
玲奈は静かにカップを置く。
「法令違反ですから」
「その返しも変わらん。だから鬼台貫言われたんや」
国道二号線。
港湾物流と幹線道路が交わる場所で、玲奈は過積載取締に容赦がなかった。
美人すぎる警察官として広報に使われる一方で、現場では一切甘くない。
業者の間では「美人に止められたと思ったら地獄の重量測定が始まる」と恐れられていた。
元上司は笑いながら言う。
「けどな、あの頃のお前がいたから、事故が減った。きれいごとやない。あれは本当や」
玲奈は何も言わない。
ただ少しだけ、目を伏せた。
「戻ってこいとは言わん。言っても戻らん顔しとる」
「はい」
「なら、ここでちゃんとやれ。お前はどこに立っても、手を抜けん女や」
男はそう言って、霧笛プリンを追加した。
玲奈は伝票に記入しながら言う。
「プリン一点。以上でよろしいですか」
「相変わらず調書みたいやな」
女主人が奥で吹き出した。
しばらくして、今度は店の空気が一気に華やいだ。
扉を開けて入ってきたのは、女性警察官たちだった。
かつて玲奈と同じ県警音楽隊カラーガード隊に所属していた同僚たちである。
今はそれぞれ部署も立場も違うが、姿勢の良さと明るい声に、あの頃の舞台の名残があった。
「玲奈、ほんまにエプロン着てる!」
「似合いすぎやん。何その完成度」
「でも立ち方が完全にカラーガード隊のままやわ」
玲奈は少しだけ眉を寄せる。
「ご注文をどうぞ」
「出た。注文取りが警察式」
彼女たちは笑いながら席に着いた。
ブレンド、紅茶、ミートソース、霧笛プリン。
注文は賑やかだったが、玲奈の処理は正確だった。
同僚の一人が、カップを受け取りながら懐かしそうに言う。
「玲奈、カラーガードの頃もそうやったよね。本番前にブーツのファスナー、手袋、旗の角度、全部確認してた」
「確認は必要です」
「必要やけど、玲奈の確認は儀式みたいやった」
別の同僚が笑う。
「しかも、あの制服めっちゃ似合ってたのに、本人だけずっと不満げやったよね」
玲奈の表情がわずかに固まる。
「スカートが短すぎました」
その一言に、女性警察官たちは一斉に笑った。
「まだ言うてる!」
「玲奈、それ何回も言ってた!」
「“職務上必要な丈とは思えません”とか真顔で言ってたもんな」
玲奈は静かに反論する。
「実際、短かったです」
「でも一番似合ってたの玲奈やん。長身で脚長くて、白いロングブーツ履いたら完全に主役やった」
「私は目立つ必要はありませんでした」
「目立つに決まってるやん。あの顔で、あの脚で、あの姿勢やで。こっちは横に並ぶの、けっこう大変やったんやから」
玲奈は困ったようにコーヒーポットを持ったまま止まった。
女主人がカウンターの中から面白そうに聞く。
「玲奈ちゃん、そんな華やかな格好してたん?」
同僚たちは勢いづく。
「してましたよ。白いロングブーツに、カラーガードの制服で、もう県警のイベント会場がざわつくんです」
「子どもより、お父さん方の視線が明らかに玲奈に寄ってました」
「本人はずっと“業務です”みたいな顔してましたけど」
玲奈は低い声で言う。
「広報活動の一環です」
「そういうとこやで」
店内に笑いが広がる。
だが、同僚たちの言葉はからかいだけではなかった。
「でもね、玲奈がいたら隊列が崩れなかった」
「本番前、玲奈が一通り確認してくれるだけで安心した」
「目立つのに浮つかない。あれ、すごかったんよ」
玲奈は黙っていた。
華やかな衣装。
イベント会場の拍手。
子どもたちの笑顔。
県警の広報ポスター。
あの頃も玲奈は、自分が見られていることに戸惑っていた。
ただ、任務として求められるなら完璧にこなした。
それが玲奈という女だった。
元上司が、女性警察官たちの笑い声を聞きながら、ぽつりと言う。
「鬼台貫も、カラーガードの主役も、どっちもお前や。どっちも嘘やない」
玲奈はカウンターに戻り、静かにカップを磨いた。
閉店後、女主人が言った。
「玲奈ちゃん、ほんまにいろんな顔持ってたんやねえ」
玲奈は少し考えたあと、答える。
「どれも、私です」
「ほな、今の顔も足していきなさい。霧笛の玲奈ちゃんいう顔を」
その言葉に、玲奈は少しだけ視線を落とした。
警察官だった玲奈。
国道二号線の鬼台貫だった玲奈。
カラーガード隊の玲奈。
戦隊ヒロインだった玲奈。
そして今、純喫茶のカウンターで、コーヒーを淹れる玲奈。
過去は消えるわけではない。
ただ、新しい顔がひとつ増えていく。
その夜の霧笛のコーヒーは、いつもより少しだけ柔らかい味がした。




