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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

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12/43

北野の坂道から来た二人、霧笛プリンで沈黙する

神戸の午後は、坂道の匂いを連れてくる。


北野の異人館街を歩いた観光客たちは、少し疲れた顔で港の方へ下りてくる。石畳の坂、古い洋館、白い窓枠、遠くに見える海。写真を何枚も撮り、土産物を見て、少しだけ背伸びした気分になったあと、ふと静かな店に入りたくなる。


純喫茶「霧笛」は、そんな時に見つかる店だった。


神戸港近くの古い路地。

派手な看板はない。

けれど、夕方前になると、真鍮のランプと磨き込まれた木の扉が、通りの影の中で静かに浮かび上がる。店内には深煎りのコーヒーと、やや苦いカラメルの香りが漂っていた。


その日、扉のベルを鳴らして入ってきたのは、若い女性二人組だった。


「うわ、めっちゃ雰囲気ある」


「ここ、写真撮ったら絶対かわいい」


二人は北野帰りらしく、手には観光マップと小さな紙袋。服装も洒落ていて、神戸旅行を楽しんでいるのがよく分かる。店内を見渡し、アンティーク調の照明や古い港の写真に目を輝かせた。


そして、カウンターの中に立つ玲奈を見た瞬間、二人とも固まった。


白いブラウスに黒いエプロン。

整った顔立ち。

まっすぐな姿勢。

黒髪をきちんとまとめた、女優のような美人。


ただし、目つきが鋭い。


玲奈は伝票を手に、二人の席へ向かった。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」


声は丁寧だった。

だが、妙に背筋が伸びる。


二人は窓際の席へ座ったものの、さっきまでの観光テンションが少しだけ静まっていた。

一人が小声で言う。


「……美人すぎん?」


もう一人が頷く。


「でも、ちょっと怖い。ドラマで捜査してそう」


玲奈は水を置く。


「ご注文がお決まりになりましたら、お声がけください」


二人は同時に「はい」と答えた。

その返事が、なぜか職員室に呼ばれた生徒のようだった。


カウンターの奥で女主人が小さく笑う。


「玲奈ちゃん、また観光客が緊張してるよ」


「通常通り接客しています」


「通常通りやから緊張するんやろねえ」


しばらくして、二人は霧笛プリンとブレンドを注文した。

玲奈は確認する。


「霧笛プリン二点。ブレンド二点。砂糖とミルクは別添えでよろしいですか」


「は、はい」


「写真撮ってもいいですか?」


その質問に、玲奈は一瞬だけ止まった。


警察官だった頃なら、即座に制限事項を並べていた。

戦隊ヒロインだった頃なら、広報上の扱いを確認していた。

今は喫茶店のウェイトレスである。


玲奈は少し考えたあと、静かに答えた。


「お店の宣伝にもなりますし、節度を持った投稿であれば構いません。ただし、他のお客様が写り込まないようにお願いします。店内での動画配信はご遠慮ください」


二人は目を丸くした。


「めっちゃちゃんとしてる」


「規約みたい」


玲奈は淡々と続ける。


「料理と店内の一部撮影は可能です。人物撮影は許可制です」


二人は顔を見合わせた。


「お姉さんも撮っていいですか?」


女主人が奥でにやりとした。


玲奈はわずかに眉を動かす。


「私ですか」


「はい。あの、無理なら全然」


「節度を持った撮影であれば、一枚のみ可能です」


「一枚のみ!」


「はい」


二人は笑いをこらえながらスマートフォンを構えた。

玲奈はカウンター横に立ち、無表情のまま軽く姿勢を整える。

まるで県警の広報写真か、重要資料の証明写真のようだった。


シャッター音が鳴る。


「すごい……絵になるけど、緊張感もある」


「元警察官っぽい」


玲奈は静かに視線を向けた。


「なぜ分かりましたか」


二人はぎょっとした。


「え、本当にそうなんですか?」


女主人が笑う。


「この子、元警察官で、戦隊ヒロインもやってたんよ」


二人は同時に声を上げた。


「ええっ!」


「情報量多すぎる!」


玲奈はプリンを運びながら言う。


「現在は霧笛で修行中です」


「修行中って、何の修行ですか?」


「カフェ開業のためです」


「かっこよ……」


「人生が映画みたい」


玲奈は返答に困った。

自分の人生を映画みたいと言われるほど、綺麗なものだと思っていない。

だが、二人の目は純粋だった。

北野の坂道を歩き、写真を撮り、偶然入った喫茶店で、少し変わった美人ウェイトレスに出会った。

彼女たちにとっては、それも旅の一部なのだろう。


二人は霧笛プリンを撮影した。

固めのプリン。

艶のあるカラメル。

白い皿。

琥珀色のランプ。

写真に収めると、確かに神戸らしい一枚になった。


そして、一口食べた瞬間、二人は黙った。


「……おいしい」


「え、これ、めっちゃおいしい」


はしゃいでいた声が、少しだけ静かになる。

やや苦めのカラメルが、甘いプリンの輪郭を引き締めている。

見た目の可愛らしさより、ずっと大人の味だった。


玲奈はその反応を見て、少しだけ目元を和らげる。


「霧笛の名物です」


「写真より記憶に残る味ですね」


その一言に、玲奈はわずかに動きを止めた。


写真より記憶に残る。

それは、喫茶店として何より嬉しい言葉なのかもしれない。


二人は店を出る前に、もう一度玲奈へ頭を下げた。


「投稿してもいいですか? お店の名前も出して」


「節度を持った内容であれば」


「動画配信はしません」


「お願いします」


二人は笑って店を出ていった。


その夜、霧笛の名前がSNSに上がった。


神戸港近くの純喫茶、雰囲気最高。

霧笛プリンが大人の味で美味しすぎる。

しかも元警察官で元戦隊ヒロインの美人すぎるウェイトレスさんがいる。接客はめちゃ丁寧だけど、ちょっと取り調べ感ある。


投稿は小さな話題になった。


翌日から、ちらほらと若い客が来るようになる。

「SNSで見ました」

「霧笛プリンください」

「動画は駄目なんですよね?」

そう言われるたびに、玲奈は真面目に頷く。


「はい。店内での動画配信はご遠慮ください」


女主人はカウンターの奥で笑う。


「玲奈ちゃん、人気者やね」


「店の宣伝になっているなら良いことです」


「でも、取り調べ感あるって書かれてたよ」


「改善します」


「いや、もう名物にしたらええんちゃう」


玲奈は少しだけ困った顔をした。


霧笛は、少しだけ変わり始めていた。

常連だけの静かな店から、旅人がふらりと訪れる店へ。

それでも、古いカウンターも、港の写真も、苦いカラメルの匂いも変わらない。


玲奈はその変化を、少し慎重に受け止めていた。

カフェは、誰かの記憶に残る場所になれる。

たとえ最初は写真目的でも、最後に味を覚えて帰ってくれるなら、それでいい。


南の島で自分が開く店も、きっとそうでありたい。


写真より、記憶に残る店。

話題より、帰ってきたくなる店。

誰かが偶然扉を開けて、少しだけ人生の風向きが変わる店。


玲奈はカウンターでカップを磨きながら、まだ見ぬ「カフェしおかぜ」のことを思った。


霧笛の扉のベルがまた鳴る。

新しい客が入ってくる。

玲奈は背筋を伸ばし、いつものように静かに言った。


「いらっしゃいませ」


その声は少し硬く、少し不器用で、けれど以前よりほんの少しだけ温かかった。

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