高嶺の花は、初恋を知らないふりをした
純喫茶「霧笛」の午後は、神戸らしく少しだけ気取っている。
港の方から吹く風は、古い路地を通り抜け、店の木の扉をかすかに揺らす。磨き込まれたカウンター、アンティークのランプ、壁に飾られた昔の神戸港の写真。
深煎りのコーヒーの香りと、やや苦いカラメルの匂いが、店内に静かに沈んでいた。
岡本玲奈は、白いブラウスに黒いエプロン姿で、カップを磨いていた。
警察官だった頃と同じように背筋は伸びている。
ただし今の彼女が持っているのは、拳銃でも手錠でもなく、白いコーヒーカップだった。
扉のベルが鳴った。
入ってきたのは、夫婦らしい男女だった。
女性の方は、玲奈を見た瞬間、目を丸くし、それから懐かしそうに笑った。
「……玲奈ちゃん?」
玲奈の手が、ほんの少し止まった。
「真紀さん?」
名を呼んだ瞬間、記憶の奥から、神戸の小学校の教室がふっと蘇った。
窓際の席、給食の匂い、運動場の白線。
そして、いつも明るく玲奈に話しかけてくれた同級生の顔。
真紀は笑いながらカウンターへ近づいた。
「やっぱり玲奈ちゃんや。新聞とかテレビで見てたけど、ほんまに綺麗になったねえ。いや、昔から綺麗やったけど」
玲奈は少しだけ目を伏せる。
「お久しぶりです」
「相変わらず硬いなあ」
真紀の隣に立つ男性も、少し照れたように会釈した。
玲奈はその顔を見て、胸の奥が一瞬だけ跳ねた。
「浩介さん……?」
男性は驚いたように笑った。
「覚えてくれてたんや」
覚えていた。
思い出そうとしなかっただけで、忘れてはいなかった。
明るくて、運動が得意で、誰にでも自然に優しかった男の子。
下級生が転べば真っ先に駆け寄り、掃除当番で誰かがさぼっても怒らずに手伝っていた。
玲奈は小学生の頃、そんな浩介の姿を、教室の隅から少しだけ見ていた。
ただ、それを誰にも言わなかっただけだ。
二人は席に着いた。
玲奈は伝票を持って向かう。
「ご注文は」
真紀が笑う。
「その言い方、昔の玲奈ちゃんそのままやね。先生に当てられて答える時も、そんな感じやった」
「そうでしょうか」
「そうそう。冷静で、きちんとしてて、ちょっと近寄りがたくて」
浩介が苦笑する。
「ちょっとどころやないやろ。岡本さんは完全に高嶺の花やった」
玲奈は伝票を持つ指に、少しだけ力を入れた。
「高嶺の花、ですか」
真紀は楽しそうに頷く。
「男子みんな、玲奈ちゃんのこと綺麗やと思ってたよ。でも誰も近づかれへんかった。賢いし、運動できるし、先生からも信頼されてるし、何より雰囲気が大人びてた」
「記憶にありません」
「出た。玲奈ちゃんの“記憶にありません”」
真紀は笑い、浩介を肘で小突いた。
「この人なんか、何回も私に相談してきたんよ。岡本さんにどう話しかけたらええかなって」
浩介の顔が赤くなる。
「今それ言うか」
玲奈は、珍しく目を瞬かせた。
「相談、ですか」
浩介は観念したように笑った。
「まあ……好きやったんは本当や」
カップを置く店内の音が、玲奈には一瞬だけ遠く聞こえた。
「小学生ながらに、岡本さんは別格やった。いつも本読んでて、テストはほぼ満点で、運動場では男子より速くて。話しかけようと思っても、どう近づいたらええか分からんかった」
玲奈は、何も返せなかった。
胸の奥が、ふっと柔らかくなる。
大人になってからの恋は、痛みや疑いを伴っていた。
悠真のことも、亮介のことも、玲奈の心に深い傷を残した。
けれど今、浩介の言葉が運んできたのは、傷ではなかった。
まだ何も壊れていなかった頃の、淡いときめきだった。
真紀がいたずらっぽく言う。
「でも玲奈ちゃん、興味なさそうやったからなあ。私も、これは無理やなって思ってた」
玲奈は視線を落とした。
本当は、まったく興味がなかったわけではない。
浩介が運動場で笑っているところ。
給食当番で重い食缶を持っているところ。
