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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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川平ブルーに、遅すぎた休日を ――リョウちゃん、島を初めて観光する

亮介が南ぬ島に来て、数か月が過ぎた。


「しおかぜ」は、もうすっかり二人体制の店になっていた。厨房に玲奈、ホールに亮介。黒糖プリンを皿へ滑らせる玲奈の手元を見て、亮介が何も言われずにコーヒーを用意する。常連のおばあが入ってくる前に、いつもの席の椅子を少し引く。観光客が地図を広げると、亮介が自然に声をかける。


「平久保岬なら、この道で大丈夫です。ただ、帰りに夕焼けを見るなら少し早めがいいですよ」


その横で玲奈が淡々と言う。


「観光案内は簡潔に」


「はい」


「話が長いです」


「すみません」


常連たちは、それを見て笑う。


「リョウちゃん、玲奈ちゃんに飼いならされてるさぁ」


「業務指導です」


玲奈は即答するが、亮介は少し嬉しそうに笑う。

二人はもう、恋人同士だった。


とはいえ、甘い言葉を交わすわけではない。手をつないで店内を歩くわけでもない。玲奈は相変わらず厳しく、亮介は相変わらず軽口を叩く。けれど、閉店後に二人で同じコーヒーを飲み、翌日の仕込みを確認し、時々、誰もいない店内でほんの少しだけ肩を寄せる。それで十分だった。


ある定休日の朝、亮介がぽつりと言った。


「俺、この島を観光したいんだよね」


玲奈は帳簿から顔を上げた。


「観光?」


「到着したその日から皿下げて、水出して、注文取ってたから。俺、この島のこと、実はほとんど知らない」


玲奈は一瞬だけ黙った。


たしかに、そうだった。

感動の再会もそこそこに、繁忙時間帯の「しおかぜ」に即投入した。そこから数か月、亮介は働き続けた。島の人には馴染んだ。観光客とも話した。けれど、彼自身は島を見ていなかった。


「……それは、かなり問題ですね」


「やっと重大扱いになった」


「では、川平湾に行きます」


「即決?」


「石垣島を知るなら、まずそこです」


その日は、絵に描いたような快晴だった。


車を走らせると、窓の外に南国の緑が流れていく。ハイビスカスの赤が道端に揺れ、サトウキビ畑が風を受けてざわめき、空はどこまでも高かった。亮介は助手席で、子どものように外を見ていた。


「すごいな。島って、道まで明るいんだね」


「表現が雑です」


「でも本当にそう思ったんだよ。神戸とも、門司とも違う」


玲奈は少しだけ目元を緩めた。


「私も、最初はそう思いました」


川平湾に着くと、亮介は言葉を失った。


そこに広がっていたのは、ただの海ではなかった。

白い砂浜。遠浅の水面。光を受けて透き通るエメラルドグリーン。潮の流れに合わせて、青は淡くなり、深くなり、宝石のような緑を帯びる。小さな島影が水面に浮かび、波はほとんど音を立てずに浜へ寄せる。


