川平ブルーに、遅すぎた休日を ――リョウちゃん、島を初めて観光する
亮介が南ぬ島に来て、数か月が過ぎた。
「しおかぜ」は、もうすっかり二人体制の店になっていた。厨房に玲奈、ホールに亮介。黒糖プリンを皿へ滑らせる玲奈の手元を見て、亮介が何も言われずにコーヒーを用意する。常連のおばあが入ってくる前に、いつもの席の椅子を少し引く。観光客が地図を広げると、亮介が自然に声をかける。
「平久保岬なら、この道で大丈夫です。ただ、帰りに夕焼けを見るなら少し早めがいいですよ」
その横で玲奈が淡々と言う。
「観光案内は簡潔に」
「はい」
「話が長いです」
「すみません」
常連たちは、それを見て笑う。
「リョウちゃん、玲奈ちゃんに飼いならされてるさぁ」
「業務指導です」
玲奈は即答するが、亮介は少し嬉しそうに笑う。
二人はもう、恋人同士だった。
とはいえ、甘い言葉を交わすわけではない。手をつないで店内を歩くわけでもない。玲奈は相変わらず厳しく、亮介は相変わらず軽口を叩く。けれど、閉店後に二人で同じコーヒーを飲み、翌日の仕込みを確認し、時々、誰もいない店内でほんの少しだけ肩を寄せる。それで十分だった。
ある定休日の朝、亮介がぽつりと言った。
「俺、この島を観光したいんだよね」
玲奈は帳簿から顔を上げた。
「観光?」
「到着したその日から皿下げて、水出して、注文取ってたから。俺、この島のこと、実はほとんど知らない」
玲奈は一瞬だけ黙った。
たしかに、そうだった。
感動の再会もそこそこに、繁忙時間帯の「しおかぜ」に即投入した。そこから数か月、亮介は働き続けた。島の人には馴染んだ。観光客とも話した。けれど、彼自身は島を見ていなかった。
「……それは、かなり問題ですね」
「やっと重大扱いになった」
「では、川平湾に行きます」
「即決?」
「石垣島を知るなら、まずそこです」
その日は、絵に描いたような快晴だった。
車を走らせると、窓の外に南国の緑が流れていく。ハイビスカスの赤が道端に揺れ、サトウキビ畑が風を受けてざわめき、空はどこまでも高かった。亮介は助手席で、子どものように外を見ていた。
「すごいな。島って、道まで明るいんだね」
「表現が雑です」
「でも本当にそう思ったんだよ。神戸とも、門司とも違う」
玲奈は少しだけ目元を緩めた。
「私も、最初はそう思いました」
川平湾に着くと、亮介は言葉を失った。
そこに広がっていたのは、ただの海ではなかった。
白い砂浜。遠浅の水面。光を受けて透き通るエメラルドグリーン。潮の流れに合わせて、青は淡くなり、深くなり、宝石のような緑を帯びる。小さな島影が水面に浮かび、波はほとんど音を立てずに浜へ寄せる。
石垣島屈指の景勝地、川平湾。
観光写真で何度も見たはずの景色なのに、目の前にすると、その美しさはどこか現実離れしていた。
亮介はしばらく黙っていた。
「……これは、反則だな」
「何がですか」
「こんなの、誰でも好きになる」
玲奈は海を見ながら言った。
「でしょうね」
亮介は振り向いて笑った。
「玲奈さん、反応薄い」
「何度か来ています」
「恋人と来るのは?」
玲奈の横顔が、ほんの少しだけ固まった。
「……初めてです」
亮介は、それ以上からかわなかった。
代わりに、少しだけ静かに隣に立った。
グラスボートに乗ると、亮介の静けさは五分で終わった。
船底のガラス窓の向こうに、珊瑚礁が広がる。青や黄色の小魚が群れ、ゆらゆらと光が揺れる。船が進むたびに海底の景色が流れていく。
「うわ、見て! 魚! あの青いやつ!」
「魚ですね」
「いや、もっと感動しようよ」
「しています」
「表情が全然してない」
「私はスキューバダイビングを嗜んでいますので」
「それ言われたら、グラスボートの立場がないなあ」
亮介は笑いながら、またガラス窓を覗き込んだ。
「でも、俺はこれで十分感動してる。海の中って、こんなに静かなんだな」
玲奈は、その横顔を見た。
店で働いている亮介。
被害者に頭を下げる亮介。
帳簿を見て真剣に悩む亮介。
