しおかぜ、宣伝解禁します ――美人店主は出たくない、気のいいウェイターは前に出る
閉店後の「しおかぜ」は、今日も小さな会議室になっていた。
カウンターの上には、売上ノート、仕入れ表、電卓、そして黒糖プリンの試作品。玲奈は無表情で数字を見つめ、亮介は少し苦い顔で電卓を叩いていた。
「売上は悪くないんです」
亮介が言う。
「悪くありません」
玲奈も頷く。
「ただ……」
「ただ、返済計画にはまったく足りません」
亮介は苦笑した。
慰謝料。養育費。賠償金。
亮介の背負ったものは、黒糖プリンの甘さではごまかせないほど重かった。
「このペースだと、二十一世紀が終わっても返し終わらない可能性があります」
「長期計画にも限度があります」
玲奈は真顔で返した。
「値上げは?」
亮介が一応聞く。
「しません」
即答だった。
「常連のおじい、おばあが来づらくなります。しおかぜは、誰でも気軽にコーヒーを飲める店です」
「ですよね」
亮介はすぐ引いた。
昔の彼なら、限定セットだ、希少性だ、今だけだと言葉を重ねて値段を吊り上げていたかもしれない。だが、今は違う。
「押し売りも、煽り文句も、やりません」
「それは最低条件です」
「厳しいなあ」
「元詐欺師の経営会議です。厳格で当然です」
亮介は少し笑った。
二人は案を出した。
島の中心地への移転。
二号店。
高級セット。
団体予約専門日。
だが、どれも違った。
「中心地へ移れば客は増えます。でも、ここでなければしおかぜではありません」
玲奈は窓の外を見た。
平久保岬へ向かう道。少し不便で、風が強くて、でも海が近いこの場所。
「ここにあるから、しおかぜです」
二号店案も却下だった。
「オペレーションが雑になります」
「玲奈さん、オペレーションって言い方が警察っぽいです」
「店でも重要です」
話は行き詰まった。
その時、亮介が言った。
「閑散期を伸ばしましょう」
玲奈が顔を上げる。
「閑散期?」
「はい。繁忙期は十分来てくれています。でも、冬や平日、天気が微妙な日にはまだ余裕がある。今は二人体制です。受けられる客数は増えています。なら、もっと知ってもらうべきです」
「宣伝ですか」
玲奈の表情が曇った。
玲奈は、目立つことが苦手だった。
かつて県警のポスターに起用され、カラーガード隊として舞台に立ち、戦隊ヒロインとして注目を浴びた。必要だからやった。だが好きだったわけではない。
「私は顔出ししません」
「分かっています」
「インタビューも嫌です」
「それも分かっています」
「写真は後ろ姿まで」
「厳しいですね」
「当然です」
亮介は、少し真面目な顔になった。
「俺が前に出ます」
玲奈は黙った。
「観光情報誌、地元ラジオ、動画配信、取材対応。店主は厨房で黒糖プリンを作る。俺が話します」
「あなたが?」
「はい」
亮介は少しだけ目を伏せた。
「昔は、人を騙すために言葉を使っていました。今度は、ちゃんと店のために使いたいんです。嘘じゃなくて、本当にいいものを、本当にいいと言うために」
玲奈は、しばらく黙っていた。
その言葉には、昔の軽さがなかった。
「……分かりました」
亮介の顔が明るくなる。
「では、しおかぜ広報計画、始動ですね」
「ただし」
「はい」
「過剰表現は禁止。日本一、幻、奇跡、絶対、今だけ、選ばれた人だけ、などは使用不可」
「詐欺広告の禁止リストみたいですね」
「実際そうです」
「監査が厳しい」
「監査役は私です」
「でしょうね」
翌日から、亮介は動き出した。
まずは店の紹介文を作る。
平久保岬へ向かう道沿いの小さな島カフェ。黒糖プリンと深煎りコーヒー。観光客も地元客も、気軽に立ち寄れる場所です。
玲奈は赤ペンを入れた。
「“絶品”が消されています」
「本当に絶品ですよ」
「自称は品がありません」
「じゃあ“評判の”は?」
「可」
次に写真。
玲奈は正面から写らない。
手元、コーヒー、黒糖プリン、窓辺、ハンドメイド雑貨。
亮介はにこやかに写る。
常連のおばあがそれを見て笑う。
「リョウちゃん、看板息子さぁ」
「息子って年齢でもないですよ」
「玲奈ちゃんは看板美人なのに隠れるさぁ」
「隠れていません。厨房にいます」
亮介は地元ラジオの短い取材にも出た。
緊張しながらも、昔の接客経験が生きた。
「黒糖プリンは、店主が毎朝丁寧に仕込んでいます。甘いだけじゃなく、少し苦味があるんです。島の風の中で食べると、ちょうどいい味になります」
ラジオを店で聞いていた玲奈は、小さく呟いた。
「……悪くありません」
常連のおじいが笑う。
「玲奈ちゃん、褒めたさぁ」
「業務評価です」
「好きな男が頑張っとるの見て嬉しいんさぁ」
玲奈はコーヒーを置く手を一瞬止めた。
「注文を確認します」
「逃げたさぁ」
少しずつ、変化は出た。
ラジオを聞いた客。
観光情報サイトを見た客。
「気のいいウェイターさんが紹介していた店ですよね」と言う客。
閑散期の平日にも、ぽつぽつと客が増えた。
それでも、地元客の値段は変えなかった。
黒糖プリンも、いつもの価格のまま。
亮介は言った。
「このやり方なら、しおかぜを壊さずに広げられるかもしれません」
玲奈は頷く。
「今のところ、八十点です」
「高い」
「ただし、ラジオで“島の風がちょうどいい味にする”は少し詩的すぎます」
「そこ減点ですか」
「恥ずかしいです」
「店主が恥ずかしがるところまで含めて宣伝になります」
「却下」
閉店後、二人はまた帳簿を広げた。
売上は少しだけ上がっていた。
借金返済にはまだ遠い。
でも、前よりは確かに前進していた。
玲奈は静かに言った。
「亮介さん」
「はい」
「宣伝解禁は、継続します」
亮介は笑った。
「了解しました」
「ただし、次回の取材原稿も事前確認します」
「もちろんです」
「過剰表現は禁止」
「分かっています」
「顔出しはあなた」
「はい」
玲奈はコーヒーをひと口飲み、少しだけ目を細めた。
「私は黒糖プリンを作ります」
亮介は頷いた。
「俺は、それをちゃんと伝えます」
南ぬ島の夜風が、木製看板を揺らした。
「しおかぜ」は変わり始めていた。
値上げせず、場所も変えず、二号店も出さず。
ただ、この小さな店の良さを、少しだけ遠くへ届ける。
美人店主は前に出たくない。
気のいいウェイターは前に出る。
そして二人の経営会議は、まだまだ続く。