石垣島屈指の景勝地、川平湾。

観光写真で何度も見たはずの景色なのに、目の前にすると、その美しさはどこか現実離れしていた。


亮介はしばらく黙っていた。


「……これは、反則だな」


「何がですか」


「こんなの、誰でも好きになる」


玲奈は海を見ながら言った。


「でしょうね」


亮介は振り向いて笑った。


「玲奈さん、反応薄い」


「何度か来ています」


「恋人と来るのは?」


玲奈の横顔が、ほんの少しだけ固まった。


「……初めてです」


亮介は、それ以上からかわなかった。

代わりに、少しだけ静かに隣に立った。


グラスボートに乗ると、亮介の静けさは五分で終わった。


船底のガラス窓の向こうに、珊瑚礁が広がる。青や黄色の小魚が群れ、ゆらゆらと光が揺れる。船が進むたびに海底の景色が流れていく。


「うわ、見て! 魚! あの青いやつ!」


「魚ですね」


「いや、もっと感動しようよ」


「しています」


「表情が全然してない」


「私はスキューバダイビングを嗜んでいますので」


「それ言われたら、グラスボートの立場がないなあ」


亮介は笑いながら、またガラス窓を覗き込んだ。


「でも、俺はこれで十分感動してる。海の中って、こんなに静かなんだな」


玲奈は、その横顔を見た。


店で働いている亮介。

被害者に頭を下げる亮介。

帳簿を見て真剣に悩む亮介。

どれも今の彼だった。


でも、川平湾の海に目を輝かせる亮介は、少し違った。

何かを取り戻しているようだった。

罪や返済や過去とは別の場所で、ただ美しいものを見て驚く、一人の男だった。


玲奈は小さく言った。


「来てよかったですね」


亮介は顔を上げた。


「うん。連れてきてくれてありがとう」


玲奈は目を逸らした。


「観光案内です」


「恋人サービスじゃなくて?」


「業務外対応です」


「硬いなあ」


「そこが私です」


亮介は笑った。


昼過ぎには、湾を見下ろす店で冷たい飲み物を飲んだ。観光客の笑い声、カメラのシャッター音、海から上がってくる風。亮介は何度も海を振り返った。


「この景色を見たあとに、しおかぜで黒糖プリン食べたら最高だろうな」


「営業の発想ですね」


「だめ?」


「悪くありません」


「じゃあ川平湾帰りセットとか」


「名称が安直です」


「では、川平ブルーの余韻セット」


「詩的すぎます」


「難しいなあ」


玲奈は、珍しく声に出して笑った。


夕方、二人は美崎町へ向かった。


美崎町は、石垣の夜の中心地だった。夕暮れが落ちる頃、店の灯りが少しずつともり、観光客と地元客の声が混ざり合う。路地には焼き物の香ばしい匂い、島唄の音、グラスの触れ合う音が漂っていた。


二人は石垣牛の店に入った。


石垣牛は、島の太陽と風の中で育った、脂の甘みと赤身の旨さを持つ南ぬ島のごちそうだ。網の上に薄く切られた肉を置くと、じゅっと音が立ち、脂が透明に光る。香ばしい煙がふわりと上がる。


亮介は一口食べて、真顔になった。


「これは危険ですね」


玲奈が箸を止める。


「何がですか」


「働く理由が増えます」


玲奈は少し笑った。


「では、明日からさらに働いてください」


「はい。……喜んで、は言いません」


「学習していますね」


「恋人としては何点ですか」


玲奈は石垣牛を一枚返しながら言った。


「今日のところは、八十点です」


「けっこう高い」


「ただし、グラスボートではしゃぎすぎたので減点」


「そこ減点なの?」


「子どもっぽかったです」


「でも、楽しそうだったでしょ」


玲奈は少し黙った。


「……楽しそうでした」


亮介はそれだけで、嬉しそうに笑った。


「玲奈さんは?」


「何がですか」


「今日は楽しかった?」


玲奈は美崎町の灯りを窓越しに見た。

少しだけ考え、素直に答えた。


「楽しかったです」


亮介は静かに頷いた。


「よかった」


食事のあと、二人は少しだけ夜の街を歩いた。観光客の声が遠ざかり、海からの風が湿った温度を運んでくる。亮介は玲奈の隣を歩きながら、ふと足を止めた。


「今日は、やっと少し、この島に来た気がした」


玲奈は横を見る。


「遅すぎます」


「俺らしいね」


「そこは反省してください」


「はい」


少し沈黙があった。


亮介が言う。


「玲奈さんが、この島で待っていてくれた理由が、少し分かった気がする」


「理由?」


「優しいんだね。この島は」


玲奈は夜風に髪を揺らしながら、静かに答えた。


「優しいだけではありません。台風も来ますし、暑いし、虫もいます」


「現実的だなあ」


「でも」


玲奈は少しだけ笑った。


「帰る場所にするには、いい島です」


亮介は、その言葉を胸にしまった。


帰る場所。

それは、ずっと自分が持てなかったものだった。

そして今、玲奈がここに作ってくれている。


帰り道、車の中で玲奈は珍しく助手席で少し眠そうだった。亮介が運転しながら言う。


「眠っていいよ」


「寝ません」


「信用ない?」


「あります」


「じゃあ寝ていいじゃない」


「……もったいないので」


亮介は少しだけ笑った。


「何が?」


玲奈は窓の外を見たまま、小さく言った。


「休日が」


それは、彼女にしてはかなり甘い言葉だった。


亮介は何も返さなかった。

返すと、きっと照れた玲奈に減点される。


夜の道を、車は「しおかぜ」へ向かって走った。


待つために選んだ島を、今度は二人で歩き直す。

遅すぎた休日は、川平ブルーと石垣牛の香りと、言葉少なな恋人同士の照れくさい沈黙の中で、静かに更けていった。

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