どれも今の彼だった。
でも、川平湾の海に目を輝かせる亮介は、少し違った。
何かを取り戻しているようだった。
罪や返済や過去とは別の場所で、ただ美しいものを見て驚く、一人の男だった。
玲奈は小さく言った。
「来てよかったですね」
亮介は顔を上げた。
「うん。連れてきてくれてありがとう」
玲奈は目を逸らした。
「観光案内です」
「恋人サービスじゃなくて?」
「業務外対応です」
「硬いなあ」
「そこが私です」
亮介は笑った。
昼過ぎには、湾を見下ろす店で冷たい飲み物を飲んだ。観光客の笑い声、カメラのシャッター音、海から上がってくる風。亮介は何度も海を振り返った。
「この景色を見たあとに、しおかぜで黒糖プリン食べたら最高だろうな」
「営業の発想ですね」
「だめ?」
「悪くありません」
「じゃあ川平湾帰りセットとか」
「名称が安直です」
「では、川平ブルーの余韻セット」
「詩的すぎます」
「難しいなあ」
玲奈は、珍しく声に出して笑った。
夕方、二人は美崎町へ向かった。
美崎町は、石垣の夜の中心地だった。夕暮れが落ちる頃、店の灯りが少しずつともり、観光客と地元客の声が混ざり合う。路地には焼き物の香ばしい匂い、島唄の音、グラスの触れ合う音が漂っていた。
二人は石垣牛の店に入った。
石垣牛は、島の太陽と風の中で育った、脂の甘みと赤身の旨さを持つ南ぬ島のごちそうだ。網の上に薄く切られた肉を置くと、じゅっと音が立ち、脂が透明に光る。香ばしい煙がふわりと上がる。
亮介は一口食べて、真顔になった。
「これは危険ですね」
玲奈が箸を止める。
「何がですか」
「働く理由が増えます」
玲奈は少し笑った。
「では、明日からさらに働いてください」
「はい。……喜んで、は言いません」
「学習していますね」
「恋人としては何点ですか」
玲奈は石垣牛を一枚返しながら言った。
「今日のところは、八十点です」
「けっこう高い」
「ただし、グラスボートではしゃぎすぎたので減点」
「そこ減点なの?」
「子どもっぽかったです」
「でも、楽しそうだったでしょ」
玲奈は少し黙った。
「……楽しそうでした」
亮介はそれだけで、嬉しそうに笑った。
「玲奈さんは?」
「何がですか」
「今日は楽しかった?」
玲奈は美崎町の灯りを窓越しに見た。
少しだけ考え、素直に答えた。
「楽しかったです」
亮介は静かに頷いた。
「よかった」
食事のあと、二人は少しだけ夜の街を歩いた。観光客の声が遠ざかり、海からの風が湿った温度を運んでくる。亮介は玲奈の隣を歩きながら、ふと足を止めた。
「今日は、やっと少し、この島に来た気がした」
玲奈は横を見る。
「遅すぎます」
「俺らしいね」
「そこは反省してください」
「はい」
少し沈黙があった。
亮介が言う。
「玲奈さんが、この島で待っていてくれた理由が、少し分かった気がする」
「理由?」
「優しいんだね。この島は」
玲奈は夜風に髪を揺らしながら、静かに答えた。
「優しいだけではありません。台風も来ますし、暑いし、虫もいます」
「現実的だなあ」
「でも」
玲奈は少しだけ笑った。
「帰る場所にするには、いい島です」
亮介は、その言葉を胸にしまった。
帰る場所。
それは、ずっと自分が持てなかったものだった。
そして今、玲奈がここに作ってくれている。
帰り道、車の中で玲奈は珍しく助手席で少し眠そうだった。亮介が運転しながら言う。
「眠っていいよ」
「寝ません」
「信用ない?」
「あります」
「じゃあ寝ていいじゃない」
「……もったいないので」
亮介は少しだけ笑った。
「何が?」
玲奈は窓の外を見たまま、小さく言った。
「休日が」
それは、彼女にしてはかなり甘い言葉だった。
亮介は何も返さなかった。
返すと、きっと照れた玲奈に減点される。
夜の道を、車は「しおかぜ」へ向かって走った。
待つために選んだ島を、今度は二人で歩き直す。
遅すぎた休日は、川平ブルーと石垣牛の香りと、言葉少なな恋人同士の照れくさい沈黙の中で、静かに更けていった。




