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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

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国道二号線の鬼台貫、カウンターに立つ

神戸港に近い純喫茶「霧笛」の午後は、ゆっくりと沈む。


古い木の扉。

磨き込まれたカウンター。

壁に飾られた港の写真。

深煎りのコーヒーの香りと、やや苦いカラメルが効いた霧笛プリン。


岡本玲奈は、その静かな店で黒いエプロンを締め、カップを磨いていた。

かつて兵庫県警の警部補として現場を指揮し、戦隊ヒロインとして裏の任務に立った女は、今では純喫茶の新人ウェイトレスである。


もっとも、本人の動きはまだ完全に警察官だった。


水を出す角度は正確。

伝票の記入は端正。

客の動線も無意識に把握している。

女主人はそれを見て、いつものように苦笑する。


「玲奈ちゃん、店内見回りみたいになってるよ」


「安全確認です」


「喫茶店やで。交番やない」


玲奈が返事に困った時、扉のベルが鳴った。


入ってきたのは、灰色のコートを着た初老の男だった。

背筋が伸びていて、歩き方に無駄がない。

玲奈は一目で分かった。

交通課時代の元上司である。


男は玲奈を見るなり、にやりと笑った。


「国道二号線の鬼台貫が、今はコーヒー淹れとるとはな」


店内の常連客が、何だその物騒な異名は、という顔でこちらを見る。

玲奈は表情を変えず、淡々と答えた。


「現在は純喫茶霧笛で修行中です。ご注文は」


「昔と変わらん返しやな。ブレンドをくれ」


元上司は窓際に座り、コーヒーを一口飲むと、懐かしそうに目を細めた。


「お前は若い頃から変わっとった。過積載のトラック見つけたら、相手がどんな業者でも一歩も引かん。台貫に乗せて、重量出して、書類を揃えて、逃げ道を全部塞ぐ。若い女の警官やと思って甘く見た連中が、みんな青い顔しとったわ」


玲奈は静かにカップを置く。


「法令違反ですから」


「その返しも変わらん。だから鬼台貫言われたんや」


国道二号線。

港湾物流と幹線道路が交わる場所で、玲奈は過積載取締に容赦がなかった。

美人すぎる警察官として広報に使われる一方で、現場では一切甘くない。

業者の間では「美人に止められたと思ったら地獄の重量測定が始まる」と恐れられていた。


元上司は笑いながら言う。


「けどな、あの頃のお前がいたから、事故が減った。きれいごとやない。あれは本当や」


玲奈は何も言わない。

ただ少しだけ、目を伏せた。


「戻ってこいとは言わん。言っても戻らん顔しとる」


「はい」


「なら、ここでちゃんとやれ。お前はどこに立っても、手を抜けん女や」


男はそう言って、霧笛プリンを追加した。

玲奈は伝票に記入しながら言う。


「プリン一点。以上でよろしいですか」


「相変わらず調書みたいやな」


女主人が奥で吹き出した。


しばらくして、今度は店の空気が一気に華やいだ。


扉を開けて入ってきたのは、女性警察官たちだった。

かつて玲奈と同じ県警音楽隊カラーガード隊に所属していた同僚たちである。

今はそれぞれ部署も立場も違うが、姿勢の良さと明るい声に、あの頃の舞台の名残があった。


「玲奈、ほんまにエプロン着てる!」

「似合いすぎやん。何その完成度」

「でも立ち方が完全にカラーガード隊のままやわ」


玲奈は少しだけ眉を寄せる。


「ご注文をどうぞ」


「出た。注文取りが警察式」


彼女たちは笑いながら席に着いた。

ブレンド、紅茶、ミートソース、霧笛プリン。

注文は賑やかだったが、玲奈の処理は正確だった。


同僚の一人が、カップを受け取りながら懐かしそうに言う。


「玲奈、カラーガードの頃もそうやったよね。本番前にブーツのファスナー、手袋、旗の角度、全部確認してた」


「確認は必要です」


「必要やけど、玲奈の確認は儀式みたいやった」


別の同僚が笑う。


「しかも、あの制服めっちゃ似合ってたのに、本人だけずっと不満げやったよね」


玲奈の表情がわずかに固まる。


「スカートが短すぎました」


その一言に、女性警察官たちは一斉に笑った。


「まだ言うてる!」

「玲奈、それ何回も言ってた!」

「“職務上必要な丈とは思えません”とか真顔で言ってたもんな」


玲奈は静かに反論する。


「実際、短かったです」


「でも一番似合ってたの玲奈やん。長身で脚長くて、白いロングブーツ履いたら完全に主役やった」


「私は目立つ必要はありませんでした」


「目立つに決まってるやん。あの顔で、あの脚で、あの姿勢やで。こっちは横に並ぶの、けっこう大変やったんやから」


玲奈は困ったようにコーヒーポットを持ったまま止まった。


女主人がカウンターの中から面白そうに聞く。


「玲奈ちゃん、そんな華やかな格好してたん?」


同僚たちは勢いづく。


「してましたよ。白いロングブーツに、カラーガードの制服で、もう県警のイベント会場がざわつくんです」

「子どもより、お父さん方の視線が明らかに玲奈に寄ってました」

「本人はずっと“業務です”みたいな顔してましたけど」


玲奈は低い声で言う。


「広報活動の一環です」


「そういうとこやで」


店内に笑いが広がる。


だが、同僚たちの言葉はからかいだけではなかった。


「でもね、玲奈がいたら隊列が崩れなかった」

「本番前、玲奈が一通り確認してくれるだけで安心した」

「目立つのに浮つかない。あれ、すごかったんよ」


玲奈は黙っていた。


華やかな衣装。

イベント会場の拍手。

子どもたちの笑顔。

県警の広報ポスター。

あの頃も玲奈は、自分が見られていることに戸惑っていた。

ただ、任務として求められるなら完璧にこなした。

それが玲奈という女だった。


元上司が、女性警察官たちの笑い声を聞きながら、ぽつりと言う。


「鬼台貫も、カラーガードの主役も、どっちもお前や。どっちも嘘やない」


玲奈はカウンターに戻り、静かにカップを磨いた。


閉店後、女主人が言った。


「玲奈ちゃん、ほんまにいろんな顔持ってたんやねえ」


玲奈は少し考えたあと、答える。


「どれも、私です」


「ほな、今の顔も足していきなさい。霧笛の玲奈ちゃんいう顔を」


その言葉に、玲奈は少しだけ視線を落とした。


警察官だった玲奈。

国道二号線の鬼台貫だった玲奈。

カラーガード隊の玲奈。

戦隊ヒロインだった玲奈。

そして今、純喫茶のカウンターで、コーヒーを淹れる玲奈。


過去は消えるわけではない。

ただ、新しい顔がひとつ増えていく。


その夜の霧笛のコーヒーは、いつもより少しだけ柔らかい味がした。

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