許しではなく、見届けるために ――再訪した老夫婦と、黒糖プリンの静かな和解未満
数日前の出来事は、「しおかぜ」の空気を少し変えていた。
観光客に胸倉を掴まれた亮介。
「お前たちのせいで老後資金を失った」と怒鳴った老いた男。
隣で震えていた妻。
厨房から飛び出した玲奈。
そして、亮介を必死に庇った常連のおじい、おばあたち。
あの日以来、亮介はいつもより少し静かだった。
笑顔は戻っている。
水も運ぶ。
皿も下げる。
観光客への声かけも上手い。
けれど、ふとした瞬間に手が止まる。
自分の罪は、過去ではない。
誰かの人生に、今も痛みとして残っている。
その現実を、亮介は改めて突きつけられていた。
数日後の昼下がり。
入口のベルが鳴った。
入ってきたのは、あの老夫婦だった。
店内の空気が、少しだけ張りつめる。
亮介の顔も強張った。
玲奈はカウンターの奥で、手を止めた。
常連のおばあたちも、自然と口数を減らす。
男性は亮介を見た。
「また来た」
亮介は深く頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
男性は、少し気まずそうに視線を逸らした。
「この前は……手を出しかけた。悪かった」
亮介は顔を上げなかった。
「当然の怒りです」
「許したわけやない」
「はい」
「ただな……」
男性は、ゆっくり息を吐いた。
「あの日、言いたいことを言うた。あんたも、そこの店主さんも、常連さんたちも、逃げずに聞いた。それで……少しだけ胸が軽くなった」
隣の妻が、小さく頷いた。
「あの夜、久しぶりに眠れました」
玲奈は、静かに水を置いた。
「今日は、どうされますか」
男性は少し迷ってから言った。
「黒糖プリンを二つ」
常連のおばあが、そっと笑った。
「監視に来たんじゃなかったね?」
男性は咳払いした。
「監視や。こいつが逃げずに働いとるか、見に来た」
妻が穏やかに言う。
「でも、プリンも食べたかったんでしょう」
「……まあな」
張りつめていた空気が、少しほどけた。
亮介は、いつもより丁寧に黒糖プリンを運んだ。
手がわずかに震えていた。
「お待たせしました」
男性は、厳しい顔のままスプーンを取る。
一口食べる。
しばらく黙った。
「……悔しいが、うまい」
玲奈が小さく答える。
「ありがとうございます」
男性は亮介を見た。
「金は返ってこん。人生も戻らん」
「はい」
「でも、あんたがここで逃げずに働くなら、島にいる間は見に来る」
亮介は言葉に詰まった。
それは許しではなかった。
だが、拒絶でもなかった。
玲奈が静かに言う。
「監視員が増えましたね」
男性は、少しだけ苦笑した。
「そうや。逃げたらすぐ分かるぞ」
亮介は深く頭を下げた。
「逃げません」
その日から、老夫婦は石垣滞在中に何度か「しおかぜ」へ来るようになった。
毎回、男性は厳しい顔で亮介の働きぶりを見る。
水の出し方。
皿の下げ方。
常連への声かけ。
観光客への案内。
亮介は毎回、誰よりも丁寧に働いた。
「お水、お持ちします」
「黒糖プリン、今日は少しカラメルが深めです」
「段差があります。お気をつけください」
男性はほとんど褒めなかった。
ただ、黙って見ていた。
それでも亮介には分かった。
これは罰ではない。
見張りでもあるが、それだけではない。
この人は、まだ怒っている。
でも、その怒りを抱えたまま、自分が逃げないか見届けようとしてくれている。
それは、亮介にとって想像以上に重く、そして少しだけ温かかった。
滞在最後の日。
老夫婦は、また「しおかぜ」に来た。
いつものように黒糖プリンを二つ頼み、ゆっくり食べた。
会計の時、男性は亮介を見た。
「水の出し方は、まあ悪くない」
それだけだった。
だが、亮介は泣きそうになった。
「ありがとうございます」
男性は目を逸らす。
「来年も、生きてたらプリン食いに来る」
妻が微笑む。
「その時も、ちゃんと働いていてくださいね」
亮介は深く頭を下げた。
「はい。必ず」
老夫婦が出ていったあと、亮介はしばらく扉を見つめていた。
玲奈が隣に立つ。
「許されたわけじゃないのに……少し救われました」
亮介が呟く。
玲奈は静かに答えた。
「許しではなく、見届けてもらうこともあります」
亮介は頷いた。
「俺、逃げられませんね」
「逃げるつもりだったんですか」
「ありません」
「なら大丈夫です」
玲奈は少しだけ目元を緩めた。
「明日も、水を丁寧に出してください」
亮介は、小さく笑った。
「はい」
外では、南ぬ島の風が木製看板を揺らしていた。
黒糖プリンの甘さでは、過去は消えない。
けれど、逃げずに働く日々の中で、誰かの怒りが少しだけ眠れる夜に変わることもある。
「しおかぜ」は、その日も静かに灯りをともしていた。