下級生に優しく声をかけるところ。
そういう場面を、玲奈は何度も見ていた。
そして少しだけ、いいな、と思っていた。
だが当時の玲奈は、自分の気持ちをどう扱えばいいのか分からなかった。
好意を言葉にすることも、友人に相談することも、ふざけて誰かの名前を出すこともできなかった。
ただ静かに見ているだけだった。
やがて両親の事故が起き、玲奈は神戸を離れた。
丹波篠山の祖父母の家へ移り、少女時代の神戸は急に終わった。
浩介への小さなときめきも、言葉になる前に記憶の奥へしまい込まれた。
玲奈はブレンドと紅茶、そして霧笛プリンを運んだ。
皿を置く手が、いつもよりほんの少しだけぎこちなかった。
真紀はそれを見逃さない。
「玲奈ちゃん、もしかして照れてる?」
「照れていません」
「その返事がもう照れてる」
浩介はさらに赤くなる。
「真紀、やめとけって」
「だって面白いもん。玲奈ちゃんがこんな顔するの、初めて見た」
玲奈は伝票を整えながら、静かに言った。
「業務に戻ります」
「逃げた」
「逃げましたね」
夫婦は笑った。
玲奈はカウンターへ戻るが、耳の奥が少し熱い気がした。
女主人がカウンターの奥から、にやにやとこちらを見ている。
「玲奈ちゃん、かわいい顔してるやないの」
「通常通りです」
「通常通りではないねえ」
玲奈は返事をせず、カップを拭いた。
だが胸の中では、小学校の教室の窓が開いたままだった。
しばらくして、真紀が少し柔らかい声で尋ねた。
「玲奈ちゃんには、今、素敵な人おるの?」
玲奈は、今度こそ即答できなかった。
亮介の顔が浮かぶ。
取調室のアクリル板の向こう。
罪を背負った男の目。
そして、あの言葉。
「真人間になって、もう一度あなたの前に現れてもいいですか?」
玲奈は視線を落とした。
「うん、まぁ……」
真紀の目が輝いた。
「え、何その反応。玲奈ちゃんがそんな曖昧な返事するん?」
浩介も微笑む。
「小学校の頃の岡本さんからは想像できへんな」
玲奈は少し困ったように言った。
「説明が難しい人です」
真紀はそれ以上聞かなかった。
昔からそうだった。
彼女は明るいが、人が本当に触れてほしくないところには踏み込まない。
「そっか。玲奈ちゃんにも、そういう人ができたんやね」
その言葉は、玲奈の胸に静かに落ちた。
帰り際、浩介は少し照れくさそうに言った。
「昔、好きやったって言えてよかったわ。まあ、今さらやけど」
真紀がすかさず言う。
「今さら言うても、私と結婚してるんやからね」
「分かってるって」
玲奈は二人を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「お二人とも、お幸せそうで何よりです」
真紀はその微かな笑みを見て、嬉しそうに言った。
「玲奈ちゃん、今の顔、昔よりずっと柔らかいよ」
二人が店を出ると、霧笛にはまた静かな午後が戻った。
玲奈は空いたカップを片づけながら、小学校時代の神戸を思い出していた。
まだ両親がいて、まだ自分が何も失っていなくて、ただ教室の片隅で誰かを少しだけ見ていた頃。
自分にも、そんな淡い時間があった。
冷徹なる美貌のボスと呼ばれた女にも、誰にも言えない小さな好意に胸を鳴らした少女時代があった。
女主人が、そっと声をかけた。
「玲奈ちゃん、今日はええ顔してるわ」
「そうでしょうか」
「うん。ちょっとだけ、恋する女の子の顔やった」
玲奈は黙った。
珍しく、何も言い返せなかった。
霧笛の窓から、神戸の午後の光が斜めに差し込む。
過去は戻らない。
けれど、戻らない過去の中にも、傷ではないものが残っている。
玲奈はカップを棚へ戻した。
胸の奥にはまだ、少しだけ甘い痛みが残っていた。
それは初恋と呼ぶには遅すぎて、思い出と呼ぶには少し温かすぎるものだった。
そしてその温かさは、南の島で誰かを待つ玲奈に、きっと必要なものだった。




